32.VS白豪学園中等部―――4
「マジかよ・・・中学生とは言え、あの優勝候補の白豪学園が無名の寄せ集めにリードされてんのかよ・・・」
「てか・・・マジで向こうの9番、誰なんだよ!」
ハーフタイムに入っても、観客席のざわめきは一向に収まらなかった。
彼らを激しく揺さぶっていたのは、優勝候補の白豪学園がリードされたという単なる結果ではない。ヤンセン・大河がこの舞台に立っているという話題性でもない。
たった一人であの完成された白豪の盾を真正面から貫いてみせた、圧倒的な矛。ただそれだけだった。
「柳野さん。この試合、この後どうなるんですかね?」
タブレットに前半のスタッツを打ち込みながら氷川が尋ねた。
「少なくともあの白豪がこのまま黙って終わらないのは確かだ。それに、ヤンセンもな」
柳野は足を組み替えながらピッチを見つめて答える。
「それにしても本当に何者なんですかね? 向こうの9番は」
「さぁな」
素っ気ない返答だった。だがその視線は選手が引き上げていったピッチの、誰もいない中央の芝のあたりに熱っぽく置かれたままだった。
「でもとにかく白豪は後半、あの9番を本気で対策しないといけない。まだ合同チームが勝てると決まったわけじゃないしな」
「そう・・・ですね」
強豪がチームとして本気で【一人の選手】を潰しにかかった時、どうなるか。サッカーの素人である氷川にもそれくらいの恐ろしい光景は想像がついた。
「氷川」
「はい」
「後半戦はあの9番の動画を撮っておけ。念のために」
「承知しました」
氷川は一瞬だけ手を止めてから、鞄からカメラを取り出した。【念のため】、と柳野は言った。だがこの男がその言葉を使う時、たいていそれは【念のため】などという軽い意味ではない。氷川はそのことを短い付き合いの中で確かに知っていた。
■■
観客の興奮が収まらない中、青下・松野川合同チームのロッカールームも負けじと騒がしかった。
「よっしゃぁぁ! リードだぁぁぁぁ!」
健一がタオルを頭上でぐるぐると回しながら拳を突き上げている。
他のメンバーはベンチに深く腰を下ろしたり、床でストレッチをしたりと様々だったが、その顔はどこか一様に重圧から解放されたように晴れやかだった。
「リードしているからって気を抜くなよ!」
居舘の鋭い声が、その緩んだ空気を一度断ち切った。
「向こうは絶対にこれで終わりじゃない。むしろ前半戦より厄介になってくると思え!」
浮き足立っていた選手たちの背筋がピンと伸びる。そして居舘はホワイトボードにマグネットを並べながら後半の指示を出し始めた。
「メンバーはこのままで行く。システムもこのままだ」
替える必要がない。むしろここで下手に替えれば今ようやく噛み合っている絶妙な歯車が狂う。
「だがセンターバックは相手のFWの裏抜けに最大限警戒しろ」
「はい!」
健一と斎藤が同時に力強く返事をする。
前半、二人はあのワントップの武雄に何度も背後を取られた。あれは技術というより、走り出す判断の異常な速さ。ボールが出る前に動き出している相手にはボールを見てから反応していては絶対に間に合わない。
「そして春樹!」
「はい・・・」
「集中するのも分かるが、視野は広くな」
「・・・はい」
春樹の返事はわずかに硬かった。
前半の失点未遂の場面。九条だけを見ていた自分が後ろから追い越してきたボランチを見落とした。あの一本が繋がっていれば、今頃リードしているのは相手だった可能性もある。
(分かってる。頭では分かってるんだ)
だがあの【九条隼人】という男を前にして視線を外す余裕がどこにあるというのか。それが春樹には分からなかった。
そして居舘はそれぞれの選手に短く的確なアドバイスを与えていく。
「そして、神野」
「はい」
「すまない」
その唐突な一言に蹴太は少しだけ眉を上げた。
「神野には後半もヤンセンを処理してもらいたい。ヤンセンは強大だ。お前しか対応できない」
指導者としてこれは本来言うべきではない指示だった。一人の選手に、一人の怪物を丸ごと押しつける。それは戦術ではなく丸投げ。組織で守るというサッカーの原則を放棄したに等しい。
