30.VS白豪学園中等部―――2
青下・松野川合同チーム対白豪学園中等部。
この2校の勝負は前半開始のわずか数分で、すでに会場の空気を丸ごと飲み込んでいた。そしてそれは観客席の一角に座る男も例外ではなかった。
「!!!」
日本サッカー協会ダイレクターの柳野隆二は、気づけば座席からガタッと立ち上がっていた。
無名の青下・松野川合同チームの背番号9があのヤンセンと真正面から仕掛け合い、怪物のブロックを掻い潜ってシュートまで持ち込んだ、その一連の光景。
(まさか・・・)
心臓が、自分でも驚くような妙な速さで打っている。
「惜しかったですね。合同チームの方は」
隣で氷川が事務的にそう漏らした。
「氷川! 合同チームの方のデータはあるか!」
「えっ! ちょ、ちょっと待ってください・・・」
普段は決して声を荒げない上司の異様な剣幕に、氷川は慌ててタブレットを操作した。そして協会が保有する育成年代の巨大なデータベースへアクセスする。ジュニアユース、街クラブ、有力校。この年代で少しでも名前が挙がるような選手ならたいていの情報は揃っている。
だが。
「すみません・・・さすがに合同チームのデータは無いです・・・」
検索結果は空だった。
【青下・松野川合同チーム】というチーム名すら、登録上の最低限の記録しか残っていない。
「そうか・・・すまん。取り乱した」
柳野は短くそう言ってピッチに目を向けたまま静かに腰を下ろした。だがその視線は、もう試合全体を追ってはいなかった。
「ど、どうしたんですか? 柳野さん?」
「氷川、あのプレーを見て何も思わないのか?」
「えっと・・・ヤンセン君が合同チームの9番のシュートをギリギリでブロックしたとしか・・・」
「そうか」
柳野はわずかに笑った。責める調子ではなかった。
「そう言えばお前は、スポーツ庁からの出向組だったな」
「はい? まぁそうですけど、なんで急に?」
「ヤンセンが『抜かれかけた』。この意味、分かるか?」
「えっと・・・まぁはい。流石に」
強豪の絶対的な守備者が無名の部活の選手に危うくやられかけた。それが異常事態であることくらい、氷川にも理解できる。
だが柳野は静かに首を振った。
「いや、お前は分かっていないな」
柳野はピッチを指差した。
「ヤンセンが同世代の中学生相手に、【脚を出してボールを触れることしか出来なかった】ってことをだ」
「・・・」
氷川の指がタブレットの上で止まった。言葉の意味を数秒かけて咀嚼する。
止めたのではない。奪ったのでもない。身体を入れて防いだのでもない。
あの日本人離れした間合いとリーチを持つ絶対的な男が、最後の最後に苦し紛れに足を伸ばしてつま先を引っ掛けることしかできなかった。つまりそれ以外の手段では【間に合わなかった】ということだ。
「・・・確かに。格上のユース世代の相手ならまだしも、この年代では珍しいかもしれません」
「珍しい、か」
柳野はそれ以上訂正しなかった。ただ黙ってピッチを見下ろす。22人が動いている。だが彼の目はもうたった一人の背中しか追っていなかった。
青下・松野川合同チーム、背番号9。
柳野は空調の効いた観客席にいながら、背中に冷や汗が這うのを感じていた。
■■
前半開始11分。
青下・松野川合同チームのスローインで試合が再開された。右サイドバックの渡辺がタッチライン際から投げ入れ、それを蒼空斗が受ける。
(中へは・・・無理か)
ボールに触れた瞬間、蒼空斗は判断を終えていた。
ペナルティエリア前の密集地帯。そこには蹴太を身体で完全に抑え込みながら、なおかつこちらへのパスの角度を完璧に消しているヤンセンがいる。
あそこへ強引に通せば、間違いなく刈られる。蒼空斗は逆らわず、春樹へ安全に返した。
「月影君 ナイス!」
春樹はワンタッチでそれを処理し、左ウィングの中山へ展開する。
