35.VS白豪学園中等部―――決着
「柳野さん・・・これって・・・」
氷川清美は震える手でビデオカメラを構えたまま、その先の言葉を継げずにいた。とんでもないものを見てしまった、と。
中学生の、無名の部活動の選手がたった一人の【個】の力だけで、絶対的な優勝候補のゴールを強引にこじ開けた。50メートルを独走し、行く手を阻むエリート選手たちをことごとく置き去りにして。しかもその中の一人は世界に届く傑物と評された、あのヤンセン・大河である。
言葉にならない衝撃がじわじわと氷川の全身を侵していた。スポーツ庁からの出向組で、サッカーの専門家ではない自分にすら今のプレーが常識を逸脱した【異常】であることだけははっきりと分かった。
サッカーは11人でやる競技。個人の力には限界があり、だからこそ組織で戦う。そう知っている。そしてその組織力の中学生の到達点の一つとして、白豪学園中等部というチームが君臨していた。しかしそれがたった一人の、たった一本の理不尽なプレーで完全に無効化された。
(・・・こんな漫画みたいなこと、現実にあっていいの?)
「見に来てよかった」
隣で柳野隆二が静かに、だが底知れぬ熱を帯びて笑っていた。そしてその視線をピッチの中央で片膝をついた状態からゆっくりと立ち上がろうとしているヤンセンへと向ける。
(ヤンセン。お前は今、どう思っている?)
柳野はヤンセン・大河という少年に初めて出会い、言葉を交わした日のことを思い起こしていた。
■■
今から4年前。
ヤンセンがU―12の国際大会から帰国し、東京カイザースジュニアの練習に復帰していた頃のこと。柳野はそのクラブ施設を視察に訪れていた。
「どうも! 佐藤さん!」
「これはこれは! 柳野ダイレクター! いつもお世話になっております!」
その年から柳野はアンダー世代の日本代表選考の絶大な権限を持つ、ナショナルチームダイレクターに就任していた。有望な育成年代の視察はその最も重要な仕事の一つだった。
「どうです? ヤンセン君の調子は?」
「そうですねぇ」
当時東京カイザースジュニアの監督を務めていた佐藤は、グラウンドの一角へ誇らしげに目をやりながら答えた。
「彼はまだ小学五年生。国際大会に選ばれたとは言え、あちらではまだベンチを温める日々でした。それでも帰ってきてからは一段と気合いを入れて練習していますよ!」
そう言って佐藤はにこやかに続けた。
「それに今年から月影蒼空斗という素晴らしいセンスを持った選手も入りましてね!」
新たにセレクションを通過した逸材の名前を佐藤は伝えた。だが柳野はその話題には乗らなかった。
「ヤンセン君は、今は何のポジションを?」
「えっ? あっ、はい!」
佐藤は一瞬言葉に詰まってから慌てて答えた。
「今はディフェンスの、センターバックの練習をさせています!」
「理由は? これは彼本人からの希望で?」
「はい! 本人がFWとしてもっと得点を取るために、まずは守備について本気で学びたいからですって! いやぁ、向上心の塊でもう期待しかないですよ!」
「ふーん」
柳野はそれきり黙ってヤンセンの練習を見つめた。そして練習が一段落したところで佐藤に頼んでヤンセンを直接呼んでもらった。
「監督。何でしょうか?」
「ヤンセン。彼にきちんと挨拶しなさい。日本代表を選ぶ、一番偉いお方だぞ」
ヤンセンはじっと柳野を見た。そして育ちの良さを感じさせる所作で丁寧に頭を下げる。
「いいよ、そんなに丁寧にしなくても」
柳野は苦笑した。
「丁寧にしたところで俺は選考に私情を滅多に挟まないからね」
「ハハッ! そうですな!」
佐藤が元気よく相槌を打つ。だが、頭を上げたヤンセンの目は小学五年生とは思えないほど冷たく、大人びて静かだった。
(・・・面白い子だ)
「ヤンセン君。今、少しだけいいかい?」
「・・・はい」
「君、FWじゃなくて本格的にセンターバックにコンバートしない?」
「「!!」」
その唐突すぎる一言に、ヤンセンと佐藤が同時に息を呑んだ。そして真っ先に噛みついてきたのは佐藤だった。
「あ、あのぉ。聞き間違いでしょうか? うちのヤンセンをDFに、というのは・・・」
「俺は本気で提案している。まぁ、それを最終的に決めるのは本人だが」
「彼が受けるわけないでしょう! ヤンセンは将来の日本の至宝となるストライカーですぞ!」
「あんたに聞いているわけじゃない」
柳野は佐藤を一瞥もせず、ヤンセンだけを真っ直ぐに見た。
「ヤンセン君。どうなんだ?」
「・・・」
