表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/62

36.進路と不穏な影

青下・松野川合同チームのロッカールーム。


そこに熱気はなかった。汗と芝の匂いが充満した狭い部屋に響いているのは、誰かが押し殺したような、静かな嗚咽だけだった。


「くっ・・・俺が決めていれば・・・」


健一が床に置いた泥だらけのスパイクを睨みつけたままうつむいていた。


「いや、俺がもっと上手ければ・・・」


PKでのゴールキーパー正面のシュート。裏を取られた二度の失点。武雄に股を抜かれた逆転弾。そのすべての後悔が健一の頭の中で何度も何度もリピート再生されていた。


「白河」


その震える肩に春樹が力強く手を置いた。


「下を向くな。俺たちは今の力をすべて出しきった。悲観することはないよ」


「でも、春樹・・・」


「俺だって外した。しかも大事な一本目だ」


キャプテンの声は驚くほど落ち着いていた。自分だってポストに嫌われた。悔しくないはずがない。だが、ここで自分まで崩れてしまえばこの寄せ集めのチームは今度こそ本当に終わってしまうと直感で考えていた。


そのため春樹は泣いているメンバーのもとを一人ずつ回り、短く力強い言葉をかけていった。


伊野の背中を叩き、鈴木の頭に手を置き、最後まで最後尾でやり切ったGKの中野の手を強く握る。


「中野。お前がいなきゃ、前半でとっくに終わってた」


「・・・でも最後は、俺が止められなかった」


「あれは誰も止められない」


GKの中野、それでも悔しそうに唇を噛んでいた。ヤンセンが蹴った最後のPK。身体の方向は完全にあっていた。しかしあと数センチ届かなかった。それだけの話だった。


そしてその重苦しい光景の隅で、蹴太はベンチに深く腰を下ろしたまま、頭からタオルをすっぽりと被っていた。微動だにしない。声も出さない。


「神野君・・・」


明里はその異様な様子にどう声をかければいいのか分からなかった。


あれだけピッチで圧倒的だった存在が、たった一回戦で散った。あのヤンセン・大河を完全に抜き去り、50メートルを独走し、会場中を歓喜で総立ちにさせた男。それでもチームとしては負けたのだ。


(・・・サッカーって残酷な世界ね)


どんな慰めの言葉もこの極限の状況では薄っぺらく響く気がしたので明里が迷っていると、その横を蒼空斗がすっと通り抜けていった。そして蹴太の前に静かに立つ。


「次だね」


真剣な目だった。


慰めでも、励ましでもない。ただ、互いに分かりきっている当然の事実を確認するような口調だった。そして蹴太はゆっくりと頭のタオルを取り、蒼空斗を見上げる。


「当たり前だろ。次こそ、勝つ」


その目はまだ死んでいなかった。

いや、むしろ誰よりも熱い闘志をみなぎらせていた。タオルを被って俯いていたのは悲嘆に暮れていたからではない。あのヤンセンとの戦いの記憶を頭の中で一つずつ解体し、分析していただけだった。


(・・・そうこなくちゃ)


蒼空斗の口元が嬉しそうにわずかに緩んだ。そして春樹が一通りの選手を励まし終えた頃。


「みんな、よくやった」


壁際でずっと黙っていた居舘がようやく口を開いた。


その目には隠しきれない涙が浮かんでいた。全員の泥だらけの顔を、一人ずつ、誇らしげに確かめるように見ていく。


「俺たちのこの合同チームは最初、とんでもない最悪のところから始まった」


誰もがその言葉の重い意味を知っていた。


去年、青下中と松野川中学の1年生によるあの大規模な集団万引き事件。それによる松野川中学顧問の辞任と一年生の強制退部。青下中学でも同じように一年生が強制退部となった。そして残ったのは二つの中学の現三年生だけ。


ボールを蹴る場所すら失いかけたその残骸のような人間たちの集まりが、この合同チームの始まりだった。


「だけど、みんなそこから必死に頑張った」


居舘の低い声がわずかに震える。


去年の今頃、この部は完全に消える寸前だった。それが今日、東京の頂点に最も近いチームをあと一歩のところまで追い詰めた。その事実だけで指導者である居舘には十分すぎた。


