33.VS白豪学園中等部―――5
(くそ・・・完全にやられた)
蹴太は自陣のゴールネットが激しく揺れる様を、ただじっと見ていることしかできなかった。
動けなかった。そしてそれは蹴太だけではない。青下・松野川合同チームのイレブン全員が、同じように呆然とその逆転の光景を見つめていた。
チームとして完全に統一された、恐ろしいほどの意識。
ヤンセン・大河という圧倒的な【個】の力を最大の囮に使い、武雄颯太というもう一つ【個】で仕留める。全員がその1点のためだけに、後半開始からの15分間を捧げた末の、必然の得点。
完璧だった。一人の怪物が力任せに試合をひっくり返したのではない。怪物という極上の餌を撒いて、チーム全体でこちらの意識を絡め取り、確実に獲物を仕留めにきたのだ。
「お前の【個】の力は確かにすごい」
同点弾の起点となったヤンセンが自陣へ戻る途中で、立ち尽くす蹴太の隣にスッと並んだ。そして額の汗を拭いながら、まるで放課後に雑談でもするような気安さでそう言う。
「だがチームとしてなら、俺たち白豪の方が強い」
蹴太はゆっくりとその端正な顔へ視線を向けた。
そこに嘲りはなかった。挑発でもない。ただこの試合で証明されたことを、事実として淡々と述べているだけだった。そして蹴太自身もそれを否定できなかった。
蹴太の1点は蹴太一人で強引に奪った1点。誰かが作ってくれた形ではない。
対して今の1点は、白豪の11人が15分間かけて緻密に敷いた設計図の上に置かれたものだった。圧倒的な個の力は、その設計図を完成させるためのひとつの【部品】として使われていた。
「まっ! 俺はあくまでこのチームのゲストだけどな!」
そう言ってヤンセンはニカッと笑い、蹴太の背中をバンッと気安く叩いて自陣へ駆け戻っていく。その先では白豪学園のイレブンが折り重なるように抱き合って、同点弾を喜んでいた。
■■
(やられた・・・くそ・・・)
春樹は膝に手をついたまま、ピッチの青い芝を見ることしかできなかった。
後半の15分間、自分は一体何を見ていたのか。
相手のゆっくりとしたパス回しを【こちらのほころびを狙っている】と解釈した。武雄の裏抜けを最優先に警戒した。どれもディフェンダーとして間違ってはいなかった。間違っていなかったのに、こうして完全に裏をかかれている。それはつまり、自分なりに正解を選んでもなお、全く足りていないということだった。
(・・・届かない、のか)
青下・松野川の誰もが脳裏にちらつく【絶望】の二文字から目を逸らせずにいた。
スコアは同点だが、試合の流れは完全に白豪学園にある。あれだけ必死に守り、あれだけ耐えて蹴太が奪った1点が、たった一本の緻密な設計図で帳消しにされたのだ。
「まだだ! まだ同点だ! 時間もある! いけるぞ!」
ピッチ中に響き渡る大声で叫ぶ者がいた。健一だった。技術では誰よりも劣っている。判断も速くない。裏を取られたのは自分。それでも健一は諦めるという選択肢だけを持っていなかった。
「そうだね。まだ絶望するには早い」
その健一の言葉に蒼空斗が静かに続いた。そしてそのまま俯いたままの春樹のもとへ歩いていく。
「吉峰君」
ぽん、と背中を叩く。
「いや、春樹」
「・・・」
「まだ前を向いて。終わってないよ」
「・・・あぁ!」
春樹はハッと顔を上げた。キャプテンが下を向いていては誰も上を向けない。そんな当たり前のことをこの1年間、ずっと自分に言い聞かせてきたはずだった。
一人、また一人と選手たちが重い身体を起こしてポジションへ戻っていく。
そして後半16分。青下・松野川合同チームのキックオフでリスタートした。
そして、その瞬間からピッチの空気が完全に変わった。
(また寄せが早くなった!)
春樹は舌打ちした。先ほどまでの緩やかなパス回しが嘘のように、白豪学園は再び息の詰まるようなハイプレスを仕掛けてきていた。
もう1点奪う。確実に逆転する。全員の意識がそこで完全に統一されている。
(くそ! こいつら!)
前線にいる蹴太も自分の周囲の異常に気づいていた。
(ヤンセンだけでも厄介なのに!)