ヤンセンは一度顔を伏せて、深く考え込んだ。そして真剣な目を柳野へ向ける。
「一応、その理由を聞いてもいいですか?」
「・・・君はドリブルも上手い。フィジカルもある。スピードも、歩幅もある」
「・・・」
「ただ、【初速】が普通だ」
柳野は残酷な事実を淡々と告げた。
「一歩のストライドが大きい分、トップスピードに乗るまでにかかる時間が世界基準で言えば【平均よりほんの少し上】、という程度でしかない」
それはヤンセン本人が薄々感じていながら、絶対に認めたくなかった唯一の弱点だった。小学五年生の少年の端正な顔がわずかに強張る。
「・・・センターバックなら俺は世界に届きますか?」
「・・・保証はしないがな。可能性は一番高い」
数秒の重い沈黙。そしてヤンセンは静かに頷いた。
「分かりました。じゃあ、今日からコンバートします」
それだけ言って少年はすぐに練習へと戻っていった。その背中を見送りながら佐藤が柳野へ怒りの目を向ける。
「ちょっと、ちょっとぉ! 柳野さん、あなたは日本の宝の卵をその手で潰す気ですか!」
「佐藤さん」
柳野は静かに問い返した。
「あんたはこの前のU―12の国際試合の映像、ちゃんと見ましたか?」
「い、いえ・・・」
「指導者、特にJ下部の育成年代を指導する立場なら絶対に見ておいたほうがいい」
柳野はカバンからタブレットを取り出し、一枚のスコアシートのPDFを佐藤の顔の前へ突きつけた。
「世界と日本の差はもうこのU―12の世代でも残酷なほど明らかだ」
「これは・・・」
「結果というのは残酷です。日本は4チームある予選リーグで、堂々の最下位。しかも3試合での合計得点はたったの1点」
佐藤はその突きつけられた数字から目を逸らせなかった。
「対して失点は平均で4点。この年代では過去ワーストの屈辱的な記録です」
「・・・」
「もうすでに日本は世界から決定的に劣り始めている」
佐藤は何も言い返せなかった。そして柳野はタブレットをしまい、再びヤンセンが守備の練習をする姿を見つめた。
「彼も肌で分かっていたんでしょう。今のままでは、自分のストライカーとしての能力では世界に通用しないと」
「・・・」
「DFでもいい。とにかく今の日本には世界に通用する圧倒的な【個】が必要なんです」
そう言い残して柳野はクラブ施設を後にした。
■■
そして4年後の今。
(柳野さん。あんたの見立ては正しかった)
芝の上でゆっくりと立ち上がったヤンセンもまたあの日の会話を頭の中で思い返していた。
(俺はFWじゃ世界に届かなかった)
【初速】。あの日、柳野に残酷なまでに指摘された自分に欠けている唯一の、そしてストライカーにとって最も致命的なピース。
あれからの4年間、ヤンセンはセンターバックとして血の滲むような努力で自分を磨き上げてきた。相手のストライカーの思考を、かつて自分がストライカーだったからこそ完全に読み切る。守り手としてなら世界に届く。そう信じてやってきた。
その道は決して間違っていなかった。現に飛び級でユースに上がり、代表に呼ばれている。だが今日、自分の目の前に現れた。自分が喉から手が出るほど欲して、どうしても持てなかった【才能】をすべて持った男が。
初速。あの理不尽な一歩を目の前の無名のストライカーは【瞬間最高初速】という形で完璧に証明してみせた。ゼロからトップスピードへ、一切の予備動作もなく一瞬で跳ね上がる、あの爆発的な加速。あんな理不尽な力を持つ人間こそが世界をねじ伏せる本物のストライカーになるのだと。
―――自分は世界に通用するFWになれない
4年前、柳野に突きつけられた現実が、今日ようやく確かな形を持って目の前に立っていた。
だが不思議と嫉妬や悔しさはなかった。むしろ清々しかった。
(蹴太。俺はお前に出会えて良かった)
ヤンセンは心からの笑みを浮かべて蹴太を見た。
もし自分がストライカーであり続けていたら、蹴太とはただの得点数の比較という矮小な争いで終わっていたかもしれない。センターバックという守り手になったからこそ、この男の凄まじさを誰よりも間近で、全身で味わうことができた。皮肉な話だった。だが、悪くない皮肉だった。そして、白豪学園のボールで試合がリスタート。だが、すぐにアディショナルタイムに突入した。
両者一歩も引かなかった。青下・松野川は勢いに乗って追加点を狙い、白豪学園は王者の意地でもう一度突き放そうとする。だが疲労の色濃いピッチで、決定機はどちらにも訪れなかった。
ピーッ! ピッピーーッ!
