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31/61

31.VS白豪学園中等部―――3

(来い!)


(・・・)


蹴太は無言のまま、足元からドリブルを開始した。


一歩目から鋭く仕掛ける。左肩を深く大きく落とし、上半身と重心をまとめて外へ大きく振る。並のディフェンダーならその時点でもう完全に身体ごと持っていかれる、圧倒的なボディフェイント。


だが、ヤンセンは動じなかった。膝の角度も、肩の位置も、爪先の向きすら一切変わらない。動いたのは眼球だけだった。蹴太の派手な上半身の振りを完全に無視して、ボールと蹴太の腰の動きだけを冷静に見ている。


(まっ、分かっていたよ)


蹴太は一度完全に止まった。そして左足をそっとボールの上に置く。まるでそこでプレーをやめて考え込んでいるかのように。


その瞬間だった。


「もらったっ!」


白豪のボランチが猛然と背後からボールを刈りに出た。相手は完全に止まっている。しかも足をボールの上に置いている。奪うなら今しかない。セオリー通りなら誰もがそう判断する場面だった。


「待てぇ!」


だがその鋭い声が制止した。九条隼人だった。


「えっ」


急停止したボランチが、困惑した顔で振り返る。


(ちっ! 来てくれたらそれを壁にして利用しようと思ったのによう)


蹴太が小さく舌打ちを漏らした。そして九条には見えていたのだ。


あれは隙ではない。罠としての誘いであることを。わざと足を置いて自分の重心を殺し、食いついてきた人間を軸にしてその勢いごと剥がすための悪魔のような罠だ。


(普通ならこんな指示しないんだが、あいつは普通じゃ無ぇ)


自分たちは数的に上回っている。本来ならどんどん人数をかけて囲むべきだ。それがディフェンスの定石だ。


(だが、ヤンセンの足かせはなくしたい)


複数で寄れば、必ずヤンセンの自由に動ける範囲が狭くなる。味方が邪魔になる。あの異常な1対1に限ってはヤンセン一人に任せた方がいい。


そんな非合理的な判断をディフェンダーに対して下したのは、九条の中学生活で初めてだった。


ピッチに異様な時間が流れる。


22人のうち、20人がピタリと止まっていた。誰も動けなかった。動いた瞬間に何かが崩れる、そういう張り詰めた緊張が中央の二人から周囲へ放射されていた。


(・・・入れない)


春樹はすぐにサポートに行くべき距離まで詰めていながら、そこから一歩も動けずにいた。


味方として当然声を出してボールを引き出すべき場面。声をかけてパスコースを作るべき場面。だがそれをした瞬間、あの完成された空間が壊れる気がした。


(・・・見たい)


隣で蒼空斗が同じ位置に立ち尽くしている。その横顔は味方を援護する顔ではなかった。怪物同士の純粋な戦いを見たい、そしてそれを1秒も見逃したくないという、サッカー小僧の顔だった。


観客席も静まり返っていた。ただ二人が向かい合っているだけ。何も起きていない。それなのに誰も咳ひとつしなかった。


ほんの数秒。だが確かにスタジアムの時間が完全に止まっていた。そして、それを止めた張本人が自ら再び動かした。


(行くぜ、ヤンセン!)


蹴太は足元のボールを手前へ強く引いた。そのまま右足の甲に乗せてすくい上げる。そして、ふわりと宙に浮いたボールを今度は左足の甲で軽く叩いた。


(おいおい! 大道芸かよ!)


ヤンセンの内心が驚愕で悲鳴を上げる。だが、それで終わりではなかった。その左足に弾かれて跳ね上がったボールへ、蹴太はすでに素早く頭を差し込んでいた。


コツンッ。


前へ押し出す。引く、すくう、叩く、押し出す。4つの動作に一切の無駄も間もなかった。流れるようなひとつの動きとして完全に繋がっていた。


(こんなもんどこで覚えた!)


ヤンセンは海外の育成年代の最先端の映像をそれこそ浴びるほど見てきた。父の母国のクラブで実際にボールを蹴ったこともある。


だからこそ分かる。今のはサッカーの技術のカタログにない。誰かに教わった既存の型ではなく、今この場でヤンセンを抜くためだけに必要になったから組み立てられた、完全なる即興だ。そしてそのあまりの滑らかさに、ヤンセンの反応が一瞬だけ遅れる。


(貰った!)


(いかせんよ!)


ボールは白豪学園の最終ラインの背後、ラインを押し上げていた分だけ広く空いた危険なスペースへと転がっていった。そしてそこへ、二人の怪物が同時に走る。


ドンッ!


