37.葛田の思惑と潰される未来
「さぁって! 今日も張り切っていくぞぉ!」
「おい、張り切り過ぎて大会前に怪我だけはすんなよ」
「へいへい!」
自転車を駐輪場に押し込みながら、健一はいつも通り騒がしかった。
6月の空気は日に日に湿度を増し、じっとりとした暑さを帯びている。それでも青下中学のサッカー部員たちの足取りは驚くほど軽かった。
夏の大会まであと二週間。
あの春季大会での白豪学園戦の敗北から、練習の質は明らかに、そして劇的に変わっていた。誰も手を抜かない。どれだけ走らされても誰も文句を言わない。一回戦であの絶対王者の白豪学園をギリギリまで追い詰めたという確かな事実が、全員の背中を力強く押していた。
(・・・悪くねぇな)
蹴太は前を行く仲間たちの頼もしい背中を見ながらそう思う。しかし、そこへ。
「蹴太!」
その名を鋭く呼ぶ声がグラウンドの方角から飛んできた。
「おぅ。どうした吉峰? そんなに急いで?」
全速力で駆けてきた春樹が蹴太たちの前で急停止する。膝に手をつき、肩で大きく息をしていた。ウォーミングアップの直後にしては、明らかに様子がおかしかった。
「おいおい! 春樹、どうしたんだよ!?」
「なにかあったのかい?」
健一と蒼空斗が同時に覗き込む。
「ハァ、ハァ・・・あぁ! ちょっとな」
春樹は数秒かけて荒い呼吸を整えた。そして顔を上げた時、その表情は今まで見たことがないほど青ざめて硬かった。
「蹴太のところの・・・青下中学のサッカー顧問って言い張る、葛田ってやつが来た」
■■
時は蹴太たちが松野川中学に到着する30分前。
「青下のみんなが来るまでに、ウォーミングアップを済ますぞ!」
「「「「「はい!」」」」」
いつも通りの活気ある光景だった。
松野川中学のグラウンドでは先に集合したメンバーが外周を黙々と走り込んでいる。居舘はその横でストップウォッチを片手に一人ひとりの走りのフォームを真剣な顔で見ていた。
そこへその男は現れた。
「ほぉ・・・頑張ってますな」
「! 葛田先生・・・」
居舘は振り返り、驚きの表情を浮かべた。だがすぐにその感情を隠して正面に立ち直す。相手は仮にも同じ立場の教員であり、そして名目上は合同チームの片翼を担う青下中側の顧問だからであった。
「葛田先生、今日はどんなご要件で?」
居舘の内心では嫌な予感しかしなかった。
この1年、居舘がこの男と交わした会話は必要な事務連絡を含めても片手で数えられる程度。書類にどうしても必要なハンコを押してもらう時ですら、露骨に面倒くさそうな顔をされた。
そんな事なかれ主義の人間がわざわざ他校のグラウンドまで足を運んできている。背中にじっとりと冷や汗が湧き出る。
「そんなの決まっているじゃないですか」
葛田はハンカチで首筋の汗を拭いながら薄ら笑いを浮かべて答えた。
「【私の】サッカー部の様子を見に来た。それだけですよ」
「!」
居舘の表情が完全に固まった。私の、サッカー部。その言葉をこの男が使ったのは結成から今まで一度も聞いたことがなかった。
去年からずっと合同チームの練習にも、大会の試合にも、一度たりとも顔を出さなかった男。葛田は去年からさらに肥えた腹を揺らしながら居舘の前へと歩み出た。
「あれがサッカー部ですか。いやはや、熱心に練習とは。泣けますな」
その口調に感動の色は微塵もなかった。
「・・・葛田先生。『私の』サッカー部とはどういう意味ですか?」
居舘の声がわずかに低くなる。葛田はゆっくりと振り返り、ニチャッとした粘着質な笑みを浮かべた。そして、外周を走っていたメンバーもその不穏な空気を確実に感じ取っていた。
見知らぬ太った男。硬直したまま動かない居舘。不審に思うには十分だった。
「・・・みんなは続けて走っていてくれ。俺が様子を見てくる」
春樹はそう言うと列から外れて、一直線に二人のもとへ向かった。そして辿り着いた時、聞こえてきたのは居舘の絞り出すような声だった。
