24.あの日のお礼
ピーッ! ピッピーーッ!
主審の長い笛が、初夏の高く澄んだ空へ吸い込まれるように鳴り響いた。
【川島SC 0―3 青下・松野川合同チーム】
結局、後半24分頃に決めた蹴太の3点目で勝負は完全に決していた。
アディショナルタイムを含めた残りの時間、川島SCにはもう反撃する気力すら残っていなかった。前線のFWは足を止め、後方の選手たちは互いに声もかけず、目も合わせようとしなかった。ただ時間が過ぎるのを待つだけの、痛々しい姿だった。
「よっしゃぁぁぁぁ!」
ベンチで包帯を巻いた右足を庇いながら、それでも健一が力いっぱい両拳を空へ突き上げた。控えの山本と田中が抱き合って跳ね上がり、明里が首にかけたタオルを握りしめたまま、何度も何度も涙ぐみながら頷いている。
ピッチ上でも同じだった。
キャプテンの春樹を中心に、渡辺が、中村が、慣れないセンターバックを最後まで身体を張ってやり切った鈴木が、互いに抱き合い、肩を叩き合って全身で喜びを表している。
守り切った。あの都内屈指の攻撃力を誇る格上を相手に、まさかの完封で勝ち切った。その信じられない事実が彼らの疲労しきった身体を勝手に震わせていた。
そんな中、蹴太は一人ピッチの真ん中に立ち止まり、静かに空を見上げていた。
その視界の端で、川島SCの選手たちが力なく整列していく。
だが、あの味方を恫喝していたFWは、最後まで誰とも目を合わせなかった。監督が何かを言おうと近づいたが、その手をすり抜けるようにして整列の列から外れ、一人でベンチの奥へと歩いていく。
得点王どころか、この大会で彼が奪った得点はゼロのまま終わった。
(・・・あいつもいつか気づくのかね)
自分のエゴを満たすためだけに撃ち続けた男と、仲間の想いを託されて撃った男。
持っている才能の差ではない。あのストライカーと自分との間にあった【たったそれだけの差】が、結果として3点差という残酷なスコアになった。ただそれだけの話だった。
蹴太は再び視線を空に戻した。
雲ひとつない5月の青い青い空だった。
(・・・そういや)
汗が顎の先から芝へ落ちていく。激しかった呼吸が徐々に整っていく。
(転生する前もこんな青い空だったか)
不思議と記憶の中にある最期の日のそれと、今の空はよく似ていた。
ただあの日の空を見上げていた自分の胸にあったのは、どうしようもない諦めと惨めさだけだった。圧倒的な才能に押し潰され、居場所を奪われ、それでもグラウンドの隅からサッカーから目を逸らせなかった、あの惨めな男。
今同じ色の空の下で、自分はハットトリックを奪ってピッチの中央に立っている。
(・・・随分と、景色が変わるもんだな)
「やったな!」
不意に勢いよく肩を組まれた。汗まみれになった蒼空斗が、隣で子どもみたいに無邪気に笑っている。
「あぁ」
蹴太は短く答えた。相変わらず口元がわずかに緩んだだけの素っ気ない反応だった。だがそれで十分伝わったらしく、蒼空斗はさらに嬉しそうに肩へ全体重を預けてきた。
■■
青下・松野川合同チームのロッカールーム。
「まずはおめでとう! 俺たちは激戦のリーグ戦を全体2位で突破し、東京大会への進出が決まったぞ!」
居舘のその一言にロッカールームの空気が爆発した。
「うおおおおっ!」
「やったぁぁぁ!」
「マジかよ! 都大会だぞ都大会!」
得失点差の関係でEグループの通過順位は明石SCに次ぐ2位。だが順位などどうでもよかった。都大会常連の街クラブが2つ揃う死のグループから、部活動の寄せ集めだったはずの自分たちが実力で勝ち上がったのだ。
