26.ヤンセン・大河
「マジか! ヤンセンがミニゲームに出んのかよ!」
「すげぇ! 世界に届く逸材のプレーをこんな間近で見れんのかよ!」
赤いビブスを着た長身が交代でゆっくりとコートへ入っていくのを見て、フェンスの外がにわかにざわめいた。
小学生のエリアからも保護者の輪からも、人がぞろぞろとこちらへ集まってくる。スマホのカメラを構える者までいた。ただのレクリエーションの体験会がいつの間にかちょっとした見世物になろうとしている。
一方のヤンセンは審判をしている男性スタッフのもとへ小走りで向かい、深々と頭を下げていた。
「すみません!急にわがままを言ってしまって・・・」
「いやいや! むしろお礼を言うのはこっちだよ! 中学生相手だから程々にね、ヤンセン君」
「はい!」
大きな声で爽やかに返事をしてヤンセンは自陣へと駆けていく。
その所作の一つひとつが驚くほど丁寧だった。驕りや傲慢さがない。日本代表という特別扱いを当然だと思っている顔をしていない。そしてヤンセンが立ったのはGKのすぐ一つ前のライン。センターバックの位置だった。
ヤンセンの視線は真っ直ぐに蹴太だけを見据えていた。
(ヤンセン・大河・・・)
蹴太も目を逸らさず、正面から見返した。
同じ中学三年生。U―15日本代表。東京カイザースのユース。世界に届く逸材。
そんなとてつもない肩書きの塊が今、たった十数メートル先で自分という獲物だけを待ち構えている。
「なぁなぁ! 神野君にパスしていいか!?」
いつの間にか隣に来ていた九条が子どものように目をキラキラさせた顔で聞いてきた。
「・・・あぁ」
「そうこなくっちゃ! よし! じゃあすぐに始めようぜ!」
九条はワクワクを隠しもせずに足早に自分の位置へと駆け戻っていった。
■■
赤チームからのリスタートで試合が再開される。
ここまで九条は初心者を含めた全員が楽しめるようにパスを回し、気遣う振る舞いを崩さなかった。強引に奪いに行くことも、相手のプレーを潰すこともしなかった。だが、この一本だけは違った。
「そら!」
赤チームの緩いパスコースへ滑り込むように鋭く身体を差し込み、九条はこのゲームで初めて本気でパスカットをしてみせた。奪った瞬間にはもう顔が完全に上がっている。
「神野君!」
コートの中央へ芝を這うような美しいグラウンダーのパスが走った。
トンッ。
【吸着トラップ】。高速で転がってきたボールはまるで磁石に引かれるように蹴太の右足の内側へ吸いついてピタリと止まった。
顔を上げる。
視界の奥に圧倒的な才能の壁が立っていた。
(行くか・・・)
(来るか!)
ヤンセンは笑っていた。
その目にはもう蹴太しか映っていなかった。コートの中の他の8人がどこにいるのかなど、もはや興味の対象にすらなっていない。同じ高みの景色を見ている人間だけが浮かべる、獰猛で愉快そうな笑みだった。そして蹴太はゆっくりと足元からドリブルを開始した。
「もらっ!」
真っ先に寄せてきたのは赤チームの普通の中学生だった。
相手は蹴太を完全に初心者だと思い込んでいた。さっきのシュートはただ運がよかっただけ。ならこの程度、簡単にボールは奪える。そう信じて安易に足を伸ばした。だが・・・
蹴太はその中学生を見てすらいなかった。
眼中にない。視線はずっと奥のヤンセンだけに向いたまま、ボールの置き所と身体の向きだけで軽くスッと外し、そのまま一気に速度を上げる。
「えっ」
置き去りにされた選手が呆然と振り返った時には蹴太はもう遥か先にいた。
(! 想像以上に速ぇ!)
待ち構えるヤンセンの背筋が歓喜で震えた。
ただ走るだけの速さではない。ボールもまるで足に縛りつけられているように全く離れない、異次元のドリブルスピードだった。
(いいよ! 最高に面白い!)
ヤンセンは深く腰を落とし、蹴太はさらにドリブルの距離を詰める。そして、一気に仕掛けた。
高速のボディフェイント。左肩を深く落とし、上半身と重心を丸ごと左へ流す。並の選手ならその時点でもう完全に身体が反応して逆を取られ、勝負は終わっている。しかし・・・
「くっ!」
「!」
ヤンセンは動かなかった。
正確には左に釣られて動きかけた膝を強引に、かつしなやかに押し留めたのだ。上半身だけがわずかに揺れ、足はしっかりと地面を掴んだまま。そして即座に抜かせまいと距離を詰め直してくる。
蹴太は小さく舌打ちをして、ボールごと一歩後ろへ下がった。
((こいつ、やべぇな・・・))
蹴太とヤンセン。二人の内心はまったく同じ言葉で埋まっていた。そして二人とも自然と口の端を吊り上げていた。
(なら、これならどうだ!)