だが居舘は頭を下げてでもそれを言うと決めていた。他に手がない。
ヤンセン・大河を組織で抑えようとすれば必ずどこかのマークが薄くなる。そして薄くなった場所をあの九条隼人が見逃すことは絶対にない。ならば一人で殴り合える人間に任せるしかない。
「謝らなくていいですよ。もとからそのつもりなんで」
蹴太はあっさりと涼しい顔でそう返した。
「ただ・・・」
「どうした?」
蹴太は少し考えるように黙り、それから顔を横へ向けた。
「・・・なぁ、月影」
「うん?」
タオルで顔の汗を拭いていた蒼空斗が振り向く。
「ヤンセンって攻撃に参加するタイプのセンターバックか?」
その質問に蒼空斗の手がピタリと止まった。
「・・・そうだね」
慎重に言葉を選ぶような答え方だった。
「基本は相手FWを完全に仕留めるタイプのディフェンダーだけど、ヤンセン君は自らゴールを狙う時もある」
「理由は?」
「ヤンセン君は東京カイザースジュニアの一時期だけど、FWをやっていたよ」
「へぇ・・・」
蹴太の目が、スッと細くなった。
(そういうことかよ)
腑に落ちた。あの男があの日、フットサルコートでボールを持った瞬間に纏った空気。あれは守る者の圧ではなかった。あれは自らの足でゴールを獲りに行く顔だった。
「守備者としてのセンスが桁違いだったから、途中でコンバートされたって言っていたけどね」
蒼空斗は肩をすくめた。
「・・・そうかよ」
蹴太は短くそう返し、それきり口を閉じた。だが内心で、別のことを考えていた。
(ってことは、あいつは【分かってる】ってことか)
ストライカーがどこに立ちたいか。どこにボールが欲しいか。そして、何をされれば一番【絶望】するか。
守り手としての完成度に、撃つ側の思考が乗っている。あの日フットサルコートで自分のあらゆる選択肢が潰されていた理由がようやく完全に腑に落ちた。
(・・・厄介だな、本当に)
■■
同じ時刻。
白豪学園中等部のロッカールームには対照的に重苦しい空気が流れていた。
誰も何も話さない。水を飲む音と、荒い呼吸だけが響いている。
数字の上ではたった1点のビハインドだ。だが彼らを黙らせているのは点差ではなかった。後ろに立つ絶対的な存在が1対1で完璧に剥がされたという事実だった。
パンッ、パンッ。
その沈黙を、手を叩く音が破った。
「はいはい。落ち込まない」
キャプテンの九条隼人だった。
「まだ1点だ。全然返せる。むしろここで落ち込むほうが相手の思うツボだよ」
いつものあの馬鹿みたいに明るい声だった。
「・・・そうだよな」
「まだ30分ある」
俯いていた選手たちが、一人、また一人と顔を上げていく。
このキャプテンの声にはそういう力があった。技術で敵わない人間がいることも、才能で及ばない人間がいることも認めた上で、それでも前を向かせる力が。
しかしそんな言葉を掛けている中、その部屋の中で一際異質なオーラを放ちながら、ベンチに深く腰を下ろしている男がいた。
「ヤンセン」
「・・・」
ヤンセンは顔を上げなかった。両膝に肘を置き、床の一点を見つめたまま動かない。
「後半戦からは、お前だけにあの神野の相手はさせない。俺たちも協力してコースを切る。いいか」
「あぁ。頼む」
短い返事だった。
意地を張るでもなく、突っぱねるでもない。この男は今の自分一人では確実に止め切れないという事実をすでに素直に受け入れていた。
「あと、もう一つだけ頼みがある」
「・・・」
九条はそこで一度言葉を切った。そして、口の端を吊り上げる。
「お前も攻撃に参加してもらえるか?」
その瞬間、ヤンセンの顔がゆっくりと上がった。部屋がざわついた。
センターバックを攻撃に上げるということは、その背後を広大に空けるということだ。相手にはあの恐ろしい9番がいる。一度でも裏を取られればそれで確実に終わる。正気の沙汰ではない。メンバーの中にも動揺や否定の声が上がる。
「悪い顔してんな」
「知ってるよ」
九条はあっさりと頷いた。
「でもさ、安全に守ってりゃ点は入らないだろ?」
そして、不敵に笑った。
「向こうの9番の【個】にやられたんだ。だったらこっちも一人で試合をひっくり返せる最高の【個】の力を使うのが筋じゃねぇか?」