ロッカールームで選手たちが抱き合い、叫び、プレッシャーから解放された誰かが泣き出す。
春樹はその輪の中心で、込み上げる熱いものを堪えるように唇を強く噛みしめていた。
1年前、1年生の反乱で部が消えかけたあの日からここまで来るのにどれだけの時間がかかったか。どれだけ歯を食いしばってきたか。
「静かに! 話は最後まで聞け!」
居舘がパンパンと手を叩いて全員を座らせる。
「いいか? 春季都大会の本戦が始まるのはGW明けだ。明日と明後日は練習を休みにするから、各自しっかりと休め!」
「「「「「はい!!!!」」」」」
「言っておくが、休むのも練習のうちだぞ。浮かれてだらだら夜更かしして体調を崩した奴は許さん。分かったな?」
そう厳しく釘を刺してから、居舘は最後に少しだけ声を和らげた。
「・・・よくやった。本当によくやった」
その一言でまた何人かが目を赤くして袖で顔を拭った。
居舘からの連絡を受けた青下・松野川合同チームはそのまま現地解散となり、足を負傷した健一だけは居舘の車に乗って病院へと向かっていった。
■■
青い空の下を自転車が並んで走っていた。
「白河君、大丈夫かしら?」
前を行く明里が心配そうに振り返る。
「居舘先生の見立てだと足を軽く捻っただけみたいだけどね」
「まぁ、あいつなら這いつくばってでも都大会には来るだろ」
蹴太が気のない口調でそう言うと、明里が「もう、素直に心配してあげなさいよ」と呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声を出した。
三人は途中でコンビニに寄り、それぞれ好きなアイスを買った。そしてそのまま近所の小さな公園に自転車を停め、ベンチに並んで腰を下ろす。
「それにしても蹴太、とうとうストライカーとしての自覚が出来たんだね」
アイスを齧りながら、蒼空斗がにやりと笑って言う。
「・・・知らん」
「ハハッ! まぁいいさ」
蒼空斗はそれ以上追及せず、あっという間にアイスを食べ終えた。そして木の棒をくるくると指で回しながら、隣に座る蹴太へと静かに目を向ける。
その視線がやけに長かったので、蹴太は片眉を上げた。
「なんだよ?」
「ありがとう、蹴太。俺とサッカーしてくれて」
「・・・蒼空斗」
明里が小さく息を呑む。
蒼空斗はベンチに座ったまま、それでも背筋を真っ直ぐに伸ばして深々と蹴太に頭を下げた。
蹴太は何も言わず、そのつむじをじっと見ていた。
「蹴太のおかげで俺はかつての自分を追いかけられている」
顔を上げた蒼空斗の目は真剣そのものだった。
「別に俺のおかげじゃねぇだろ。お前が痛みに耐えてリハビリを頑張った結果だ」
「違うよ」
即答だった。
「蹴太がいたから俺は頑張れた。蹴太という存在がいたから、俺はもう一度ピッチで戦えたんだ。だから本当にありがとう」
その言葉に蹴太はすぐに何も返さなかった。
怪我をしたあの日から、この男がどれだけの絶望を味わってきたのか。血を吐くようなリハビリの中でどれだけの夜を過ごし、かつてのように動かない自分の身体を何度呪ったのか。それを蹴太はほとんど知らない。
だが、その言葉が心の底から出ているものだということだけは痛いほどはっきりと分かった。
蹴太は黙ったまま、残っていたアイスを最後まで食べ切った。そして木の棒を袋に押し込んでから、ゆっくりと蒼空斗の方を向いた。
「お礼を言うのは俺の方だ」
「えっ?」
蒼空斗が間の抜けた声を漏らした。
「去年、俺がお前にグラウンドでデュエルを申し込んだことを覚えているか?」
「当たり前だろ?」