ヤンセンだけではなかった。白豪のボランチ二人も蹴太へのパスコースを塞ぐように絶妙な位置に立っている。しかも蹴太がボールを貰おうと位置を変えれば、その二人もきっちりと連動して付いてくる。
そのおかげでヤンセンは最終ラインにどっしりと腰を据えたまま、悠々と守備のカバーリングをしていた。
(裏で受けようとすればヤンセンが、下がって中に入ればボランチが俺をマークしやがる)
蹴太は苛立ちに歯を食いしばった。
(しかも白豪め、全員が常に俺を警戒した動きをしやがる!)
激しいハイプレスをかけながら、なおかつワントップの武雄以外は誰かが必ず蹴太を視界に入れている。
前がかりになりながらも、蹴太一人だけは絶対に自由にさせない。それが同点に追いついた後半の白豪学園だった。そしてそれは青下・松野川のなけなしの攻撃力を根こそぎ削いだ。
(完全に蹴太を包囲しやがった)
ボールを持った春樹は苦々しく思う。
(俺らは片手間で対応できるってか!)
その事実が悔しかったが、春樹はボールを運んだ。両サイドのパスコースはすでに厳重に警戒されている。ならば自分で持ち上がるしかない。しかしその正面に・・・
「行かせないよ!」
九条隼人がにこやかに立ち塞がった。
「君も警戒対象の一人だからね!」
笑顔だった。だがその対応には隙が一切ない。
縦を切りながら、内側へも行かせない。距離を詰めすぎず、離れすぎもしない。春樹の中にこの男をドリブルで抜くイメージは一つも浮かばなかった。
「春樹!」
その時声が飛んだ。蒼空斗が白豪の右インサイドハーフを躱し、中央へ入ってきていた。そのため春樹は、九条の足が届かない絶妙な角度を選んで、そこへ丁寧に預ける。
(くそっ! ボールを貰ったはいいけど、パスコースが無い!)
受けた瞬間、蒼空斗は顔を上げた。そして焦る。
蹴太は当然として、パスから攻めに転じられるコースがことごとく消されている。縦も、斜めも、裏も。全部。
ゆっくりと考える時間はなかった。蒼空斗は仕方なく大きく右へサイドチェンジのボールを蹴った。
(くっ!)
そのボールを受けた右インサイドハーフの高橋に、白豪の左インサイドハーフがすぐさま詰め寄る。
1対1。スコースはない。逃げ場もない。高橋は覚悟を決めて、強引にドリブルを開始した。
(えっ・・・抜け・・・)
だがそれは相手の罠だった。抜けた先には待ち構えていた白豪の左サイドバックとボランチがいた。わざとコースを空けられ誘い込まれた。
数的不利。三方向から一気に囲まれる。
高橋はボールをロストしまいと必死だった。そして反射的に一番安心できる仲間へパスを出す。前線の蹴太へ。だが白豪の狙いは最初からそこだった。
「もらい!」
九条隼人の右足がそのパスコースへ見事に差し込まれていた。
インターセプト。トラップしたボールをそのまま左足の蹴りやすい位置へ落とす。そして無駄な動作は一切なく、振り抜く。
「くそ!」
春樹の口から思わず声が出た。放たれたロングパスはまるで吸い込まれるように白豪のワントップ、武雄颯太の足元へピタリと収まった。
エースストライカーのドリブルが始まる。
(抜かせない!)
(抜く!)
戻ってきた春樹が正面に立つ。しかし武雄は左サイドへパスを出すようなモーションに入った。上半身が大きく開き、蹴り足が振られる。そのため春樹の身体が反射的にそちらへ向いた。そしてその瞬間。
(かかった!)
パスフェイク。武雄はボールを蹴らず、そのまま一気に加速して縦へ抜けた。
「なっ!」
「止めるぞぉ!」
ペナルティエリアぎりぎりで健一と斎藤が身体を張って立ち塞がる。その枚数、二枚。ここまで来ればあとは泥臭く身体を投げ出すだけだった。だが・・・
(甘い!)