沈黙が落ちる。そしてその沈黙を破ったのは当のヤンセンだった。
「・・・お前性格悪いな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ヤンセンはゆっくりと立ち上がった。その顔にはこの試合が始まってから初めて、底知れぬ笑みが浮かんでいた。
■■
後半戦の開始を告げるアナウンスと共に両チームのイレブンが再びピッチに姿を現す。観客席が前半とは比べ物にならない音量で沸いた。
(さて、どうなるか・・・)
柳野もじっとピッチを見つめていた。そして主審の笛が鳴り、白豪学園のキックオフで後半戦の幕が開けた。
後半開始直後、九条隼人がワントップの武雄からボールを受ける。そしていきなりワンタッチで左インサイドハーフへ流した。
「行かせるな!」
反応した高橋と右サイドバックの中村が同時に詰める。だが白豪の左インサイドハーフは勝負を挑まなかった。そのまま外の左サイドバックへ安全に預ける。そして左サイドバックも前へは出ない。
(ずいぶんゆっくりだな)
蹴太は真っ先に違和感を覚えた。
前半終了間際、あれほど剥き出しの圧力をかけてきたチームが後半の入りでいきなり極端にペースを落としている。
急がない。無理をしない。ただ丁寧に、横へ、後ろへ、ボールを動かし続ける。
(ヤンセンの動きは・・・)
蹴太はちらりと最終ラインを窺った。
(前半と変わらず俺をマーク、か?)
背番号25はいつも通りそこにいる。前へ出るでもなく、下がるでもなく、蹴太との距離だけを一定に保っている。
蹴太はヤンセンを気にしつつ、いつでもボールを受けられる位置を探して細かく動き続けた。そして、後半開始から8分。
依然として白豪学園はゆっくりとしたペースで試合を進めていた。だが、それでも青下・松野川はボールに触れる機会が少ない。
パスの数だけが積み上がっていく。前へは来ない。かといって隙も見せない。観客席からも次第に戸惑いの声が上がり始めていた。
「なんだ? 攻めねぇのか?」
「負けてんのは白豪だろ」
その通りだった。1点を追いかけているのは白豪学園の方だ。時間を使えば使うほど不利になるのは彼らのはずだった。それなのに、急がない。そしてベンチでは居舘が腕を組んだまま眉間の皺を深くしていた。
(・・・落ち着きすぎている)
負けているチームの動き方ではない。だが慌てているようにも見えない。つまりこれは焦りではなく、明確な意図。
(何を仕込んでいる?)
叫んで警告してやりたかった。だが何を警告すればいいのかが分からない。指導者としてこれほど気持ちの悪い時間はなかった。そしてそれはピッチの上も同じだった。
(一体何を狙ってる?)
春樹は歯痒さを噛み殺していた。
(ジリジリと攻めて、こちらのほころびを狙う気か?)
そう解釈するのが一番自然だった。リードされている側が焦らずに、相手の集中を切らせにきている。
春樹は武雄に注意を払いながら、ポジションを普段より後ろに取った。裏へ抜けさせない。それが最優先。だが後半11分になってもまだ相手は動かない。
(不気味だ)
蹴太も同じことを考えていた。
(何を狙ってやがる)
ちらりとヤンセンを見る。しかし最終ラインから動かない。守備に専念している。ならば白豪は蹴太を消したまま試合をしにきているのか。だが、それも妙な話だった。
1点を追っているのは向こう。試合を落ち着かせて得をするのは青下・松野川合同チーム。
(・・・くそ。これじゃあ俺は置物だぜ)
蹴太は自分の内から湧く焦りを自覚していた。
ボールに触れていない。後半に入ってからまともに足元に収められていない。警戒されているのは分かっているが、ストライカーがこのままだとただの置物として終わる、と蹴太は考えた。
(ヤンセンが後ろをカバーするなら、俺はもう少し前にでるか)
ボールが来ないのなら移動するしかない。
蹴太はじりじりとヤンセンから距離を取り、いつでもボールを受け取れる体勢を整えた。そして蹴太とヤンセンの間に、わずかな距離が開く。
その時だった。
(来た!)
