28.白豪学園中等部・決戦前
都大会一回戦までの間、青下・松野川合同チームはこれまでにないほど黙々と厳しい練習を重ねた。
居舘が自らの伝手を辿って借りてきた相手の練習試合の映像は、放課後の視聴覚室で何度も何度も擦り切れるほどに再生された。
白豪学園中等部。
まず全員が画面を見て息を呑んだのはその守備の圧倒的な完成度だった。
誰か一人がチェックに飛び出せば、必ず別の誰かがその空いたスペースを埋める。ボールを失った瞬間の攻守の切り替えが異様に速く、ボール保持者に寄せる方向や連動が全員で完璧に揃っている。中学生の部活動レベルのチームが即興でできるような動きではなかった。
「・・・要するに、隙がないってことか」
映像を見終えた健一が難しい顔で頭を掻きながら唸った。
「隙はある」
そう冷静に言ったのは春樹だった。
「あいつら、強いからこそラインを押し上げて前に出てくる。センターバックのラインが異常に高い。だから―――」
「裏だな」
蹴太が短く引き取ると、春樹は「そういうこと」と深く頷いた。
だが問題はそのラインを統率し、全体をコントロールしている存在の方だった。
九条隼人。白豪学園中等部のキャプテンにして、トップ下でゲームを作る絶対的な司令塔。
あの日、フットサルコートで見せた初心者に対する気安さの裏に、どれだけの恐ろしい引き出しと戦術眼が隠されているのかを蹴太はまだ半分も知らない。
そして、もう一人。
エースストライカー、武雄颯太。映像の中の彼は、味方が作った決定機を3本中3本、一切の迷いなくゴールネットへ叩き込んでいた。
(強豪の、迷うこと無く自分の仕事をこなすエースストライカーだな)
蹴太も静かに警戒を示した。そして相手の分析と対策できることはすべてやった。あとは決戦の日を迎えるだけだった。
■■
日曜日の朝。
(・・・行くか)
蹴太は自分の部屋で床に並べたスパイクを静かに見下ろしていた。
GWに父と買いに行った、あの一足。人工芝のフットサルコートで一度だけ火を噴いて、それからずっと今日この日のために出番を待っていた靴だ。
ふと視線をやると、机の上にはまだ真っ白なままの進路希望調査票が置いてある。提出期限は今月末。答えはまだ完全には出ていない。
(・・・後だ)
蹴太は視線を外してスパイクを手に取り、無造作にバッグへ押し込んだ。今日、自分がピッチで考えるべきことは一つしかない。深く息を吸って、長く吐いた。そしてステイタスを見る。
――――
神野蹴太
ランク:ジュニアユース
【基本スキル】
フィジカル:SSS1000
スピード:SSS1000
ドリブル:SSS1000
スタミナ:SSS1000
シュート:SSS1000
キープ:SSS1000
パス:SSS1000
【固有スキル】
・神の祝福:ステイタスが伸びやすくなる
・決定力:シュート時、ボールがゴールの枠内に収まりやすくなる
・両利き足:両足が利き足になり、ボールをコントロールできるようになる
・クイックモーション:威力は下がるが、クイックシュートを撃てるようになる
・ピンポイントクロス:対象に対してピンポイントでクロスをあげられるようになる
・精密パサー:パスミスがなくなり、精度が上がるようになる
・キラーパス:的確なスルーパスを出せるようになる
・パワーシュート:ミドルレンジからのシュートが入りやすくなる
・ヘディング:ヘディングシュートが入りやすくなる
・吸着トラップ:トラップミスがなくなるようになる
・ワンタッチ:ワンタッチでプレーができるようになる
・丈夫な身体:怪我がしにくくなる
・フリーキッカー:フリーキックがゴールに収まりやすくなる
――――
見慣れたステイタスのカンストした絶対的な数値の羅列。
(サッカーは、数字じゃねぇんだよな)
あの日、フットサルコートの空中でヤンセンに押し負けた感触が、まだ肩に熱く残っている。それを感じながら蹴太はステイタス画面を消して部屋を出た。
そしてリビングへ降りていくと、そこにはすでに着替えを済ませ、車のキーを回している博が待ち構えていた。
「よし来た! 送ってやるぞ!」
■■
ラジオから流れる交通情報を博が消して代わりに口を開いた。
