40.強化合宿の幕開け
8月下旬。
全国の中学生サッカープレーヤーたちが己のすべてを懸けて戦った【全国中学校サッカー大会】が幕を閉じたその数日後。
神奈川県の某所。広大な敷地と最新のピッチを複数面有する、日本サッカー協会が指定する育成年代の強化合宿施設へ向かう蹴太の姿があった。
日本全国の数多の中学生プレーヤーの中から、たった26名だけが選び抜かれた【U―15日本代表】の選手たちであるその一角を蹴太は担っている。
9月1日に開幕するU―15ナショナルチャンピオンシップ。日本で開催されるこの国際大会に向けて、蹴太はここで2週間に及ぶ過酷な強化合宿を行うことになっていた。
(ここか・・・ここで2週間の合宿。流石に緊張するな)
見上げるほどの立派な施設と、綺麗に刈り込まれた緑の絨毯のような天然芝のピッチ。日本のトップクラスの選手たちが血の滲むような鍛錬を積むための完全なる隔離施設。
普段はどんなプレッシャーの中にあっても冷めた顔を崩さない蹴太であったが、今回ばかりは胸の奥でドクン、と心臓がいつもより少しだけ大きく跳ねるのを感じていた。
それもそのはず。蹴太はただの【公立中学の部活生】に過ぎない。しかも葛田という無能な大人のエゴによって夏の大会のピッチに立つことすら理不尽に奪われ、本来なら今頃は健一たちと共に赤鳳学園への受験勉強に専念しているはずの時間。
しかしあの白豪学園戦で見せた50メートルの独走が、日本サッカー協会のナショナルダイレクター・柳野隆二の目に留まり、運命は激変した。
【日本を頼む】。その重い言葉と共に開かれた世界への扉。
日の丸を背負うという重圧、そして日本中のエリートたちが集うこの場所に、何の実績も持たない自分が立っているという事実。蹴太がわずかな緊張の面持ちで施設の入り口を見上げていると不意に背後から声がかかった。
「おっ! やっぱり来たな!」
「・・・ちっ!」
振り返るよりも早く蹴太は舌打ちをこぼした。その声の主が誰であるか、聞くまでもなかった。
「おいおい! 今は味方だろ!?」
苦笑しながら歩み寄ってきたのは190センチを超える長身のハーフ、ヤンセン・大河だった。東京カイザースのユースに飛び級で所属し、【世界に届く逸材】と称されるこの世代の絶対的な怪物。そしてそのヤンセンの両脇には、見覚えのある顔が二つ並んでいた。
「いいね、いいねぇ! 俺はもうワクワクしてるぜ! な? 颯太!」
「・・・ふん!」
白豪学園中等部のキャプテンにして絶対的司令塔の九条隼人と、エースストライカーの武雄颯太。
九条は蹴太の姿を見つけるなり、全く遠慮のない足取りで距離を詰め、蹴太の首にガシッと気安く腕を回して肩を組んできた。
「嬉しいぜ、神野! 夏の大会はさ、なんか出られなかったみたいだけど、こうしてまた同じピッチに立ててよ!」
九条のその言葉に悪気は一切ない。純粋にかつて自分たちをギリギリまで追い詰めた強敵と、再びサッカーができることを心底喜んでいる、生粋のサッカー少年の顔だった。
青下・松野川合同チームの悲惨な現状や葛田の暴力事件の動画は、サッカー界隈でも瞬く間に広まっていた。九条たちも当然、蹴太がどんな理不尽な目に遭って夏を終えたのかは知っているはずだった。だからこそ、こうして代表という最高の舞台で再会できたことを無邪気に喜んでいるのだ。だが、蹴太にとっては暑苦しいことこの上ない。
「うるさい。暑い。離れろ」
蹴太は鬱陶しそうに九条の腕を振り払った。
「ハハッ! そうこなくっちゃ!」
九条は振り払われても全く気にする素振りを見せず、ニカッと白い歯を見せて笑う。
その横で武雄颯太は蹴太を鋭く睨みつけていた。春季大会で蹴太に完全に格の違いを見せつけられた武雄にとって、蹴太は絶対に越えなければならない因縁のストライカーだった。
三人を加えた蹴太たちはそのまま合宿所のクラブハウスの受付へと向かった。
JSAのスタッフからルームキーと支給品の入ったバッグを受け取り、それぞれの部屋へと向かう。この合宿所は基本的に二人一部屋の相部屋となっている。
蹴太は渡されたカードキーの番号を確認し、長い廊下を歩いて指定された部屋のドアを開けた。
「・・・はぁ」
蹴太は部屋に入るなり、深々とため息をついた。
「お前と同部屋かよ。幸先が悪いな」
「そういうな。よろしく頼むぜ、蹴太」
部屋の奥のベッドに荷物を放り投げていたのは他でもないヤンセン・大河だった。そして蹴太はため息をつきながらも、自分のベッドの上にスポーツバッグを置いた。
「ほら、さっさと着替えてピッチに行くぞ。もう他の連中も集まり始めてる頃だ」
ヤンセンはすでに支給された練習用のウェアに腕を通し終えていた。
蹴太もバッグを開け、事前に送られていたサイズ指定通りの代表の練習用ユニフォームを取り出す。紺色を基調とした、機能性の高いウェア。胸元には日本サッカー協会の象徴である八咫烏のエンブレムが誇らしげに輝いている。
(これが・・・代表のウェアか)
蹴太は静かにそれに袖を通した。生地は軽く、身体に吸い付くようにフィットする。だが、その軽さとは裏腹に、日本を背負うものの重さがじんわりと肌越しに伝わってくるような気がした。しかし、ふと蹴太はある違和感に気づいた。
(・・・背番号がないな)
支給されたウェアの背中には通常あるはずの番号が全く印字されていなかった。胸にも、パンツにもない。ただの無地の紺色だ。
(合宿初日だからまだ決まってないのか?)