「そしてありがとう。こんな不甲斐ない俺に最後まで着いてきてくれて」


そう言って居舘は教え子たちへ深く頭を下げた。その姿に真っ先に反応したのは、キャプテンの春樹だった。


「お礼を言うのは俺たちの方です」


春樹もまた深く頭を下げていた。


「そもそも俺が顧問を居舘先生に無理やり頼み込んだんです。ここまで連れてきてくれて、本当にありがとうございました」


あの日、職員室で頭を下げ続けた。全国を目指したいと、生意気なことを言った。それをこの人は笑わなかった。一人、また一人と、青下・松野川のメンバーが居舘へ頭を下げていく。そして・・・


「居舘先生」


「神野・・・」

ベンチから蹴太が立ち上がった。


「俺はあん―――」


言いかけて蹴太は一度言葉を止めた。


「・・・居舘先生だからこそ、俺はここまでサッカーが出来たと思ってる」


普段、絶対にこういう感謝の言葉を口にする男ではない。それを知っている全員が静まり返って聞いていた。


「俺に・・・サッカーを続けさせてくれて、ありがとうございました」


蹴太は真っ直ぐに、深く頭を下げた。


「っ!」


居舘はこみ上げるものを堪えるように慌てて顔を背けた。そして再び蒼空斗を含めた全員が居舘へ頭を下げ、数秒の静かな沈黙のあと。



「よし! お前ら、顔を上げろ!」


居舘がパンッと手を叩き、元気よく声を張り上げた。もう涙は拭われていた。


「俺たちはここからだぞ! 夏への挑戦は今始まったばかりだ! ここから本気で全国を目指すぞ!」


「「「「「おぉぉぉぉぉ!」」」」」


狭いロッカールームに再び熱を帯びた元気な声が響き渡った。こうして、青下・松野川合同チームの春季大会は終了した。


■■


5月の下旬。


東京の春季大会は結局、白豪学園中等部の圧倒的な優勝で幕を閉じた。


決勝どころか、一回戦以外はすべて危なげない圧勝の試合だった。ヤンセン・大河はその後出場していない。あの一回戦だけが完全に特例だった。


そしてそれぞれのチームは6月中旬から始まる中学校総合体育大会、夏の全国へと続く最後の戦いに向けて準備を進め始めており、青下・松野川合同チームもその例に漏れなかった。いや、むしろ他のどのチームよりもその練習は苛烈になっていた。


「もう一本! サイドを変える意識!」


居舘の檄が夕暮れの松野川中学のグラウンドに響く。


白豪学園戦で彼らは自分たちの限界を正確に測られてしまった。組織では届いていた。だが、決定的な【個】の力が足りなかった。それはキャプテンの春樹が誰よりも痛感していることだった。だから、練習の質が変わった。


1対1の反復が圧倒的に増えた。ボールを奪われた瞬間の切り替えを口酸っぱくして繰り返した。しかし、誰も文句を言わなかった。あの中学生の頂点レベルの試合を経験した後では走れない理由の方が見つからなかった。そして時が経ち、5月31日。進路希望調査票の締め切りの日を迎えた。


「いいか? 進路希望調査票だが、まだの奴は今日の帰りまでに俺へ提出しろよ」


朝のホームルーム。担任の中田(なかた)が教壇からそう告げた。


「まぁ別にこれが最終決定じゃないが、もう夏前だからな。白紙で保留というのはなしだからな」


それだけ言うと中田は慌ただしく教室を出ていった。そして蹴太は机の中に手を入れ、引き出したのはまだ白紙のままの一枚の紙。


(進路、か・・・)


第一希望の欄が空白のまま自分を見上げている。


もともとは中学入学時からずっと答えは決まっていたはずだった。私立・開進高校。日本で最難関と言われる超進学校。東京帝王大学への合格者を毎年最多で送り出す、勝ち組への最短ルート。


いい高校に入り、いい大学へ行き、大手のホワイト企業に入社する。前世で這いつくばって苦労した分、二度目の人生くらいは安全な場所で生きたい。それは今でも変わっていない。