無慈悲だった。技量の差があまりにも明確だった。
武雄は速度を一切落とさないまま、飛び込んできた健一の足元へボールを通した。鮮やかな股抜きだった。
「うそ、だろ・・・」
健一の股を抜け、ペナルティエリア内に転がり出たボールに追いつく者は青下・松野川にはもう誰もいなかった。
武雄が放ったグラウンダーの鋭いシュートがゴール左隅へ向かう。GKの中野が必死に身体を伸ばす。だが、指先は届かなかった。
バサッ。
無情にもボールがゴールネットを揺らした。
後半21分。
【青下・松野川合同チーム 1―2 白豪学園】
青下・松野川を、完全に【絶望】へ叩きつける逆転の二点目だった。無慈悲にも、観客席がこの日一番の大歓声で沸いた。
彼らが見に来たものがようやくそこにあったからだ。絶対的な優勝候補が、無名の格下を力の差で捻じ伏せる、当たり前の光景。番狂わせの夢はたった数分で残酷に片付けられた。
■■
「決まりましたかね・・・」
ビデオカメラを構えたまま、氷川がぽつりと呟いた。誰が見ても白豪学園の勝利は確定だった。
残り時間はわずか。しかも相手は前半とはまるで別の、本来の強さを取り戻したチームになっている。
(結局、後半は白豪があの9番を完全に消した)
氷川はビデオのファインダーの中の9番を見ながら思う。
(初めて柳野さんの【念のため】が外れたかしら)
もう撮る必要もないだろう。氷川は録画を止めようと指をボタンへ伸ばした。
「待て、氷川」
「柳野さん? でももう勝負は・・・」
「氷川」
柳野はピッチから一度も目を離さないまま言った。
「サッカーに絶望はあっても、確実や絶対はない。終わりの笛が鳴るまではな」
「・・・」
氷川は指を戻し、再びカメラを構え直した。だがその視界に映るのは、絶望に飲まれていく合同チームの痛々しい姿だけだった。そして彼女のその見立ては、正しかった。
(やられた・・・)
春樹はピッチに尻もちをついていた。立ち上がる気力が湧かない。
(俺達の組織力は、たぶん負けてない)
そこだけは今までの経験の全部を賭けて言える。
全員が走る。全員が戻る。誰もサボらない。約束事を守る。それをこの寄せ集めの合同チームで泥臭く作り上げてきた。だからここまで来られたのだ。
(だた・・・)
だが、それでも。
(圧倒的に、【個】が負けていた!)
ドリブル。パス。トラップ。判断の速さ。
一つひとつのプレーの質が、レベルにして一つも二つも向こうが上だった。正しい場所に、正しいタイミングで立っていた。それでも抜かれた。抜かれ続けた。組織で埋められない差というものがこの世には確かにある。
「くそぉぉぉぉ!」
健一が地面を叩いて叫んだ。その目には、悔し涙が浮かんでいた。
「くっ!」
蒼空斗、無力感に唇を噛みしめている。そしてベンチの居舘は何も言わずに拳を握りしめていた。かける言葉がなかった。ここで気の利いた戦術的指示を出せる指導者なら、そもそもこの点差になっていない。
(・・・残りは10分くらいか)
春樹は重い頭を上げてスコアボードの時計を見た。アディショナルタイムを含めてもおよそ10分。その10分で1点を取り、さらにもう1点を奪わなければ勝ちはない。
(無理、だな・・・)
その言葉が頭の中に完全に落ちてきた、その瞬間だった。
「2点か。いけるな」
「えっ?」
春樹が顔を上げると、目の前にボールを小脇に抱えた蹴太が立っていた。そしてその視線は春樹ではなく、遥か遠くにある相手のゴールへと向けられていた。
「勝手に絶望すんな。この程度は絶望でもなんでもない」
「なんでもないって・・・」
意味が分からなかった。蹴太がサッカーを始めたのは去年だ。サッカーという競技において、絶望するような挫折を味わう時間すらまだ持っていないはずなのに。
「昔々、サッカーが好きで仕方ない少年がいました」
「?」
唐突に蹴太は語り始めた。
「点を取ることが好きで、サッカーが好きで、誰よりもサッカー漬けの毎日を過ごしていました」
春樹は何の話をしているのかわからず、その異様さに気づいた蒼空斗が二人のもとへ近づいてくる。そして涙を拭った健一も重い腰を上げてやってきた。
「そいつは血反吐を吐くような努力をして、やっとの思いでレギュラーに、スタメンを勝ち取りました」
「何の話だ? 蹴太?」
健一が怪訝な顔で尋ねる。だが蹴太は答えず、前を向いたまま続けた。
「しかしそいつはぽっと出の転校生の外国人に、あっさりとスタメンを奪われました」
「「「……」」」
「しかもそいつがサッカーを始めたのは、少年よりもずっと遅いのに」
三人が黙った。三人は当然知らないが、蹴太が語っているのは他でもない前世の自分のことだった。