疑問を抱きながら蹴太はスパイクを手に取り、ヤンセンと共に部屋を出て併設されている天然芝のピッチへと向かった。
■■
「もう結構集まってるみたいだな」
「だな」
ピッチに到着すると、そこにはすでに十数人の選手たちが散らばっており、思い思いにウォーミングアップやストレッチを行っていた。
集まっている彼らの動きの一つひとつから洗練された基礎技術の高さと、己の腕一つでここへ這い上がってきたという強烈な自負がひしひしと伝わってくる。
だが、ヤンセンがピッチの芝を踏みしめた瞬間。見えない波紋が広がるようにピッチの空気が一変した。
(・・・全員ヤンセンの方を見た。まぁ、そうか。俺らの世代の傑物だもんな)
蹴太は周囲の視線の動きを冷静に観察していた。
ストレッチをしていた者もリフティングをしていた者も、一斉に動きを止め、あるいは横目でヤンセンの巨大なシルエットを捉えていた。
【東京カイザースユースのヤンセン・大河】
このU―15世代において彼を知らない者はいない。飛び級でユースの練習に参加し、すでに上の世代と渡り合っている絶対的なディフェンダー。ここに集まったエリートたちにとって、彼は明確な目標であり、同時に自分たちの現在地を測るための巨大な壁だった。
「どうする? 隼人たちはまだ来てないみたいだけど、一緒に走るか?」
ヤンセンが周囲からの畏敬の念など全く意に介さない様子で蹴太に提案してきた。
「あぁ、まぁそうだな。身体温めておくか」
蹴太がスパイクの紐を締め直し、仕方なくヤンセンと共にジョギングを始めようと立ち上がった時だった。
「おい! ヤンセン!」
背後からやけに威勢のいい、そしてコテコテの関西弁が飛んできた。
ヤンセンが「ん?」と振り返る、そこには鋭い目つきをした選手が立っていた。
「俺はなにわのブルースター、青星俊や! 大阪ユナイテッドジュニアユース所属、なにわ最速の右サイドバック! 世代ナンバーワンのディフェンダーはこの俺やからな!」
青星と名乗ったその男はヤンセンの巨体を前にしても一切怯むことなく、むしろ見下ろすかのように堂々と胸を張って自己紹介を叩きつけた。
「・・・そうか」
ヤンセンはそのあまりにも絵に描いたようなテンプレの関西人のノリに戸惑い、一瞬だけ面食らったように言葉を詰まらせた。
「何やその薄い反応! ともかく! 世代ナンバーワンのこの俺が一緒に直々にウォーミングアップを手伝ってやろうやないか! 光栄に思えよ、ヤンセン!」
青星はそう言うと無理やりヤンセンの横に並び立ち、腕を組んでみせた。明らかにヤンセンを強烈にライバル視しており、初日からマウントを取りに来ているのが見え見えだった。
ヤンセンは困ったような顔をして助けを求めるようにちらりと蹴太を見た。
「あぁ・・・俺は・・・」
「どうぞご勝手に」
蹴太はヤンセンの視線を完全に無視し、青星の存在など最初から見えていなかったかのように、一人でさっさとピッチの外周へと走り出していった。
「あ、おい! 蹴太!」
背後でヤンセンが恨めしそうな声を上げていたが、蹴太は振り返らなかった。他人のマウントの取り合いなど関わるだけ時間の無駄だった。
そして蹴太は一人でピッチの外周をゆっくりと数周走り、心地よい汗をかいた後、ピッチの隅で入念なストレッチを始めた。
新しいスパイクの感触はいい。筋肉の張りもない。いつでもトップスピードに持っていける完璧な状態。そうやって足首を回していると、今度は静かに近づいてくる足音があった。
「神野」
「あぁ? ・・・! 鵜飼・・・」
声をかけてきたのは明石SCのキャプテンであり、左サイドバックの鵜飼朝陽だった。
春季大会のリーグ戦で死闘を演じた男。地域トレセンの常連であり、圧倒的才能を持つ男。そんな朝陽は蹴太の横に静かに腰を下ろすと同じように開脚のストレッチを始めた。
「お前なら選ばれると思った。いや、選ばれないといけないと思ってる」
朝陽は前を向いたまま静かにそう言った。