(・・・)


ペンを持つ手が動かない。


安定した勝ち組の人生。誰にも才能を否定されず、傷つかないための肩書き。それを手に入れるための答案用紙が今目の前にある。答えは最初から全部分かっている。あとはその通りにペンを動かして、白紙を埋めるだけだ。なのに、手が動かない。


(・・・ふっ)


理由はもう痛いほど分かっていた。


あの日、フットサルの空中戦でヤンセンに押し負けた時の悔しさ。


50メートルを理不尽な初速で駆け抜けた足の熱い感触。強敵を置き去りにした瞬間の、あの圧倒的に視界が開ける感覚。そし、ゴールネットが激しく揺れた時に腹の底から絞り出した、自分でも聞いたことのないような魂の叫び声。


安全で退屈な机の上では、あんなヒリつくような命のやり取りは絶対に手に入らない。


蹴太はその紙を一度眺めただけでまた机の奥へとしまった。そして授業と給食の時間が過ぎ、昼休みになった。


「なぁ? お前は何処行くんだ? やっぱりあの開進高校か?」


椅子を逆に座り、蹴太の真正面に座る健一が尋ねてきた。


「・・・お前は?」


「俺は前も言ったように、赤鳳(せきほう)学園一択だな!」


健一は誇らしげに胸を張った。


「知ってるか? あそこ、今年度の男女の割合が3対7で、圧倒的に女子が多いんだぜ?」


「あっそ」


ワクワクを隠しもしない顔で健一が力説してくる。そして蹴太はそれを聞きながら静かに考えていた。


―――どんな形になるかはわからんが、必ずサッカーは続ける。


健一と教室で約束した記憶。


――ガチでやるか。サッカー。


あの悔しいピッチで抱いた熱い気持ち。


(・・・そうだな)