「どうだ? 今日の相手、勝てるか?」
「知らん。それはやってみないと」
「まぁ、そりゃそうか!」
博はハンドルを握ったまま、豪快に笑った。
「でもお前は、チームのストライカーだろ? ならここは嘘でも【勝つ】って言わないと!」
「・・・」
蹴太はすぐには答えなかった。窓の外を、初夏の青々とした街路樹が流れていく。
嘘でも、と父は言った。だが、今の蹴太の中にある熱は決して嘘ではなかった。
(俺が勝つ)
チームメイトのいるロッカールームでも、ピッチでもない。まだ車の助手席で、誰も見ていない場所で、蹴太の腹の底はすでに揺るぎなく決まっていた。
「? どうした?」
信号待ちで、¥博が心配そうに横を向く。蹴太も父の方を見た。
「勝つ。絶対にな」
車内に一瞬の沈黙が落ちる。
息子の、これまで見たこともないような研ぎ澄まされた目。
「・・・そうか!」
博は嬉しそうに前を向き直り、それきり何も聞かなかった。
■■
都大会の会場に着いた時、チームの集合時間まではまだ余裕があった。
「観客席、あっちだろ? いい席取っといてやるからな!」
「いいから先に行ってろ」
はしゃぐ父親を追い払うようにして観客席側へ送り出し、蹴太は一人ピッチ脇の外周へ出た。そして、軽くランニングを始めた。
試合前に身体を温めるための、いつものルーティン。息のリズムを整え、足首と新しいスパイクの感触を確かめる。しかし、外周を半分ほど回ったところで、蹴太はピタリと足を止めた。目の前に、大きな人影があった。
白豪学園のジャージではなかった。かといってユースのウェアでもない。まるでこの場に用のない人間のような、無地のトレーニングウェア姿だった。
「・・・ここはユースの試合をする場所じゃねぇぞ」
「知っているよ」
「なら、母校の応援か?」
「それも違う」
ヤンセン・大河は腕を組んだまま全く動かなかった。二人は数メートル離れたまま、しばらく無言で睨み合った。
音がなかった。遠くで大会の用具を運ぶ音や、観客席に来た人たちの声が聞こえているはずなのに、その一切が耳に入ってこない。しかし、やがてヤンセンが口を開いた。
「意外と早かったな! 再戦!」
とびきりの笑顔だった。
まるで再会を心待ちにしていた友人にでも会ったかのような、無邪気で屈託のない顔。だが、その目の奥だけがあの日フットサルコートで見せたのと同じ熱を持っている。そして蹴太の口元が自然と僅かにほころんだ。
「ちっ! 余計なルール改定しやがって」
3年前の中体連の規約変更。あれさえなければ、この飛び級のバケモノは今日ここに立っていない。蹴太はゆっくりとヤンセンのもとへ歩み寄った。
「勝つのは、俺だ」
「・・・」
その宣戦布告にヤンセンの笑みがすっと消える。
「俺【たち】じゃなくて、俺・・・ね」
その言葉の意味を確かめるように呟いて、ヤンセンは目を細めた。さっきまでの朗らかさが嘘のように、そこには獲物を容赦なく刈り取る獣の目があった。
「勝つのは、俺だ」
「ふんっ!」
蹴太は鼻を鳴らしてヤンセンの横を通り過ぎてそのままランニングを再開した。背中に突き刺さるような強烈な視線を感じるのが分かる。それすら今の蹴太には心地よかった。そして、その一部始終を陰から見ていた男がいた。
「しっかし、驚きだよなぁ」
九条隼人がヤンセンの隣へ並ぶ。
「あんなバケモノみたいなやつがまだ無名だなんて。大丈夫か? 日本のサッカー界?」
「さぁな?」
ヤンセンは遠ざかっていく蹴太の背中を見つめたまま答えた。
「だが少なくても、俺はあいつを覚えた。それに、今日はわざわざ俺から頼んで来てもらったよ」
「誰を?」
「JSAのナショナルチームダイレクターの柳野さんを」
「マジかよ・・・」
■■
同じ頃、観客席の一角。
上質なスーツを着たダンディな男が、階段をゆっくりと上がってきていた。
日本サッカー協会ナショナルチームダイレクター、柳野隆二。
その傍らにはメガネをかけた知的な佇まいのスーツ姿の女性、氷川清美が付き従っていた。
「さて、ヤンセンに言われて来てみたが・・・」
柳野は手元のスマホで今日の組み合わせを確認していた。