だが中山がボールに触れた瞬間、白豪の右サイドバックと右インサイドハーフが恐ろしい速度で同時に距離を詰めてきた。
二枚。しかも寄せる角度が完璧に噛み合っている。縦のコースも内側も同時に消されて、行き場がない。
「くっ」
中山は泣く泣く後方の健一へと戻すしかなかった。
その繰り返しだった。
前へ出そうとすれば二枚で潰される。横へ逃げれば罠に追い込まれる。青下・松野川はボールを持ったまま、じりじりと自陣のセンターサークル付近まで押し戻されていく。そのため前線の蹴太のもとへはボールが一向に届かなかった。
(・・・来ねぇな)
蹴太は相手の最終ラインの前でヤンセンを背負ったまま、何度も足元へパスを要求していた。だがそのたびにパスコースが消えている。
自分が右へ動けばヤンセンも右へ。左へ流れれば左へ。直接触れてくるわけではない。ただ常に、味方の出し手と自分を結ぶ直線の上にあの巨体がピタリと置かれているのだ。
(笑えねぇな、これは)
青下・松野川合同チームのベンチでは居舘が腕を組んだまま微動だにせずピッチを睨んでいた。
「先生・・・」
明里が不安げに横に立つ。
映像で見ていた通り、いや、それ以上だった。白豪学園は誰一人としてサボらない。ボールを失った瞬間に全員が最短距離で戻り、奪った瞬間に全員が最短距離で前を向く。中学生のチームでこれほど全員の戦術的判断が揃うことがあるのか。
(・・耐えろ。まだ時間は十分にある)
居舘は口を開かなかった。ここで監督が焦った指示を出せば選手はもっと焦る。
(くそ! ボールを持ってるのはこっちなのに、どんどんゴールから遠ざかる)
春樹は歯噛みした。
ボールを保持しているのは自分たち。数字の上ではポゼッションしている。だが実態は白豪学園のプレスの網の中で【持たされている】だけだった。
(しかもこっちは常に相手のFWに注意しないといけない。パスミス即失点の可能性がちらつく!)
白豪のワントップ、武雄颯太。
あの男は無駄に追い回してこない。ただこちらのパスコースの真ん中に立ち、次の一本が緩んだ瞬間だけを狙って低く身体を沈めている。
そしてその時はついに来た。
(! まずい!)
右インサイドハーフの高橋から春樹へ向けたパス。わずかに強さが足りず、そして芝の上をわずかに這うように転がった。
それを見逃してくれるほど白豪学園は甘くなかった。
「もらい!」
パスコースへ滑り込んだのは司令塔の九条隼人だった。
インターセプト。だが春樹の反応も速い。奪われた瞬間にはもう身体を寄せに行っていた。
(ほぉ? 神野と月影以外にもちゃんといい選手がいるな)
九条の顔に笑みが浮かぶ。
(だけど、甘いよ!)
九条はボールを足元で止めなかった。寄せられた勢いをそのまま利用し、ワンタッチで右インサイドハーフへ流す。足で触れる、というより弾くようなパスだった。
「行かせるかっ!」
即座に反応したのは渡辺と健一。数的には2対1。守備側が有利のはずだった。
「やらせねぇよ!」
健一は覚悟を決めていた。なぜならここはまだペナルティエリアの外。最悪、ファウルでもいい。カードをもらってでも止める。それが自分の仕事。そう決めて思い切りよくタックルに入った。
だが。
「なっ!」
白豪の右インサイドハーフは健一を一切見ていなかった。
視線は前を向いたまま。首すら振らずに足の外側でボールをダイレクトで横へ流す。
ノールック。
まるでそこに味方がいることが世界の約束事であるかのように。
「サンキュー!」
そしてそこには当たり前のように九条隼人が走り込んでいた。
九条はトラップすらしなかった。流れてきたボールをワンタッチで低く鋭いグラウンダーのキラーパスへ変える。
健一の裏。飛び込んだ分だけポッカリと空いたその危険なスペースへ走り込んでいた影があった。
(もらった!)