後半終了のホイッスルが熱狂の会場に響き渡る。
【青下・松野川合同チーム 2―2 白豪学園】
3分の短い休憩を挟み、延長前後半各5分ずつが行われることになった。だが、延長に入っても試合は全く動かなかった。
白豪学園は明確に【蹴太を完全に消す】戦術に切り替えてきていた。
あの悪夢のような50メートルの独走を目の当たりにした後だった。もう蹴太にボールを持たせること自体を許さない。二人、時に三人がかりで常にパスコースを塞ぐ。その徹底ぶりは執念すら感じさせた。
(・・・くそ。徹底的に触らせる気がねぇな)
蹴太は苛立ちを噛み殺していた。
前線で完全に孤立させられ、味方からのボールが届かない。絶対的な【個】の力で同点という結果をもたらした代償として、その【個】そのものを戦術的に完全に封じられていた。
かといって白豪もリスクを冒して前に出てはこない。2点目を強引に奪われた記憶が彼らをひたすら堅実にさせていた。
両者無得点のまま、重苦しい延長戦が終了する。そして運命は残酷なPK戦へと持ち込まれた。
(PK、か・・・)
蹴太は腰に手を当て、一度だけ青い空を見上げた。
結局あの独走の後、自分は一度もまともにボールに触れられなかった。ゴールという結果をたった一人の力でもう一度手繰り寄せることは叶わなかった。
チームで守り、個で追いつき、そして最後はただの運に委ねられる。
(・・・情けねぇな)
自分でも意外だった。1年前の自分ならこんな結末を【運がなかった、仕方ない】で簡単に片付けていた。しょせん相手は優勝候補の格上。ここまで追いつけただけで上出来だ、と。都合のいい逃げ道を用意して心が傷つかずに済ませていた。
だが今はどうしてもそう思えなかった。
勝ちたい。心の底から勝ちたいと思っている。
その純粋な気持ちがPKという運任せの土俵に立たされることを、こんなにも理不尽で悔しく感じさせていた。
「やるしか無いね」
隣に蒼空斗が並んだ。その顔に悲愴感はなかった。あの状態からここまで来られただけで奇跡だとこの男は誰よりも知っている。
「あぁ」
蹴太は短く答え、視線を合わせた。そして、いよいよ運命のPK戦が始まった。
先攻は白豪学園。
一人目のキッカーは、キャプテンの九条隼人だった。
短い助走。迷いのない左足の振り抜き。ボールはゴール左隅へ、一切の淀みなく鋭く突き刺さる。中野が反応するも届かない。決めた。九条は静かに拳を握り、味方のもとへ戻っていく。
後攻、青下・松野川。
一人目のキッカーは、キャプテンの春樹だった。
(絶対に決める!)
深く息を吸い、助走に入る。しっかりと軸足を置き右足を振り抜いた。
コースは悪くなかった。だが、力が入りすぎた。この1年の重みも、キャプテンとしての責任も、仲間の期待も、全部がその右足に重く乗ってしまったのだ。
ガンッ。
ボールは無情にもゴールポストを直撃し、外へ大きく弾かれた。
「っ!」
春樹が天を仰ぐ。しかしその場に崩れそうになるのを、拳を握って必死にこらえていた。キャプテンが崩れるわけにはいかない。まだ終わっていない。
続く二人目。
白豪学園はまたしても危なげなく決めた。そして後攻、青下・松野川の二人目は健一が自ら志願した。
(頼む・・・入ってくれ!)