「氷川。この【青下・松野川合同チーム】ってどんなチームだ?」
「はい。少々お待ちを」
氷川はすぐさまタブレットを操作し、該当のデータを呼び出した。
「去年の秋に申請があり、事務局が承認しました。今のところ、所属は両校の三年生のみですね」
「ふーん。なんで三年生だけなの? てか、よく都大会まで勝てたな?」
「それは・・・まぁ、そうですね」
氷川は一瞬だけ言葉を選ぶような間を置いた。
「あと、三年生だけになった事情ですが、学校側の問題になるので詳しくは言えません。不祥事、とだけ言っておきます」
「へぇ・・・」
柳野はまだ準備の進む眼下のピッチを見下ろした。
「なぁ、氷川?」
「はい」
「なんであのヤンセンは、この試合をわざわざ見て欲しいって、俺に直接言ってきたと思う? しかも直前で」
「私には分かりかねます」
氷川は淡々と答えた。
「しかしいくら代表クラスとはいえ、ただ一人のユース選手に言われたからと言って、ナショナルダイレクターが実際に見に来るのはいささか・・・」
「まぁまぁ、いいじゃない。たまたま今日時間取れたんだしさ」
柳野は悪びれる様子もなく笑った。
「それに、気になるじゃない?」
「気になるとは?」
「日本で十年に一人、いや数十年に一人の逸材と呼ばれている絶対的な傑物、ヤンセン・大河が『見に来て欲しい』と言った試合だぞ」
柳野は指先でスマホを弄びながら続けた。
「興味でない? 一人のサッカーサポーターとして」
「・・・」
氷川は答えなかった。しかしその沈黙を柳野は無言の肯定として正確に受け取った。そして満足そうに空いていた席へと腰を下ろす。
「興味云々は一回置いておいて、我々にはやることが山積みです」
「9月開催のU―15の国際試合、その出場メンバー選考か」
「そうです。8月までにはメンバーを決めて、強化合宿をする予定です。すでに各ジュニアユースや強豪の街クラブチームから目ぼしい選手の情報は集まっています」
「目ぼしい選手、ねぇ」
柳野の声のトーンがわずかに落ちた。
「何かご不満でもありますか?」
「いや、ないよ。なさすぎる」
「?」
意味を掴みかねている氷川の手から柳野はひょいとタブレットを奪い取った。
画面には現在選考中の選手たちのリストが並んでいる。名前、所属、ポジション、身体データ。日本中から集められた最良のエリートたちのサンプルがそこにあった。しかし柳野はそれを一瞥して静かに言った。
「氷川。お前はこのリストを見て日本が世界に届くと思うか?」
「それは・・・」
氷川の言葉が詰まる。
「それが答えだ。すぐに【届く】と自信を持って言えない」
「・・・」
柳野はタブレットを氷川へ返した。
「日本と世界では相変わらず確固たる【壁】がある。例えば、国技に関してだ」
柳野はピッチの向こう側、まだ人のまばらな観客席を眺めながら続けた。
「最近は次々とサッカーを国技と選定する国が増えている。あのアメリカでさえ、本格的にサッカーに力を入れ始めた。世界のサッカー基準はどんどんと上がっている」
「そうですね・・・」
「対して日本はどうだ? ようやく野球よりサッカーの競技人口が盛んになったとは言え、それで劇的になにかが変化したわけじゃない。組織力とかは上がったが、試合を理不尽なまでに一人でひっくり返せる【圧倒的な個】、本物のストライカーがこの国からは一向に育ってこない」
柳野は自分が座っている観客席からぐるりと周囲を見渡した。保護者と数人の関係者。あとは暇を持て余した年配の観戦客が数人。観客席にはちらほらと空席が目立っていた。
「今日は日曜日。そしてここは中学年代とは言え、東京大会の一回戦だ」
指先でその空席をなぞるように示す。
「それでもなお、観客席は満員にならない」
「それは・・・中学生の大会では集客は難しいのでは?」
「そうだな。難しい」
柳野はあっさりと認めた。
「でもな、そんな難しいことをやんないと日本はサッカー後退国になる。綺麗なパス回しだけでは永遠にベスト8の壁は越えられず、いずれワールドカップ出場すら危うくなるだろうさ」
氷川は黙ってそれを聞いていた。