「あなたは・・・何を言っているのですか・・・」
「はて? 聞こえなかったのですか?」
葛田は心底不思議そうに大げさに首をかしげた。
「次の夏の大会での青下・松野川合同チームの顧問は私がやります。あなたはもう参加しなくて大丈夫ですと言ったんですよ」
「えっ!?」
思わず春樹の声が漏れた。その瞬間、居舘の顔に「まずいものを見られた」という表情が走る。そして葛田は春樹を一瞥し、露骨に面倒くさそうな顔をした。
「君は・・・松野川の生徒かね?」
「・・・はい。合同チームのキャプテンをしています、吉峰春樹です」
「そうかそうか。じゃあ今までご苦労だった」
葛田はまるで日直の当番でも交代させるような軽さで言った。
「君はもう今日限りでキャプテンを外れて大丈夫だ」
「はぁ!?」
「・・・居舘先生ぇ」
葛田は春樹を無視し、居舘へ向けてわざとらしくため息をついた。
「松野川の生徒は大人への口の聞き方がなっとらんのではないかね?」
春樹は何も理解できないという表情のまま立ち尽くしていた。自分がキャプテンであることは誰かに与えられた名ばかりの役職ではない。
去年、部が消えかけた時。もう何も残らないと思われた時。それでも「全国を目指したい」と言い張って職員室で頭を下げ続けた。一人ずつ声をかけて練習に取り組んだ。健一とも話し合い、健一から託された。
その1年の血の滲むような積み重ねの結果としてこの腕章はそこにあった。それが今、初対面の男にたった一言で理不尽に剥ぎ取られようとしている。
(・・・なんで)
怒りよりも先に言葉が出てこなかった。そして葛田はもう春樹に興味がないとばかりに居舘へ視線を戻した。
「じゃあそういうことで。あっ、名義変更などの面倒な手続きは君がやってくれたまえ」
「ちょっと待ってください!」
居舘が一歩強く踏み出す。
「・・・なにかね?」
「合同チームはうちの松野川中学が大会登録含め、全面的に面倒を見るって話だったじゃないですか・・・」
去年、そう取り決めたはずだった。
不祥事の責任も、事務手続きの煩雑さも、遠征の引率も、すべて松野川側が負う。だから名前だけ貸して合同チームの許可を出して欲しいと頼み込み、それを二つ返事で承諾したのは他ならぬこの男だった。
「そうでしたっけ?」
葛田はまったく悪びれずにすっとぼけた顔で答えた。
「私は両校で『交互に見ましょう』と言ったつもりですが?」
「ばっ・・・」
居舘の口から激しい罵倒が飛び出しかけた。だが寸前で無理やり飲み込む。
視界の端に春樹がいた。そして少し離れた場所には走りながら不安そうにこちらを窺っている生徒たちがいる。
(・・・ここで俺が怒鳴ったらこのチームは完全に終わりだ)
居舘は拳を白くなるほど強く握りしめ、必死に感情を殺した声で言った。
「すみません。ここには生徒たちもいます。あとの話は応接室でお願いできますか・・・」
「うむ。構わんよ。手短にな」
葛田はハンカチで額を拭きながら悠々と校舎へ向かって歩き出した。
「・・・居舘先生」
「心配するな! ここは俺に任せておけ!」
居舘は春樹を振り返り、精一杯の引きつった笑顔を作った。そしてその憎き背中を追っていった。
■■
「マジかよ・・・」
「うそでしょ・・・」
春樹の話を聞き終えた青下中学の面々は揃って言葉を失っていた。
「やっぱり、青下のみんなも知らなかったのか・・・」
春樹が深く肩を落とす。青下側から何か聞いていないかという、わずかな期待も潰えた。
「当たり前だろ! そんなふざけた話、俺らも何も聞いてねぇぞ!」
健一が声を荒げた。
「そうだね。あの先生は俺らの話どころか、そもそも俺たちに全く興味ないと思っていたよ」
蒼空斗の静かな言葉に青下の全員が頷く。
去年、部が存続の危機に陥った時。現三年生だけになりかけた時。あの男は一度も助け船を出さなかった。
(ちっ!)
蹴太は舌打ちを噛み殺した。
(前からなんか嫌な感じしていたが、マジで余計なことを!)