肩がぶつかる。腕が激しく絡む。互いに一歩も譲らないまま怪物が並走した。


一歩。二歩。三歩。


蹴太のスピードは【SSS1000】。この年代で並ぶ者などほとんどいないはずの絶対的な数値だった。それが完全に並ばれている。歩幅が違う。同じ距離をこの男は圧倒的に少ない歩数で走る。


(やっぱり、純粋なフィジカルじゃ届かねぇか)


だが、蹴太の口元はニヤリと歪んでいた。そして先にボールへ触ったのは・・・


「っ!」


ヤンセンだった。


(よし!)


蹴太の右側を分厚い身体でブロックしていたヤンセンは、正面を蹴太に向けたままその長い右足を伸ばした。そしてつま先がぎりぎりでボールの表面を正確に捉える。


(ボールを蹴太と逆側に弾けば!)


無理に奪い切る必要はない。蹴太の届かない外側の位置へ流し、カバーに来る味方の左サイドバックに預ければそれでこの危険な局面は終わる。完璧な処理だった。そのはずだった。


「やっぱりあんたは世界に届く傑物だよ」


「なっ!」


耳元で静かな声がした。


蹴太は最初から競り勝つ気などなかった。あの日、フットサルコートの空中戦で押し負けた瞬間から、この男とまともに力比べをして勝てないことは痛いほど分かっていた。


だから戦術で上回る。読んだのだ。


ヤンセンほどの洗練された選手なら、この角度から必ず利き足である右足のアウトサイドで触る。そして、蹴太の絶対に届かない外側の方向へ弾く。もっとも安全で確実なその処理を一瞬で選ぶはずだ。


だが、その【完璧な処理】を行うためにはほんのコンマ数秒、どうしても視線をボールに落とさなければならない。


ヤンセンの眼球が下へ動いた、その刹那。


蹴太は競り合うのを完全にやめた。そして左手をヤンセンの分厚い身体にそっと添え、強靭なその巨体を逆に【支点】にして、コマのように華麗に背後へとターンした。


弾かれたボールの落ち際、ヤンセンの死角の空間へ身体ごと一瞬で回り込む。


トンッ。


右足のインサイドがそのボールを磁石のように吸い込むように収めた。


「俺の勝ち」


「くそっ!」


ヤンセンが慌てて振り返った時にはもう遅かった。


蹴太の身体はすでにシュートを振り抜く完璧な体勢に入っている。視界の端で白豪のGKが慌てて重心を戻そうとしているのが見えた。


ニアを警戒している。当然だ。この角度、この距離ならキーパーはまずニアを消す。


(なら、逆だ)


ドンッ!


右足が芝を深く削り、ボールを打ち抜いた。


放たれたのはゴールの手前で鋭く外へ逃げていく、完璧な軌道のアウトカーブ。


白豪のゴールキーパーが飛んだ。必死に手を伸ばした。だが、その指先が届くと思った位置からボールは最後の一瞬でさらに外へ逃げていた。


バサァッ!!


ファーサイドのゴールネットが突き上げられるように激しく揺れる。


【青下・松野川合同チーム 1―0 白豪学園】


前半27分。


王者と言っても過言ではない白豪学園中等部が、あの絶対的なヤンセン・大河を完全に抜かれての失点。その恐ろしい意味を、誰よりも白豪学園の選手たちが理解していた。


■■


「入っ、た?」


青下・松野川のベンチでは、明里がタオルを持ったまま固まっていた。そして数秒遅れて控えの山本と田中が転がるようにベンチから飛び出す。


「入った! 入ったぞ!」


「ヤンセンからだぞ!? あのヤンセンから!」


「座れ! まだ前半だ!」


居舘が二人の首根っこを掴んでベンチへ引き戻した。だが、そう言った当の本人の腕にもブワッと鳥肌が立っていた。


(・・・俺は今、何を見た)


かつてプロを目指し、そこへ届かず、教師の道を選んだ男。到達できなかった側の人間として、才能というものがどういう形をしているのか、居舘は知っているつもりだった。


だが今のは違った。あれは才能だけの話ではない。


フィジカルで競り勝てないと理解した上で、相手の処理の仕方まで一瞬で読み切って、その裏を取ったのだ。


(・・・あいつは頭で勝ったんだ)