無名の部活動の選手がここにいることへの驚きは朝陽の顔には微塵もなかった。蹴太がどれほどの化け物であるか、彼はピッチの上で直接味わっている。
「・・・どうもな」
蹴太は短く返し、そして少しだけ間を置いてから朝陽の横顔を見た。
「んで、俺もお前に会ったら、言いたいことがあった」
「なんだい?」
朝陽が不思議そうに視線を向ける。
「お前と戦えたから今の俺がある。ありがとな」
蹴太は真っ直ぐにそう言った。あの日、試合後の自動販売機の前での会話。
『サッカーは残酷なまでに不平等だ。勝ちたいなら、使えるものは全部使う』
『君は最高のFWだ。だから、自分を信じてくれ』
元FWでありながら、決定力という才能を持たなかった朝陽のあの重い言葉があったからこそ、蹴太は神から与えられた力を拒絶することなく自分の武器として受け入れ、ストライカーとして完全に目覚めることができた。
その言葉を聞いた朝陽は一瞬、予想外の言葉に目を丸くして驚いた顔をした。自分がかけた言葉、蹴太の中でどれほど大きな意味を持っていたのか、彼は完全には理解していなかった。だがすぐにその表情は清々しい、混じり気のない笑顔へと変わった。
「・・・いえ、どういたしまして」
朝陽はそれ以上深く聞かず、ただ蹴太の感謝を素直に受け取った。
二人の間には互いの実力を認め合うストライカーとディフェンダーとしての、静かで熱い連帯感がそこにあった。
そのまま朝陽と一緒にストレッチを続け、ピッチ上の選手たちがそれぞれ十分に身体を温め終えた頃だった。
午後2時。
ピッチの入り口から数名のスタッフを引き連れた一人の男性が歩み出てきた。
年齢は三十代前半。細身だが無駄のない筋肉質な身体つきで、鋭い眼光と、どこか人を寄せ付けないようなピリピリとした威圧感を全身から放っていた。
「全員集合」
拡声器も使わず、ただ地声を張っただけの一言。だが、その声にはピッチ上のすべての雑音を掻き消すような確かな重みがあった。
全国から集まった26名のエリート中学生たちは本能的にその男のただならぬ気配を察知し、規律よく、素早く男の前に整列した。そして男は、並んだ26名の顔を端から端までまるで値踏みするようにねっとりと、そして冷たく見渡した。
「俺の名前は久森涼介。お前らU―15世代の日本代表の監督をすることになった」
久森と名乗ったその男の言葉に選手たちの間にわずかな動揺が走った。
(久森・・・知らねぇな)
蹴太も内心で首を傾げた。有名な元日本代表選手ではない。聞いたことのない名前だ。
「ここにいる大半、もしかしたら全員が俺の名を知らないかもしれない」
久森は選手たちの戸惑いを鼻で笑うようにして言った。
「なにせ、俺はJリーグでは一度もプレーしてないからな」
その言葉に今度は明確な驚きの声が一部の代表メンバーから上がった。
日本の育成のトップを任される人間が国内のトップリーグすら経験していないというのは、明らかに異例中の異例だった。しかし久森はメンバーの反応を完全に無視して話し続けた。
「俺は二十代後半まではスペインでプレーをしていた。まぁ、華やかな1部リーグではなく、泥臭く下部リーグの地べたを這いずり回っていたがな。んで、致命的な怪我をして引退に追い込まれた」
久森は自分の右膝をポンと叩いた。
「だが、俺は海外に出て骨の髄まで知った。日本は弱すぎるとな」
代表メンバーたちは息を呑んで久森の言葉を聞いていた。
「海外の、明日食う飯のためにボールを蹴るような連中に揉まれ、本物の絶望を味わってきた俺からすれば、日本のサッカー環境なんてのは吐き気がするほどの【ぬるま湯】だ」
久森の目がギラリと光った。
「実力ではなく、顔の造形の良さや所属しているクラブのブランド価値、指導者への媚びへつらいでサッカー選手の評価が決まる。それが今の日本の育成の現状だ」
久森はそう言うと怒りで表情をこわばらせた。
「そんなのクソだ。いや、クソ以下だ」
グラウンドの空気が完全に凍りついた。