校門で蒼空斗に声をかけていた、あの日の光景が蘇る。あの時感じた薄気味悪さの正体が今ようやく形を持って現れたのだ。
「と、ともかく! 全員で一旦話し合おう!」
健一が怒りで拳を握った。
「葛田の好きにはさせん!」
そう叫ぶと、健一は全速力でグラウンドへ駆け出した。蹴太たちもその後に続く。だが、グラウンドに着いた時にはすでに遅かった。
「! 青下のみんな・・・」
グラウンドの中央には居舘が力なく立っていた。その顔は明らかに血の気が引いている。そしてその隣には松野川のメンバー全員を整列させた葛田がいた。
「なんだ、お前たちか。ちょうどいい。俺から発表がある」
蹴太たちは松野川のメンバーと合流し、睨むように葛田を見た。
20人近い敵意のある視線が突き刺さっている。だが葛田はまるで意に介さなかった。そして咳払いを一つし、ニチャッとした笑みを浮かべる。
「今日からこの青下・松野川合同チームは、俺が引き受けることになった」
「「「「「!!!!!」」」」」
ざわめきが走る。
「それに伴い、メンバーもいじる」
葛田は続けた。
「まずうちの・・・青下の、去年強制退部となった二年生を入れる」
「はぁぁぁぁぁ!」
真っ先に反応したのは健一だった。
その【二年生】が誰を指すのか、この場の全員が知っている。去年、大規模な集団万引き事件を起こし、部を存続の危機に追い込んだ張本人たちだった。そして健一の怒号に葛田は苛立ったように睨んだ。
「俺に文句か?」
「当たり前だろ! あいつらは!」
「お前は過ちを犯した二年生に【償いの機会】を与えないつもりか?」
「!」
健一の言葉が、喉の奥で詰まった。
「あいつらから俺に泣いて直談判があったんだよ。深く反省した、もう一度償いの機会を与えて欲しい、とな」
葛田はゆっくりとまるで演説のように言葉を紡ぐ。
「それに応えるのは、教師の役目だろ?」
「・・・くっ!」
正しさの皮を被った、反論を許さない理屈だった。
これ以上反論すれば、健一自身が【反省した生徒の未来を潰そうとする、心の狭い残酷な人間】に仕立て上げられる。葛田は最初から、そういう逃げ道のない構造を、悪意を持って組み上げて喋っていた。
「もしお前が俺の采配を気に食わないというなら、悪いがベンチには入れない。チームの和を乱すからな」
「えっ!」
「葛田先生!」
たまらず居舘が声を上げた。
「居舘先生。これはうちの青下中学の生徒の問題だ。外野は首を突っ込まないでもらいたい」
「・・・」
居舘は黙るしかなかった。健一は青下中学の生徒。その処遇を決める権利は、形式上、確かに青下の顧問である葛田にある。
「もし異論がある者は手を上げてみろ!」
葛田は半ば威圧するようにそう言い放った。
誰も動かない。
動けるはずがなかった。ここで手を上げれば、健一と同じ扱いを受ける。夏の大会は三年生にとって負ければ終わりの最後の大会なのだ。
だが。すっ、と。一本の手が上がった。
蹴太だった。
(・・・ここで反論しても無駄だ)
【生徒のため】【教育のため】という耳障りのいい正義の言葉を盾にして、実際に守っているのは己の保身と出世ルートだけだと感じていた。まともに正論をぶつければぶつけるほど、相手は余裕の笑みを浮かべて【聞き分けのない可哀想な子供】というラベルをこちらに貼り付け、一方的に処理して終わる。そう考えた。
(こいつは自分の行動が絶対に正しいと信じ込んでいる狂信者じゃない。自分の行動が周囲から【どうすれば正しく美しく見えるか】を計算し尽くしてやってる、一番タチの悪いタイプのクズだ)
そういう相手には感情は通じない。そう思った。
(なら)
「葛田・・・先生」
「ん?」
「健一も出ないし、居舘先生も出ないなら、俺もベンチから外してもらっていいですか?」
その言葉に合同チームのメンバーが一斉に息を呑んだ。居舘の顔からも完全に色が消える。
「蹴太、お前・・・」
健一が何か言いかけたが蹴太は振り返らなかった。
「えっと・・・神野だったか?」
葛田は数秒考えるように蹴太を見て、そして完全に興味を失ったように鼻を鳴らした。
「まぁいいだろ。お前はその時間、勉強でもして開進高校でも目指せ」
「・・・はい」
蹴太の目に光はなかった。そこにあったのはただ冷たい虚無だけだった。
自分がこのチームの中心だという自覚くらいはある。だから自分が抜けると言えば、少しは焦って考え直すかもしれないと心のどこかで思っていた。だがこの男は考えもしなかった。