観客席では博が声も出せずに立ち上がっていた。


■■


「マジかよ・・・ヤンセンが負けた?」


「誰だよ! あの合同チームの9番は!」


観客席に上がったのは歓声ではなかった。戸惑いと動揺だった。


彼らは今日、無料でヤンセン・大河の圧倒的なプレーを見に来た。世代ナンバーワンの怪物が、格下の部活動チームを蹂躙する姿を楽しみに来たはずだった。


それが先制したのは無名の合同チームで、しかもその1点はあの怪物を1対1で完全に剥がして生まれたものだった。


「ハハっ! とうとうやりやがった!」


そんな騒然とする中で一人だけ、まるで子どものようにキラキラした目でピッチを見ている男がいた。柳野隆二である。


「驚きました・・・まさかヤンセン君が抜かれるなんて・・・」


傍らの氷川もさすがに動揺を隠せていない。


「氷川。あの9番の選手を知っているか?」


「い、いえ・・・」


「俺もだ」

柳野は笑ったままそう言った。


日本サッカー協会のナショナルチームダイレクター。この国の育成年代のあらゆる情報が最終的に集まってくる立場の人間である。その男が『知らない』と言った。


「何処かの海外ジュニアユースの選手でしょうか? それが最近帰国したとか?」


氷川が現実的な線を挙げる。


「それはない」


だが、柳野は即座に否定した。


「海外の有力クラブに居るジュニアユース選手にそんな日本人は今のところいない。それくらいはJSAが完全に把握している」


「じゃあ・・彼は・・・」


「考えられる有力な候補は、一つだ」


柳野はピッチを見下ろしたまま言った。


「彼がこのたった数年で本格的にサッカーを始めた、ということだ」


「そんなこと・・・ありえるのでしょうか?」


数年。つまり、他のエリート選手たちが十数年かけて血反吐を吐いて積み上げてきたものを、あの9番はほとんど持っていないということになる。そしてその状態で幼少期から世界を意識して英才教育で育てられてきた怪物を、1対1で剥がした。


「常識ではありえないな」


柳野はあっさりと認めた。そして口の端を吊り上げる。


「彼が、サッカーの神に愛されていない限りな」


■■


「まだだ! すぐにリスタートするぞ!」


ネットから素早くボールを拾い上げた九条が大声を張り上げた。その声はいつも通り明るく、いつも通り前向きだった。


(まいったなぁ・・・)


だが、キャプテンとしての内心はそうではなかった。


(まさかあのヤンセンが抜かれるなんて・・・久々にヤバいな)


九条はまだ茫然としている味方を一人ずつ叩いて回った。センターバック。ボランチ。サイドバック。全員の顔が明らかに白くなっている。彼らにとって【後ろにヤンセンがいる】という事実は、絶対的な精神安定剤そのものだったのだ。


「隼人・・・今の、どうやって・・・」


「知るかよ。俺だってやられた側だ」


「でも、ヤンセンだぞ?」


「うるせぇな」


九条はその選手の背中をバシンと強く叩いた。


「ヤンセンが抜かれたら終わりのチームなら、最初から俺らはいらねぇんだよ」


それは味方への叱咤であると同時に、自分自身への確認でもあった。このチームは強い。ヤンセンがいなくても都内で三本の指に入るチームであるはずだった。それをたったワンプレーで全員が忘れかけていた。


(俺たちが弱いんじゃない。あいつが規格外なだけだ)


そう自分に言い聞かせて九条は最後にその男のもとへ向かった。


「ヤンセン・・・」


「・・・すまん。完全に抜かれた」


膝に手をついたまま、ヤンセンは短くそう言った。


「気にするな。お前ばかりに頼った俺らが悪い」


「・・・次は、絶対に止める!」


顔を上げたヤンセンの目を見て、九条は思わず言葉を飲んだ。


(・・・こいつ、こんな目もできるのか)


2年以上同じ学校でこの男を見てきた。ユースに呼ばれる時も、代表に選ばれる時も、こいつはいつも余裕のある涼しい顔をしていた。しかし今そこにあったのは、九条が今まで一度も見たことのないレベルの燃えたぎるような闘志だった。