反論の材料はいくらでも挙げられる。育成年代の環境は改善している。指導者のライセンス制度も整備されてきた。海外に渡る選手も増えた。
だがそのどれもが目の前の空席を埋める答えにはならなかった。
「でも、そんな絶望的な状況の中にヤンセンという規格外の傑物が現れた」
柳野の声が、隠しきれない熱を帯びて少しだけ明るくなる。
「その【本物の傑物】がわざわざ俺を呼びつけてまで観に来てほしいといった無名のチームの試合だ。そっちのチームにヤンセンに匹敵する、あるいは脅かすような【何か】を期待してしまうのは俺だけか?」
「そうですね・・・」
氷川も同意を示した。そして柳野はそれ以上何も言わず、足を組んでピッチを見下ろした。
■■
時間は刻一刻と過ぎていき、いよいよ青下・松野川合同チーム対白豪学園中等部の一戦が始まろうとしていた。
青下・松野川合同チームのロッカールーム。
「今日は一回戦だ! 都大会とはいえ、今までやってきたことを出し切れば必ず勝てる!」
居舘の声が緊張感の漂う狭い部屋に響き渡る。
「「「「「おぉぉぉ!」」」」」
「うぉぉぉぉぉ! 怪我明け初試合でテンション上がるぜぇぇ!」
一番大きな声を出したのは当然のように健一だった。包帯の取れた右足を何度も踏み鳴らしている。しかしその騒がしさの中で、蹴太だけが黙って壁に背を預けていた。
「? どうした? 神野?」
居舘が異変に気づいて声をかける。そし、蹴太はゆっくりと顔を上げた。
「みんな、ちょっといいか?」
その声の質に部屋が一瞬で静まった。
「ピッチに出てから知るより、今知ったほうがいいと思って言うぞ」
一拍。
「あいつが・・・ヤンセンが出る」
「「「「「!!!!!!」」」」」
ロッカールームの空気が一気に凍りついた。
「本当なのか? 神野?」
居舘の顔から笑みが消えている。
「フルで出るかはわかりませんが、あいつは確実に出ます」
「そうか・・・ヤンセン君が」
蒼空斗が呟いた。誰よりもあの男の理不尽な恐ろしさを知っている男の声は、いつになく硬かった。そして動揺は瞬く間にメンバー間に広がった。
U―15日本代表。東京カイザースのユース。世界に届く逸材。その肩書きの一つひとつが彼らの立っている場所からは遥かに遠い。
伊野が唇を噛み、鈴木が拳を握りしめている。中村と渡辺は互いに顔を見合わせたまま動けずにいた。そんな中・・・・
「俺が勝つ」
蹴太が静かにそう言った。
「「「「「!!!!」」」」」
全員の視線が集まる。
「絶対に俺が勝つ。だからみんなは俺を信じてくれ」
淡々と、だが揺るぎなく力強く。そこには気負い、虚勢もなかった。ただ事実を告げるように、蹴太は自分がこれからやることを口にしただけだった。
(・・・去年の俺なら絶対に言わなかったな)
自分でも不思議だった。かつての自分ならこういう場面で真っ先に口を閉じていた。責任を負う言葉を吐かなければ、失敗しても誰も自分を責めない。しかし今は、言わなければならなかった。
10人がヤンセンの名前に動揺したまま試合に入ればそれだけで1点は失う。ならば、その動揺ごと自分が全部背負えばいい。それが、9番を背負うストライカーの仕事だった。
「ハハッ!」
張り詰めた空気の中、笑い出したのはキャプテンの春樹だった。
「むしろ、神野があのヤンセンに勝てなかった時点で終わりだ。任せたぞ!」
「あぁ」
その一言で部屋の空気が一気に塗り替わった。
「そうだよな! あいつがヤンセンに勝つなら、俺たちがやることは決まってるじゃねぇか!」
「後ろは俺らで死ぬ気で守り切ればいい!」
「1点だ! 蹴太が1点取れば勝てる!」
いつしか、メンバーたちの動揺は完全に消え去っていた。蒼空斗が肩を回しながら、隣に立つ蹴太へ小さく笑いかける。
「相変わらず、無茶苦茶なこと言うね」
「事実を言っただけだ」
「そうだね」
蒼空斗の目にももう迷いはなかった。
「じゃあ俺は、そのために全部使われることにするよ」
居舘が最後にパンッと手を叩いた。
「よし、行くぞ!」
「「「「「はい!!!!!」」」」」
青下・松野川合同イレブンはロッカールームの扉を開けてピッチへと向かった。その先にこの年代の頂点に最も近い男が待っている。