エースストライカー、武雄颯太。
「させないよ!」
その瞬間、真横から滑り込んできた足があった。蒼空斗だった。
つま先がボールの端をかすめ、軌道がわずかにずれる。武雄の足元へ完璧に届くはずだったボールがほんの数十センチだけ後方へ流れた。
「クリアぁっ!」
蒼空斗が叫び、青下・松野川合同チームのセンターバックの斎藤が、身体を投げ出すようにして大きく蹴り出す。ボールはタッチラインを大きく割った。
「くそ! 俺はまた!」
健一が地面を殴った。また裏を取られた。自分の判断で飛び込み、自分で空けたスペースをやられた。
「白河君」
蒼空斗が起き上がりながらその肩を軽く叩いた。
「反省は後だ。今は目の前に集中しよう」
「・・・そうだな」
健一は両頬を強く叩いて立ち上がった。
そして前半開始18分。
青下・松野川合同チームの自陣深くで白豪のスローイン。
ボールを受け取った白豪の左サイドバックが、左インサイドハーフへと預ける。そして左インサイドハーフはすぐさまボランチへ。ボランチはそれをワンタッチで逆サイドの右サイドバックへ。
パスの一本一本が異様に速い。そして誰一人としてボールを持ちすぎない。観客席から、感嘆の声が漏れ始めていた。
「うわ、うっま・・・」
「これ本当に中学生か?」
繋いでいるのは特別なパスではない。誰でも蹴れる、ただのインサイドの横パスと縦パスだった。だがその全部が受け手の次のプレーや身体の向きまで計算された完璧な位置に届いている。
ボールが動くたびに青下・松野川の選手が一人ずつ後ろへ下がらされていく。
(ちっ!)
蹴太は舌打ちした。
(言いたくないが、ヤンセンだけじゃなくチーム全体がすげぇ)
蹴太はボランチにボールが渡った瞬間、そこを狙って一気に奪いに行くつもりだった。前線からの守備の第一歩。それが決まれば一気にショートカウンターへ持ち込める。
だが、スローインが始まると同時にすっと巨大な半身が視界に被さってきた。
「行かせないよ」
ヤンセンだった。
自陣深くから、わざわざここまで上がってきている。触れるでもなく、掴むでもなく、ただ【蹴太が最初の一歩を踏み出したい方向】にだけその巨体を置いている。
「くっ!」
(俺に徹底マークする気かよ)
11人でやるサッカーで、たった一人を消すためにセンターバックが最前線まで上がってくる。それが白豪学園の、いやヤンセン・大河の選択だった。
その間にも白豪は徐々に陣地を前進してくる。
「白河! 裏への抜け出し警戒! サイドは渡辺に任せろ!」
「おぅ!」
春樹の声が飛ぶ。司令塔は攻撃だけの役割ではない。ボールが自陣に入った瞬間から春樹は絶えず全体へ指示を出し続けていた。誰がどこを見るか、誰がどこを捨てるか。それを一つひとつ声で埋めていく。
しかし白豪がさらにギアを上げた。
(さぁて! どんどん行くぜ!)
「白豪の10番にボールが渡ったぞ!」
春樹は守備陣に注意を促し、自身もプレスへ向かった。
(FWのパスコースを潰す! サイドの対応は大丈夫なはずだ!)