(・・・そうかよ)
サッカーの勝ち負けなんてこの人にとってはどうでもいいのだった。誰が上手いかも、誰が血反吐を吐いて積み上げてきたかも、何一つ見ていない。ただ【崩壊した部活を立て直した顧問】という美しい肩書きだけが欲しいだけだった。そのため、ここで争っても無駄だと蹴太は完全に理解した。そしてその姿を見て、松野川のメンバーが次々と抗議の手を上げようとした。だが・・・
「・・・」
春樹が厳しい視線だけでそれを制した。そして自分がゆっくりと手を上げる。
「居舘先生は俺が頼んだ俺たちの顧問です」
まっすぐに葛田を見て春樹は言った。
「居舘先生はこのチームに絶対に必要です。考え直してはくれませんか?」
「おま・・・君、名前は?」
「・・・吉峰です」
さっき名乗ったはずだった。覚えられてすらいなかった。
「よし、じゃあ吉峰君。君もベンチから外れなさい」
「・・・はい」
春樹は押し黙った。その拳が白くなるほど強く握られている。そして次に蒼空斗が静かに手を上げようとした。しかしその手を蹴太がガシッと掴んだ。
(! 蹴太・・・)
蹴太、首を横に振った。
「ではこれ以上時間を取るのはもったいないので、これで失礼するよ。細かい連絡はまた後で」
葛田は満足げに踵を返し、そして思い出したように付け加えた。
「あぁそうだ。今後、松野川側が青下のグラウンドに来るように」
ハンカチで汗を拭きながらその大きな背中が遠ざかっていく。グラウンドに残ったのは絶望的な沈黙だけだった。
■■
「こんなのって・・・」
明里が両手で口元を押さえた。
「あいつ・・・なんのために・・・」
健一が地面を睨んだままうなだれる。
「あいつの昇進のためだと思う」
蹴太が静かに口を開いた。
「えっ?」
「俺たち合同チームは結果を残した。春季大会を優勝した白豪の喉元に迫った。だが、それがあいつの行動につながったと思う」
「・・・」
「不祥事を起こして一時期は存続も危ぶまれた部活動同士が協力し、優勝する」
蹴太は遠ざかった背中の方向を冷たく見ていた。
「そのビジョンをあいつは見た。だからこの行動だろうな」
美談として、これ以上のものはない。
崩壊した部を立て直し、問題を起こした生徒たちに更生の機会を与え、そして頂点に導いた素晴らしい教師。そのストーリーの中に、居舘の苦労した1年間も、春樹の執念も、蹴太たちの努力も必要ないのだ。
「違いますか? 居舘先生?」
「・・・」
居舘は否定しなかった。できなかった。
大人の世界のそういう汚い部分を生徒よりも知っている。だからこそ何も言えなかった。
「・・・みんな、すまん」
やがて居舘は絞り出すようにそう言った。守ってやれなかった。教え子たちが積み上げてきたものを、目の前で理不尽に奪われた。謝ることしかできなかった。そしてこの日の合同練習は中止となった。その帰り道。
「蹴太。なんで俺の手を上げさせなかったの?」
自転車を押しながら蒼空斗が尋ねた。
「あいつは絶対にお前だけは外さない」
蹴太は前を向いたまま答えた。
「変にこじれて、お前の内申点とかに支障をきたすわけにはいかないからな」
元Jクラブのジュニアユース。大怪我から奇跡的に復帰した天才。葛田が描く美談の中で蒼空斗は最も客寄せになる価値のある駒。
だからこそあの男は蒼空斗だけ何があっても切らない。校門で声をかけてきたあの日から狙いはずっとそこにあったのだ。
「それに・・・」
蹴太はそこで一度言葉を切った。
「お前までいなくなると、本当に勝てない。最後の希望だ」
「・・・重すぎるよ」
「・・・悪い」
蒼空斗はしばらく黙って自転車を押していた。やがて小さく息を吐く。
「別に嫌だなんて言ってないよ」
「あ?」
「重いって言っただけ。背負わないとは言ってない」
その横顔に悲愴感はなかった。
膝を砕かれてすべてを奪われた男だ。理不尽にな、誰よりも慣れている。奪われることの痛みも、それでも立ち上がる方法も、この男は知っている。
「・・・そうかよ」
蹴太はそれだけ返した。
見上げれば、6月とは思えないほど澄み切った青空が広がっていた。こんな空の下、全国を目指すと誓った。しかし居舘はもういない。春樹の腕章も、健一の居場所も、そして自分の背番号も、たった30分で消えた。
(・・・ふざけんな)
皮肉なほどの青の下でグラウンドへ向かうはずだった少年たちの胸には、やり場のない怒りと虚しさだけが残されていた。