答えはもう出ていた。


「・・・よし。俺も赤鳳学園だな」


「はぁ?」


蹴太は机から進路希望調査票を取り出し、第一希望の欄に迷いなくボールペンを走らせた。


【私立・赤鳳学園高等学校】と。


「おいおいおい!?」


「なんだ?」


「なんでお前も赤鳳学園なんだよ!」


「悪いか?」


「悪いって・・・」


健一は心底信じられないという顔をしていた。


「お前はてっきり、どっかのJリーグのユースに行くから、その提携校に進むと思った・・・」


「俺も別にこの場で適当に決めたわけじゃない。一応、赤鳳学園のことは調べた」


私立・赤鳳学園高等学校。


都内にある私立高校である。特に最近は女子の部活動に力を注いでおり、そのため女子の入学希望者が年々増えていた。健一が言っていた3対7という比率もその結果だった。


「ははーん。さてはお前も女子にモテたいのか!」


「ちげぇよ」


蹴太は呆れた顔で逆に問い返した。


「てか、お前はちゃんと調べたのか?」


「何を?」


「赤鳳学園の男子サッカー部をだ」


「えっ?」


健一はきょとんとした。


「あそこって、まぁまぁ強いって感じじゃないの?」


「まぁその印象は、あってるっちゃ、あってる。だが微妙に違う。赤鳳学園は【古豪】だ」


「古豪?」


「あぁ。最近校舎を建て替えて新しい学校だと認知されているが、昔からある高校だ。しかも、昔は全国大会常連だったらしい」


「マジで!?」


健一が驚いて身を乗り出した。


「あぁ。白豪と赤鳳。かつては東京の二大巨頭と言われていたはずだ」


「マジかぁ・・・」


蹴太は以前、赤鳳学園サッカー部の過去の戦績を詳細に調べていた。


全国選手権への出場歴は複数回。最高で全国ベスト4まで進んだ年もある。だがそれは10年以上前の古い記録だった。


そこから先は都大会でも上位に食い込めない停滞の年が続いている。かつて肩を並べていたはずの白豪学園だけが、その間に【絶対的な強豪】へと駆け上がっていったのだ。


「あと、最近監督が代わった。女監督だそうだ」


「よっしゃー!」


「お前なぁ・・・」


蹴太は呆れながら健一を見た。だが健一もまた蹴太を不思議そうな目で見返した。


「でも、本当になんで赤鳳なんだ? お前ならもっと上が目指せるだろ?」


それは健一なりの本気の疑問だった。


あのヤンセン・大河を抜き去った男。声をかけたいクラブはこれから山ほど出てくる。そのため、わざわざ落ち目の古豪を選ぶ合理的な理由がない。


「・・・白豪に勝つ」


「えっ?」


「白豪に勝つためには、白豪を一番知っているところに行くのが手っ取り早い」


「そんなもんか?」


「そんなもんだ」


蹴太はそう言って、記入済みの用紙をヒラヒラと見せた。そして納得のいっていない健一の興味を変えるために強引に話題を変えた。


「てか、お前そろそろ職員室行かなくていいのか? 日直がこの前集めたノートを職員室から持ってくるんじゃなかったのか?」


「やべぇ! 忘れてた!」


健一は椅子を放り出して、慌てて教室を飛び出していった。そして蹴太が進路希望調査票を机にしまうと、入れ替わりに蒼空斗と明里がやってきた。


「全く! 素直じゃないわね!」


「何がだ?」


明里が腰に手を当てて、呆れたような顔をしている。


「蹴太は、健一と一緒にサッカーをしたいんだよね?」


蒼空斗がにこやかに、図星を突くようにそう言った。


「・・・はっ」


蹴太は鼻で笑った。否定はしなかった。


その反応だけで蒼空斗はすべてを理解した。白豪に勝つため。それも嘘ではない。嘘ではないが、事実とも違うことを健一に伝えていたのだ。


「じゃあ俺も赤鳳学園かな?」


「はぁ!?」


今度は蹴太が素っ頓狂な声を上げた。


「だって俺は蹴太とサッカーしたいし!」


「お前、東京カイザースは・・・」


「戻れるかもしれない。でも、それは俺自身が選ぶことだよ」


蒼空斗の目に一切の迷いはなかった。


かつてピッチですべてを失ったこの男が、自分の意思でもう一度立つ場所を選ぼうとしている。それは誰にも文句を言わせない、彼だけの権利だった。


「・・・ちっ! 勝手にしろよ」


「うん。勝手にする」


「はいはい。お兄ちゃんが行くなら、私もマネージャーとして行くわよ」


明里が当然のようにそう言った。


「お兄ちゃんの行くところに私は行くんだから!」


「あっそ」


「ちょっと! もう少し興味持ちなさいよ!」


明里は頬を膨らませながら蹴太に抗議した。しかしその目は楽しそうに笑っていた。


こうして蹴太と蒼空斗、そして明里の三人は、私立・赤鳳学園高等学校への進学を決めた。そしてそれを担任の中田に提出し、蹴太たちはいつものように自転車に跨って、松野川中学のグラウンドへと向かった。


■■


その頃、青下中学の職員室では。


「あれ? 葛田先生は?」


書類を抱えた男性教師が空席を見て首をかしげた。普段ならこの時間の葛田は自分の席でのんびりと茶をすすっている。定時まで動かず、面倒事からは徹底的に距離を取る。それが事なかれ主義のあの男の生態だった。


「あぁ。なんか、松野川中学の居舘っていう先生に用事があるって、珍しく出かけましたよ」


「松野川・・・あぁ、もしかしてサッカー部関連ですかね?」


「さぁ?」


答えた教師は書類から顔も上げずに続けた。


「でもここだけの話・・・」


男性教師たちは互いに身体を寄せた。そして声を潜める。


「サッカー部を使って、なにかよからぬ悪巧みしているような顔でしたよ」


「悪巧みって・・・」


「いやね、あの人、去年まではサッカー部の顧問なんて名前だけで練習も一度も見に行ってなかったでしょう?」


「まぁ、そうですね」


「それが最近、やたらと大会の結果を気にしてるんですよ。月影君はどう活躍したかとかね」


「・・・」


自転車で松野川中学へ向かって行く青下のメンバーのその横を、1台の黒い車が通り過ぎていく。


蹴太たちはまだ何も知らない。青下・松野川合同チームにあの男の不穏な影が迫っていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