誰よりも走った。誰よりもボールを蹴った。休みの日も、雨の日も、練習が終わった後も。その泥臭い積み上げだけが自分の存在価値だと信じていた。
しかし自分のところへ来た男は、自分より遅くサッカーを始めていた。それなのに体格も、センスも、何もかもが違った。そしてすべてを奪われた。
(・・・なんで今、こんな話をしてるんだろうな)
蹴太自身不思議だった。
誰にも言ったことがなかった。言えるはずがなかった。自分が二度目の人生を生きていることも、この圧倒的な身体能力が神から与えられたチートであることも、話したところで誰が信じるというのか。
だから代わりに、こうやっておとぎ話のような【昔話】の形にして置いていくしかなかった。
自分の弱さを他人に晒すこと。
かつての蹴太なら絶対にやらなかった。逃げて、諦めて生きてきた前世の自分には絶対にできないことだった。
だが今は違った。今、このピッチでこの三人に届けたいのは自身の事情や身の上話じゃない。もっと単純で、もっと泥臭い、たった一つの熱だけだ。
「自分のこれまでの人生のすべてを、才能という暴力に否定された。そいつは本気でそんな風に思ったんだ」
蹴太はそこで言葉を切り、初めて真っ直ぐに三人へ視線を向けた。
健一。蒼空斗。春樹。
「お前達はどうだ? 否定されたか?」
「「「……」」」
「いや、分かっていたはずだ」
一人ずつ、目を見て話す。
「怪我明けでまだまだ本調子じゃないやつ」
蒼空斗の肩がわずかに揺れた。膝を壊した日から、この身体が二度と元に戻らないことは誰よりも自分が知っている。全力で走るたび、あの日の天才だった自分に届いていないことを突きつけられる。
「素質はあるのに指導者に恵まれなかったやつ」
春樹が息を呑む。セレクションを受けなかったのではない。受けられなかった。金がなかった。それだけの理由で自分の三年間は最初から違う、不利な場所に置かれていた。
「あと、ただのバカ」
「おい!」
健一が反射的に噛みついた。だが誰も笑わなかった。
「そして・・・」
蹴太は最後に自分の胸へドンッと拳を当てた。
「才能があると分かっていながらサッカーから逃げた弱虫の俺」
その言葉に三人が息を止めた。蹴太が自分を弱虫と呼んだ。いつも冷めた顔で、面倒くさそうに、それでも当たり前のようにゴールを決めてきた絶対的なストライカーが。
「全員、相手に否定されるどころか、最初から白豪の連中に劣ってるじゃねぇか」
事実だった。誰も反論できなかった。
技術も、経験も、環境も、才能も。何一つとして勝っているものがない。最初から分かりきっていたことだ。蹴太は改めて三人を強い瞳で見た。
「そんな俺たちがここで諦めたら、もうなにも残らないぜ?」
「「「・・・」」」
そして蹴太は背を向けた。そのままの姿勢で最後にこう言った。
「俺は行く。もう逃げねぇ。一人でも勝つ」
ボールを抱え直し、センターサークルへ向かって一人で歩き出す。
「お前らはどうする?」
その背中が遠ざかっていく。しばらく誰も動かなかった。しかしあの背中だけが、一人で前を向いている。そして・・・
「蹴太の言うとおりだ」
最初に口を開いたのは蒼空斗だった。
「始めから上手く行かないのは、分かってたじゃないか」
膝を壊し、すべてを失った。もう戻れないと言われた。それでもここに立っている。そんな自分がたかが1点差ごときで下を向いていた。
(・・・格好悪いな、俺)
ナンバーワンになりたいと言ったのは自分だ。誰よりも貪欲でいると決めたのも自分だ。それなのに、一番エゴイストであるべき場面で一番先に諦めかけていた。
「そうだな」
健一が乱暴に袖で顔の涙を拭った。
「俺は・・・諦めの悪さだけは誰にも負けるつもりはねぇ!」
技術は劣る。判断も遅い。武雄には二度も裏を取られ、さっきは股まで抜かれた。だが諦めの悪さだけはあの白豪のエリートの誰にも負けていない。
「・・・行くぞ」
そして、春樹が力強く立ち上がった。
「俺は他の奴らを立たせる」
膝の汚れを払い、まだ座り込んでいる仲間たちのもとへ歩いていく。腕を掴んで、無理やりにでも引き起こす。返事のない選手の胸を叩き、顔を上げさせる。
「立て! まだ10分ある!」
一人ずつ、一人ずつ。
「顔上げろ! 下向いてたら何も見えねぇぞ!」
声が、覇気が、少しずつ戻ってきた。1年前、部が消えかけたあの日から自分がやってきたのはずっとこれだ。技術で引っ張ることはできない。だからこうやって立たせ続けるしかない。
やがて11人がそれぞれのポジションにしっかりと立った。
後半22分。
青下・松野川合同チームのキックオフで、運命の残時間が再開された。