蹴太は右足の裏でボールを止め、完全に静止させた。そこから動く。
止めていたボールを左足の横へ静かに置く。次の瞬間、右足の裏で強めに転がすと、ボールが左足の甲へと勢いよくぶつかった。
ポンッ。
弾かれたボールがふわりと宙へ浮き上がる。
そして落ちきる前に蹴太の右足がその外側を撫でるように叩き、間髪入れずにインサイドで内側へ引き戻した。
空中で行う極めて高度な技、空中エラシコだった。
「マジかよ!」
思わずヤンセンの口から声が漏れた。
技自体は知っている。プロの動画でも見たことがある。だがこれを実戦の1対1の、しかもこんな極限のプレッシャーがかかる局面で、ここまで完璧な形で寸分の狂いもなく決めてくる選手をヤンセンは海外のプロクラブの試合でしか見たことがなかった。
それを同い年で無名の中学生がやっている。驚愕以外の何物でもなかった。そして蹴太の身体はボールとともにすでにヤンセンの脇を抜けようとしていた。
(よし、抜けた・・・)
だが、これで終わる男ではなかった。
「やらせるかよ!」
「くっ!」
圧倒的な長身は、一歩のストライドの幅も圧倒的だった。
抜かれたと判断した瞬間、ヤンセンは常識外れの大股を一歩、地面をえぐるようにして踏み出していた。中学生の身体の構造では届くはずのない距離を、その長い脚が理不尽にねじ伏せる。
そして信じられない反応速度で追いついた。いや、追いついただけではない。すぐさま強靭な身体を割り込ませ、蹴太の進行方向へ完全に壁を作ってくる。
(こいつ!)
肩と腰が激しく当たる。押される。だが、蹴太も倒れるほどではない。
(俺が倒れない程度に、でも絶対にシュートもパスもできないよう、コースを限定してブロックしてくる!)
絶妙な対応だった。ファウルにならないギリギリの力で、しかし蹴太の身体の向きだけは絶対に自由にさせない。センターバックとしての教科書のような完璧な守り方が規格外の身体能力の上に乗っている。そしてヤンセンがボールを完全に奪い切ろうと、長い足を伸ばしてきた。
(届く!)
だが、そのつま先がボールに触れる寸前。蹴太は足の裏でボールをわずかになでて、そのまま一歩後ろへすっと引いた。そのためヤンセンの長い足は虚しく空を切る。ギリギリのところでボールは蹴太の足元に残っていた。
「こっちに・・・」
白チームの選手の一人が、手を持て余してボールを要求しようとした。
「待て」
それを止めたのは九条だった。
「えっ? でも今、俺フリーで・・・」
「本当の公式戦の試合じゃあ、あんなに長い間ボールをキープして1対1をする時間はない」
九条は視線をコートの中央の二人から一切動かさないまま言った。
「でも、今はあの二人の勝負を見よう」
その目は真剣だった。だが同時に、どこか楽しくて仕方がないという熱い光を宿していた。
同級生としてあの怪物を間近で見てきた。ヤンセン・大河が1対1でここまで綺麗に剥がされる場面など、数えるほどしかない。ましてや、あんな焦った顔をさせられる相手は同年代を探しても一人もいなかった。
(何なんだよ、あの神野蹴太ってやつは・・・)
九条同様フェンスの外の観客たちも完全に困惑していた。
日本代表が入ったのだからあっという間にボールを奪って終わるのだと思っていた。だがボールは一向に奪われない。二人はコートの中央で、まるで時間が止まったかのように一歩も譲らずに向かい合っている。
「なぁ、あの白の子って誰だ?」
「知らねぇよ。どこのクラブだ?」
柵にしがみつくようにして見ていた博だけが、その周囲の問いに答えられずにいた。息子の名前を誇らしげに叫ぶことすら忘れ、ただ口を半分開けたまま固まっている。しかしそんな周囲の異様な空気など、当の二人はまるで知らなかった。そして、蹴太がまた仕掛ける。
右足を大きく振り上げる。シュートモーション。
(シュート!)