■■


一方、そのころ自陣では。


「うぉぉぉぉぉ! 蹴太ぁぁぁぁ!」


「うるさい。抱きつくな」


飛びついてきた健一を蹴太は片手で軽くいなした。


「よくやってくれた!」


「あぁ」


春樹が汗まみれの手で力強く肩を叩く。


「ナイスゴール!」


「ナイスパス」


蒼空斗と拳を軽く合わせた。


沈み込む白豪学園と湧き立つ青下・松野川。対照的な光景の中、主審が笛を鳴らす。


前半29分。試合が再開された。


「行けぇぇぇ!」


リスタートと同時に、白豪学園は全員が攻撃に参加するようなハイプレスをかけてきた。後半戦はある。それでも負けたままでは終われないという強者の意地と意思があった。


サイドバックが最終ラインを追い越し、ボランチが前線と並ぶ。もはや守備のバランスを捨てている。1点を取り返すためだけの剥き出しの圧力だった。


その先頭には武雄颯太がいた。


映像で見た通りの男だ。ボールがどこにあっても、常にゴールから逆算した位置に立っている。そして味方がボールを持った瞬間、必ず最終ラインの背後へ走る。何度潰されても、何度でも走る。


「全員で守り切るぞ!」


居舘がベンチから叫ぶ。


「「「「「はい!」」」」」


青下・松野川は全力で守備に回った。


蹴太も、蒼空斗も、中山も、全員が自陣に帰陣する。二列の強固なブロックを作り、身体を投げ出し、コースを消し、跳ね返し続ける。だがそれでも白豪の猛攻は止まらなかった。


「斎藤! ニアだ!」


健一の声に反応した斎藤が頭で必死に触る。そしてそのこぼれ球を白豪のボランチが拾い、ペナルティエリアの外から迷わず叩く。


「おしっ!」


GKの中野が横っ飛びで弾いた。だが威力が強く、完全には掴めない。


「クリア! クリアしろ!」


その混戦に蹴太まで戻って身体を投げ出していた。あのストライカーが自陣のゴールライン際で泥臭く足を出している。だが誰も違和感を覚えなかった。あの1点を守り切ることが、今この瞬間の全員の仕事だった。


呼吸をする時間すら与えられない。芝の上、青下・松野川の選手たちの息だけが荒くなっていく。


「時間! 時間を見ろ!」


春樹が叫ぶ。そして電光掲示板にアディショナルタイムが表示された。


その時間、わずか3分。


「武雄ぉ!」


一瞬だけ開いた中盤のスペースへ九条がスルーパスを差し込んだ。呼応した武雄がそこへ全力で入ってくる。


「抜かせん!」


立ち塞がったのは春樹だった。


「抜いてやる!」


武雄のドリブル技術は蹴太のそれには遠く及ばない。だが中学生としては明らかにトップレベルだった。そのドリブルは細かいタッチ。減速からの急加速。そして何よりゴールへ向かう意志の強さ。


春樹は粘った。粘って、粘って、それでも。


「くっ」


抜かれた。


(よし! このままペナルティエリアに・・・)


「行かせない!」


その進路に蒼空斗が身体を投げ出した。ペナルティエリアの手前。ぎりぎりの位置でのスライディング。つま先がボールを弾き、軌道が大きく右へ流れる。


ルーズボール。


「「取れぇ!」」


両チームの司令塔の声が同時に響いた。春樹と九条。二人の指示はまったく同じだった。そして先に辿り着いたのは・・・


「よし!」


青下・松野川の左サイドバック、渡辺だった。


(これをクリアして・・・)


大きく蹴り出せばいい。それで前半は終わる。1点リードしたままハーフタイムに入れる。そう思った、その瞬間。


「うぉぉぉぉ!」


視界が黒く塗り潰された。


「なっ!」


ヤンセン・大河だった。


1点を追う白豪学園はセンターバックまで前線へ送り込んでいた。その巨体が渡辺の細い身体を真横から一気に呑み込む。


抗う暇すらなかった。渡辺はフィジカルで競り負け、ボールを奪われる。そして位置はペナルティエリアのすぐ外。角度も悪くない。


(貰った!)


ヤンセンの左足が大きく振り上がる。だがその振り上げにはほんのわずかな躊躇があった。


ヤンセンの利き足は右。ここから右足で撃つには一度ボールを持ち替えなければならない。しかしその時間はない。ならば左で撃つしかない。その判断に要したコンマ数秒。


「利き足じゃない分、一瞬迷ったな」


「!」


真横から差し込まれた右足がその軌道を完全に塞いでいた。ゴールから最も遠い位置にいたはずの蹴太がそこにいた。ヤンセンが渡辺と競り合った瞬間にはもう走り出していた。


ドンッ。


蹴太の完璧なブロック。


ヤンセンの左足から放たれたシュートはゴールへ向かうことなく、鈍い音を立てて弾かれた。そしてこぼれ球が力なく芝の上を転がっていく。


その時。


ピーッ! ピーーッ!


前半終了のホイッスルが熱狂の会場に鳴り響いた。

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