誰も一言も発せない。U―15日本代表の監督が自分たちを育ててきた日本のサッカー環境そのものを全否定したのだ。
だが蹴太だけは違った。
(・・・へぇ)
蹴太は内心で小さく笑っていた。
葛田のような、生徒を己の保身と出世のための道具としか見ていない無能な大人。肩書きだけで判断され、本当に血反吐を吐いて努力している者が報われない不条理。
蹴太はそれをつい数ヶ月前に嫌というほど味わわされたばかりだった。だからこそ、久森の吐き捨てるような怒りの言葉が妙に腹の底にストンと落ちた。
さらに久森はここに来て一番強い口調で叫んだ。そして鋭く、覚悟を持った目で26名の代表選手たちを睨みつける。
「お前らが今着ている練習ユニフォームには、あえて背番号をつけていない。誰が10番か、誰が9番か、そんな過去の肩書きや実績など俺のピッチでは何の意味も持たないからだ」
久森は自分の胸をドンと叩いた。
「背番号を、そしてスタメンの座を己の実力と手で俺から奪い取れ」
「ど、どういう意味ですか?」
たまらず声を上げたのは、関西人の青星だった。
「どうやって実力を判断するって言うんですか?」
その問いに対し、久森はニヤリと悪魔のような笑みを浮かべて応えた。
「これからの2週間、お前らにはひたすら【試合】だけをしてもらう。基礎練も、フィジカルトレーニングも一切やらない。その結果を見て、俺が独断と偏見でスタメンを決める。それだけだ」
「チ、チーム練習とかは・・・戦術の確認とかはしないんですか!?」
青星が慌てて食い下がる。代表チームとして集まった以上、連携を深めるための戦術練習は必須のはずだ。
「いらん」
久森は一刀両断に切り捨てた。
「そもそも今日会ったばかりのお前らが、たった2週間ですぐにクラブチームみたいに阿吽の呼吸で連携が取れるか? そんな浅い連携など、世界の猛者相手には1秒で粉砕される。俺のチームに必要なのは綺麗なお遊戯じゃない」
久森は全員を指差すように腕を振った。
「必要なのはピッチの上で【個】として示す圧倒的な実力。そして目の前の相手に【絶対に勝つ】という殺気を持った奴だけだ」
久森の極端すぎるまでの実力至上主義の言葉に、青星は言葉を失い、押し黙った。
他のエリート選手たちも、これまで当たり前のように経験してきた【手厚く丁寧に指導され、戦術を教え込まれる】という恵まれた環境とのあまりの違いに目を泳がせ、明らかな動揺と困惑を見せている。しかし久森は彼らにそれ以上の質問を許さないとばかりに、時計を一瞥して指示を出した。
「今は14時だ。一時間後の15時ちょうどから、この26名を紅白に分けて、早速試合形式の実力確認を行う。それまで各自準備してピッチに残れ。じゃあ、解散だ」
久森はそう言うと反論も質問も一切受け付けず、スタッフたちを連れてさっさと施設へと戻っていった。そして取り残されたピッチの上には重い沈黙と、選手たちのざわめき、そして隠しきれない動揺だけが残されていた。
「チーム練習なしでいきなり試合かよ・・・」
誰かがぼそっとつぶやいた。そんな不満と不安の渦の中で、蹴太だけはうつむいて肩を小刻みに震わせていた。
不安や恐怖からではない。心の底から湧き上がる、抑えきれないほどの歓喜と高揚感からだ。
(・・・面倒くさい事を全部ガン無視して、純粋な剥き出しの【個の実力】だけで評価を下す。しかも2週間ずっと実戦の連続)
これ以上ない、最高の舞台設定だった。
神から与えられた圧倒的なステイタス。ストライカーとしての覚悟。それを日本のトップレベルの選手たちを相手に何の遠慮もなく、思う存分に叩きつけることができる。
蹴太はゆっくりと顔を上げた。その瞳にはヤンセンと対峙した時と同じ、静かだが、確かな熱が宿っている。そのため口角が自然と深く吊り上がっていた。
(へぇ・・・面白いじゃん!)
こうして26人の代表選手たちが集うU―15サッカー日本代表の合宿が幕を開けた。