「なっ!」
九条が保持していたボールを一瞬の判断で後ろへ流した。そして蹴太の真横をすり抜けて転がっていき、そのボールを受け取ったのは・・・
「ちっ!」
ヤンセン・大河だった。
蹴太は即座に反転し、全速力でその足元へ向かう。だがヤンセンは慌てなかった。ボールを晒すように置き、蹴太を十分に引きつけてから味方のボランチへと横パスを出す。
(! まさか!)
蹴太が、一瞬だけボールの行方を確認するために首を横へ向けた。そのコンマ数秒。ヤンセンは、蹴太の裏を抜けていた。
「ちっ!」
センターバックが最終ラインから最前線へ向かって走り出している。そしてボランチから絶妙なタイミングでボールが返された。
(おいおい! お前はセンターバックだろが!)
ヤンセンがドリブルを開始する。190センチの巨体が加速しながら、青下・松野川の陣内へ怒涛の勢いで突き刺さってくる。そしてそこでようやく蹴太は理解した。
後半の11分間、白豪学園がゆっくりとボールを回し続けた理由。あれは時間を潰していたのではない。この一本のために、こちらの全員に【ヤンセンは上がってこない】と信じ込ませるための長大な罠の時間だったのだ。
「止めろっ!」
「白河君!」
反応したのは蒼空斗と健一だった。
(マジかよ! ボール奪われたら即失点レベルだぞ!)
健一は必死だった。相手はセンターバック。本来ここにいるはずのない選手がここにいる。
(やっぱり攻撃に参加するか!)
蒼空斗は逆に来ることを知っていた。二枚で挟む。それが最善手だった。ここで一瞬でも足を止めさせられれば、後ろから戻ってくる蹴太が必ず間に合う。
そう思っていた。だが、ヤンセンは止まらなかった。ドリブルの流れのまま、右足がボールを撫でるように弾く。
二人の隙間。蒼空斗と健一が身体を寄せた分だけ生まれた、その一直線の隙間をグラウンダーのパスが綺麗に通り抜けていった。
「なっ!」
そして当然それに反応する男がいる。白豪学園のエースストライカー、武雄颯太。ボールを受けた武雄は、そのままペナルティエリアへと迫っていく。
(こいつは!)
春樹が全力で戻り、斎藤と並んで壁を作った。
「サイド来るぞ! 絞りすぎるな!」
両サイドバックにも指示を飛ばす。中村と渡辺が外へのパスコースを警戒しながら間合いを詰めた。
(サイドのパスコースは大丈夫! シュートコースもOK! 抜かせなければ!)
春樹は冷静だった。
ヤンセンが上がってきたその瞬間から武雄に繋がることを最大限に警戒して動いていた。だからこそこの位置に間に合っている。
(まだペナルティエリアじゃない! 最悪、ファウルで止めれば!)
ペナルティエリアとは目と鼻の先だ。だがまだ外側。ここならカードと引き換えに止められる。
シュートか。ドリブルか。それともサイドへのパスか。
どれが来ても対応できるつもりだった。だが武雄が選んだのは恐るべき4枚目のカードだった。
(ちっ! 俺がゴール目前でパスするなんてお前だけだからな!)
武雄は振り向きすらしなかった。右足の踵をそっとボールに当てる。
ヒールでのバックパス。
それは武雄へ迫っていた蒼空斗と健一の間をまたしても綺麗に抜けていった。そしてその先にいたのは・・・
「ヤンセン!」
蹴太の声だった。
あと一歩。たった一歩だけ間に合わなかった。それはボールが来ないことに焦れて、自分から離れた代償だった。
「おらぁぁ!」
ヤンセンの右足が豪快に振り抜かれる。
ドガァンッ!
ミドルレンジから放たれた砲弾が一直線にゴールへ向かった。
「やっ!」
GKの中野が横っ飛びで必死に飛びつく。ぎりぎりだった。指先が確かにボールを捉え、弾かれる。
だが。
「シュート撃つなら一発で決めろよな」
弾かれたそのボールの落下点にすでに武雄颯太が入っていた。
ストライカーは誰かがシュートを撃った瞬間から次の動きを始めている。誰が撃とうと、こぼれ球は自分のものだ。そう信じている人間だけの完璧な位置取りだった。そして無情にも押し込まれたボールが青下・松野川のゴールネットを揺らす。
後半15分。
【青下・松野川合同チーム 1―1 白豪学園】
白豪学園の執念と戦術が実を結んだ痛恨の同点弾だった。