じりじりとドリブルで近づいてくる九条に対し、春樹は細心の注意を払っていた。
飛び込まない。重心を上げない。縦への突破を切りながらじりじりと間合いを詰める。それは映像で何度も見た。この男はボールを持った瞬間に試合を変える。絶対に隙を見せてはいけないと考えていた。
すると九条がニカッと笑った。
「お前! すっげーいい選手だな!」
「!!!」
想定外の言葉だった。煽りでも挑発でもない。純粋な称賛だと春樹には分かってしまった。
映像の中で何度も見た男が自分の名前も知らないまま、ボール越しに自分の守備を『いい選手だ』と言った。
「だが、そんな気張ってちゃだめだぞ!」
「なめんな!」
春樹は仕掛けた。一気に距離を詰め、身体をぶつけてボールを奪いにいく。だが技術の差は明確だった。九条は激しく身体を当てられながらも足元のボールを一切晒さない。奪えない。
(ここは縦に抜かれないように一旦離れて・・・)
春樹は目を離さなかった。九条から一瞬たりとも。そう。九条だけしか見ていなかった。
「・・・」
九条の視線が前を向いたまま、その右足がボールをポンッと横へ弾いた。そこには猛然とオーバーラップしてきた白豪のボランチがいた。
「しまっ!」
春樹の背後を白豪のボランチが駆け抜けていく。
対応しようと右インサイドハーフの高橋が慌てて寄せた。だがそれこそが狙いだった。
ボールはダイレクトで再び九条へと戻る。
高橋が動いたことで生まれ、中央のわずかな隙間。九条の広い視界にはそれが最初から見えていた。
(ほら! ゴールを奪えよ!)
ワンタッチ。鋭い縦パスが最終ラインの間を切り裂いた。
(ナイスだ! 隼人!)
受けたのはエースの武雄。
「止まれっ!」
斎藤が必死に前へ出る。健一とセンターバックのコンビを組む松野川中の選手。堅実で、身体を張ることを厭わない。ここまで相手の攻撃を何度も跳ね返してきた男だった。だが、まるで刃が立たなかった。
武雄は減速すらしなかった。ボールを外へ運ぶと見せてから一瞬で内へ持ち替え、斎藤の伸ばした足の内側を通り抜けていく。ただの一度も接触せずに完全に抜き去った。
(なんだよ、今の・・・)
斎藤は自分が何をされたのかすら分からなかった。
映像で見た時、この9番は【味方の作った決定機を外さない選手】だった。だが本物は違った。決定機を自分で作る恐ろしい選手だった。
そしてその先。
「来い!」
GKの中野が両手を広げて思い切りよく飛び出した。シュートブロック。ドリブルで持ち込んでいる以上、角度を消して距離を詰めるのが定石だ。中野の判断は間違っていなかった。
(甘いよ)
しかし武雄、強く蹴らなかった。つま先でちょんとボールを浮かせてつつく。たったそれだけ。だが、それで軌道が変わった。
中野が反応しようとした時にはボールはもうその脇をふわりと抜けている。
「あっ!」
後逸。無人のゴールへ転がるボール。青下・松野川のベンチが失点を覚悟して一斉に腰を浮かせた。
だが。
「うぉぉぉ!」
ゴールへ迫る影があった。蒼空斗だった。
誰よりも遠い位置から走り、誰よりも早くそこへ辿り着いた男が身体を投げ出すようにスライディングでボールを掻き出す。
ゴールラインを割る、その直前だった。
そのスーパープレーに会場が沸いた。
観客席の一角で博が両手を上げたまま固まっている。すぐ隣で、見ず知らずの中年男性が「今の取るのかよ!」と興奮して叫んでいた。
「セーフ!」
尻もちをついたままの中野に蒼空斗は短くそう声をかけた。
抜かれたのは中野だ。だが飛び出したこと自体は間違っていない。あそこで待っていれば、武雄はもっと簡単に流し込んでいた。
「くそっ!」
中野が悔しそうに芝を叩く。だが蒼空斗は起き上がる時間すら惜しんだ。膝立ちのまま顔を上げ、前線を確認する。
白豪は点を取りに全員が押し込んでいる。つまりその背後には広大な平原が広がっている。
そしてその中央にただ一人。
「蹴太!」
低い弾道の強烈な縦パスが放たれた。そして蹴太は半身を相手ゴールへ向けたままその一本を受けた。
トンッ。
【吸着トラップ】。凄まじい速度で届いたボールが進みたい方向へぴたりと置かれる。そして顔を上げるまでもなかった。そこにはもう、あの男が立っている。
怪物同士の第二ラウンドが始まった。