ヤンセンの重心がブロックのために沈みかけ、そして止まった。
(いや、フェイントだ)
読まれた。蹴太は振り上げた足をそのまま静かに下ろす。
(ちっ! ちょっとでも動いてくれれば逆を突いて抜けるのに!)
二人は数秒間、まったく動かなかった。だが二人の思考だけは猛烈な速度で回転し続けていた。
重心。体重の乗せ方。呼吸の間隔。次の一歩をどちらの足から出すか。相手が最も嫌がる角度はどこか。
(左は完全に切られてる。右は、たぶんこいつの利き足側だ。強引に突っ込めば確実に刈られる)
蹴太は自分の呼吸を意識的に殺した。ステイタスの数値は間違いなくこの男を上回っているはずだ。それでも抜けない。数字だけでは届かない、圧倒的な経験の領域がここにある。その一方でヤンセンも額に濃い汗を浮かべていた。
(動くな。俺が先に動けば必ず逆を突かれて終わる)
普段の彼ならとっくに力任せにボールを奪えている場面だった。だがこの目の前の男はこちらが少しでも重心を傾けた瞬間、そのわずかな隙間を必ず突いてくるという確信があった。読み合いで一度でも負ければ、それで終わる。
センターバックとして戦ってきた中で、海外の屈強な選手との試合以外でこんなに息の詰まる1対1の極限状態は初めてだった。いつしかコート上の他の8人までもが足を止め、その二人だけを見守っていた。
(下がだめなら・・・)
(上だろうな・・・)
蹴太が動いた。右足の踵でボールを素早くすくい上げる、綺麗なヒールリフト。ボールは蹴太の身長よりも高く舞い上がり、ヤンセンの頭上を越えて背後へと落ちていく。
蹴太は跳ねるように反転し、その落下地点へ向かって走り出した。だが、ヤンセンはすでに反応してそこへ向かっていた。
(まっ、読まれているよな)
(あいつも俺が対応すると読まれていると分かっているはずだ。じゃあここからは・・・)
((フィジカル勝負だ!!))
ヤンセンが跳んだ。190センチを超える長身がバネのようにさらに空へと伸び上がる。
「うおっ!」
「たっけぇ!」
観客から驚きの声が上がった。中学生の跳躍ではなかった。落下してくるボールに対して明らかに一番高い位置を取れる場所へ、彼の身体は最短距離で運ばれていた。
だがその瞬間、ヤンセンは別の意味で驚愕していた。
(こいつ! 一瞬の判断で俺より遅く飛んだ!)
蹴太は跳んでいなかった。いや、正確にはほんの一瞬だけ跳ぶタイミングを意図的に遅らせていた。
(同じタイミングで飛べば、身長差で負けるだろうよ)
ヤンセンが空中で頂点に達しようとした、その刹那。
(でもな、一瞬脚をためた俺なら!)
蹴太の膝がバネのように伸びきる。
ドンッ、と人工芝が沈み込むほどの強烈な踏み切りだった。
「おぉぉぉぉ!」
観客からも同じような歓声が湧く。二つの身体が同じ空間で激しく交差した。そして先にボールへ触ったのは蹴太の頭だった。
(獲った!)
だが・・・
(こいつ! 空中でもなんて異常な体幹だよ!)
ヤンセンの身体は、空中で全くブレなかった。
ドスッ!
空中の最も高い打点で二人の肩と肩が激しくぶつかり合う。普通なら遅れて跳び上がり勢いのついている蹴太に軍配が上がり、ヤンセンの軸が流れるはずだった。だが、空中で無様に体勢を崩し、軸が流れたのは蹴太の方だった。地に足がついていない不安定な状態でなお、圧倒的に押し負けたのだ。
(なんだこの強さは! 身体の当て方が上手すぎる!)
ステイタス上の『フィジカル:SSS』という暴力的な数値。それが押し負けた。ヤンセンの強さは単純な筋力ではない。空中で相手の力を吸収し、逆に自分の力を相手の重心にピンポイントでぶつける、何年もの実戦で培われた【洗練された体幹と技術】の結晶だった。その激しいコンタクトのせいで、蹴太のヘディングのインパクトがほんの数ミリだけズレた。
「ちっ!」
ドンッ!
それでも放たれた一撃は凄まじい速度でゴールへ飛んだが、フットサルゴールの狭いファーポストに激しく当たって弾き返された。
カァンッ!
だが・・・
「ラッキー!」
こぼれたボールへ真っ先に走り込んでいたのは九条だった。躊躇なく振り抜かれた左足がそれをダイレクトでゴールへきっちりと収める。
そして、ちょうどそのタイミングで審判のスタッフがミニゲーム終了を告げるホイッスルを吹いた。
(くそっ! 競り勝てなかった!)