祈るように健一が蹴る。
自分に繊細な技術がないことは自分が一番よく知っている。だからこそ、思い切り強く真ん中へ蹴ることしか考えられなかった。だがその悲痛な力みがシュートのコースを殺した。
ボールはGKの真正面へ。読まれるまでもなく、ガッチリと正面で受け止められた。
「くそぉぉ!」
健一が膝から崩れ落ちる。
拳で何度も何度も芝を叩いた。ここまで散々、裏を取られ、股を抜かれ、それでも立ち上がってきた。最後のこの一本くらい、決めたかった。
続く三人目。
白豪学園がまたしても完璧なコースへ決める。
三人続けて一切の乱れがなかった。技術も、精神力も、こういう極限の場面でこそ残酷なまでに差が出る。
そして青下・松野川の三人目。蒼空斗がボールをセットした。
(・・・僕は、決める。それだけだ)
かつてピッチですべてを失った。二度とピッチに戻れないと言われた膝で、今ここに立っている。それを思い、静かな助走、滑らかなステップ。そしてゴール右隅への正確無比なシュート。
バサッ。
決まった。ゴールキーパーの手は届かなかった。
【PK戦 青下・松野川合同チーム 1―3 白豪学園】
だがそれでも。数字はあまりに残酷だった。
運命の四人目。
白豪学園はこの一本を決めれば勝利が決まる。そのキッカーとして歩み出たのは、ヤンセン・大河だった。
会場が水を打ったように静まり返る。
世代ナンバーワンの怪物が、勝敗を決める最後の一本を蹴る。誰もがその結末を確信と共に予感していた。
ヤンセンはボールを丁寧にセットした。そして一度だけ青下・松野川のゴール裏に立つ蹴太へ、真っ直ぐに視線を送る。
(蹴太。お前と戦えて、本当に良かった)
それは宣戦布告でも、勝ち誇りでもなかった。ただ全力で挑んできた唯一のライバルへの敬意だった。
短い助走。そしてその利き足の右が迷いなくボールを叩いた。
ドンッ。
ゴールキーパーの中野が必死に身体を投げ出す。だが無慈悲にもボールは中野の指先を越え、青下・松野川のゴールネットを激しく揺らした。
【PK戦 青下・松野川合同チーム 1―4 白豪学園】
その瞬間。主審の腕が白豪学園のゴール方向を力強く指し示した。
試合終了。
青下・松野川合同チームの都大会一回戦敗退が決まった。
白豪学園の選手たちが雄叫びを上げてGKのもとへ殺到する。だがその歓喜の輪は、いつもの勝利のそれとはどこか違っていた。
安堵。それが色濃く滲んでいた。格下相手に延長とPKまでもつれ込んだ。優勝候補として決して褒められた内容ではない。しかし相手は迷うことなき強敵だった。
そしてその白豪が喜んでいる輪の中でヤンセンだけが振り返っていた。
青下・松野川の同点弾を決めた男が、今、芝の上に立ち尽くしている。蹴太は俯いてはいなかった。ただ静かに、勝者たちが抱き合う光景を見つめていた。その表情からは何も読み取れなかった。悔しさも、諦めも、そこにはなかった。
(終わったか)
蹴太は清々しい笑みを青い空に向けていた。
負けた。一回戦で、あっさりと。PK戦という最後は運任せの舞台で。しかしそれでも蹴太は不思議と晴れやかな気持ちで空を見上げていた。
(・・・悔しいな)
蹴太は久々に心の底からそう思った。
前世では最初こそ負けても悔しかった。しかしその気持は徐々に消えていった。どうせ才能がない、どうせ報われない。そう決めつけて諦めることで自分を守っていた。
だが今は違う。自分の持てる全力を出し切って戦って、それでも届かなかった。それがこんなにも腹の底から悔しい。そしてこの純粋な悔しさは、もっと強くなりたいというまっすぐな渇望に変わっていた。
(ガチでやるか。サッカー)
蹴太はそう静かに誓った。その脚にはまだ確かにあの50メートル独走の熱い感触が残っていた。
■■
観客席で氷川がふぅと長い息を吐いた。
「・・・終わりましたね。結局、白豪の勝ちでした」
順当な結果と言えば、順当だった。優勝候補が格下を退けた。それだけの話だ。しかしPK戦は時の運でしかない。数字の上ではこれは白豪学園の一回戦突破として記録される。あの9番の名前は公式記録のどこにも残らない。
「・・・そうだな」
柳野はまだ立ったままだった。しかしその手にはいつの間にか氷川からビデオカメラが渡っていた。そして液晶に映し出されているのは、たった今録画したばかりのあの50メートルの独走だった。柳野はそれを何度も繰り返し再生していた。
「氷川」
「はい」
「この選手、徹底的に調べておいてくれ」
「・・・組み込む気ですか? ナショナルトレセンではない選手を」
氷川は目を丸くした。一回戦で敗退した無名の部活動の選手。JSAのデータベースにすら載っていない中学生。本来なら日本代表の選考の土俵に上がることすらない存在だ。
「まだ分からん」
柳野は、液晶の中で理不尽な加速を見せて駆け抜ける背番号9を見つめたまま言った。
「だがな、氷川。俺はずっとこの国に足りないものを探してたんだ」
パス回しでは崩せない世界の堅い扉。日本と世界との間に横たわる、あの絶望的に分厚い壁。それをたった一人で強引にこじ開けられる存在。
「組織じゃ届かない場所にたった一人で手を伸ばせる、圧倒的な【個】。それがこの国にはずっといなかった」
柳野はようやく液晶から顔を上げた。
「いたんだよ。こんな場末の中学生の一回戦に」
その口元が歓喜を抑えきれないように静かに笑っていた。