蹴太は着地したまま、ひどく悔しそうな表情でゴールポストを睨んでいた。
結果的にチームは勝った。だがそんなことはどうでもいい。あの空中で、自分は明確に押し負けたのだ。【フィジカル:SSS1000】。神から与えられた、この身体の最上級の数値。それが押し負けた。
(ステイタスも万能じゃねぇってか)
頭では分かっていたつもりだった。だが、こうもはっきりと現実を突きつけられたのは初めてだった。あの男が空中で崩れなかったのは生まれ持った体格だけの話ではない。何年もかけて、血反吐を吐きながら自分の身体を扱い切ってきた人間の積み上げの結果だ。
悔しい。だが不思議、嫌な感覚ではなかった。蹴太は舌打ちを一つして、そのままフィールドを後にしようとした。
「おい!」
そんな背中に声がかかる。
「なんだよ」
「お前、名前は?」
「・・・神野蹴太だ」
「そうか。じゃあ蹴太」
ヤンセンは汗を拭いながら正面から蹴太を見た。
「お前、勝負に負けたとか思ってないよな?」
「あぁ?」
「そう怖い顔すんなよ」
ヤンセンは苦笑してそれから表情をキリッと引き締めた。
「負けたのは俺の方だっていいたいんだよ」
「・・・」
「今のはここが狭いフットサルコートだから外れたんだ」
ヤンセンはボールが弾かれたゴールポストを真っ直ぐ指差した。
「あの軌道、あの強さのヘディング。11人制の正規のサッカーゴールなら、間違いなくGKが反応できずに枠に収まって俺等の失点だ」
「・・・」
嘘や社交辞令の類ではなかった。あの極限の高さで競り合った人間だけが分かる、ごまかしのない正確な評価だった。
蹴太が無言の視線を向けていると、ヤンセンは不意に右手を差し出してきた。
「俺の名前はヤンセン・大河。日本人の母親とオランダ人を父に持つハーフだ。所属は東京カイザースのユース。蹴太は?」
蹴太は少しだけ間を置いてから静かに答えた。
「神野蹴太。日本人の母親と社畜の父親との息子だ」
「ぷっ!」
ヤンセンが小さく吹き出す。
「所属は青下中学のサッカー部。正確に言うと、青下・松野川合同チームだ」
「なに? 海外のクラブとかじゃないのか?」
「あぁそうだよ」
蹴太はそう言うと差し出された手を強く握り返した。
大きくて、温かい手だった。硬く、分厚い。この手が積み上げてきた努力の量が握っただけで伝わってくるようだった。
「もう会うことは無いと思うが、戦えてよかった」
蹴太は正直な感想を述べてそのままコートを後にした。
■■
「お前! 本当にすごかったんだな!」
コートの外で待ち構えていた博が興奮しきった顔で息子の肩を掴んだ。
「あの日本代表の子と互角だったぞ! いや互角どころか・・・」
「はいはい。疲れたから帰るわ」
「ちょっと待て! お前いつからそんな! おい、蹴太!」
蹴太はスパイクを履き替えるべく、さっさと父親の車の方へと歩いていった。その歩き去る背中をコートに残ったヤンセンはずっと見つめていた。
「まさかお前が1対1で負けるなんてなぁ・・・手、抜いた?」
隣に並んだ九条が、からかうように肘でつつく。
「まさか。全力で相手したよ」
「だよなぁ」
九条は短くため息をついた。
「それでも止められないなんてなぁ。あいつ、何なんだ?」
「『青下・松野川合同チーム』の選手とは言っていた。まぁ、本当か知らんが」
「青下・松野川合同チーム?」
その言葉に九条の動きがぴたりと止まった。
「何だ? 知ってんのか?」
「いや、俺等の都大会の最初の相手って、確かそこだったような気が・・・」
「・・・へぇ」
その瞬間、ヤンセンの目つきが明確に変わった。
穏やかな笑みが消え、代わりに浮かんだのは強敵という獲物を見つけた肉食獣の目だった。
「隼人。前にお前から提案されたあれ、受けるわ」
「マジで!?」
九条が信じられないというように目を丸くする。
「いや、俺達はありがたいけど・・・」
「ユースの監督にも許可は貰ってるから問題ない」
「ふーん・・・」
もう蹴太の姿は駐車場の向こうに消えている。それでも九条とヤンセンは、二人揃ってその恐ろしいストライカーの残像をずっと見続けていた。