蒼空斗は苦笑した。忘れられるはずがない。あの日の午後、サッカーなど一度もやったことがないはずの男がいきなり自分の前に立って「勝負しろ」と言い放ったあの日を。
「あの時、俺はお前を潰そうとした」
蹴太の声は、いつも通り淡々としていた。
「あの時の俺は、お前の必死な姿をただの【無駄な足掻き】だと切り捨てたかった。いや、切り捨ててしまいたかったんだ」
蒼空斗と明里は黙ってその言葉を聞いていた。
「だがそうはならなかった。お前はまだ脚が完治しているかどうか分からないのに、諦めず、ファウルで俺のシュートを全力で止めてみせた」
蹴太の脳裏に蘇るのは、去年の夏休み明けの始業式の日の光景。
完全に治っているかどうか怪しい脚で、逃げずに自分に向き合ってくれた蒼空斗。最後には身体を投げ出し、シュートを止めてみせた男の執念。
「もし、もしだ」
蹴太は視線を空へ向けた。
「あの時、お前が俺の力に絶望して負けを認めていたら、俺は二度とサッカーなんてしていなかった」
もしあの日、蒼空斗が心を折られていたら蹴太は【やはり才能が全てだ】という歪んだ結論を握りしめたまま、二度目の人生でもボールを見なかっただろう。健一に誘われても断り、春樹に会うこともなく、居舘の言葉を聞くこともなく、朝陽と語り合うこともなく、この空の下に立つこともなかった。
そのすべての入り口を、あの日、目の前の男が文字通り身体を張ってこじ開けたのだ。
「だから、お礼を言うのは俺の方だ」
蹴太は蒼空斗を真っ直ぐに見た。
「あの時、俺に勝ってくれてありがとな」
一瞬蒼空斗は言葉を失ったように固まった。
そして・・・
「・・・ハハッ! なんだよそれ、変なお礼だね」
「本当ね!」
明里が横から堪えきれずに吹き出す。
「勝ってくれてありがとうなんて、今までサッカーやってて初めて言われたよ」
「うるせぇ。二度と言わねぇからな」
「えー、もう一回聞きたいなぁ」
「調子に乗るな」
試合後の公園に、三人の屈託のない笑い声が響いた。そして三人はそれぞれの家へと帰っていった。
■■
とある5月のGWの日曜日。
「で? 足はもうなんとも無いのか?」
『おぅ! 医者からはあと2日あれば大丈夫って言われたぜ!』
スマホのスピーカーから、相変わらず馬鹿みたいに元気な声が返ってくる。
『まぁでも居舘先生が念のために、GW中は家で安静にしておけって言われたよ』
「ならおとなしくしてろ。都大会の本戦でまた倒れられたら困る」
『わーってるって! うおー、はやく走りてぇ!』
「安静にしろって言われたばっかりだろ」
呆れながら通話を切り、蹴太はスマホを机に置いてリビングへと向かった。
「蹴太。お前の新しいスパイクを買ってやるぞ!」
ソファから立ち上がった父・博が開口一番、そう声高に宣言した。
「何だよ急に」
「スパイクなんて何足あってもいいんだ! それにお前、都大会に出るんだから、すぐに履き潰すだろうしな!」
「まぁ、一理あるわな」
蹴太の今のスパイクは入部した時に慌てて買った安物だ。連日の激しい練習と試合で、正直そろそろ限界が近いのは自分でも感じていた。
「あなた、また騒いで」
キッチンから母の夏美が顔を出す。呆れたような口調だったが、その目はとても柔らかかった。
「蹴太、無理はしないでね? 足を痛めた子もいるんでしょう」
「あぁ。分かってる」
「本当に分かってるのかしら」
夏美はそう言いながらも蹴太の背中を軽く押した。この1年で何かに塞ぎ込んでいた息子が前を向いて大きく変わったことを、母親の夏美もまた黙って嬉しそうに見ていた。
「よっしゃ! じゃあ行くぞ!」
嬉しさを隠しもしない父親の車に乗って、蹴太は近くの大型デパートのスポーツ用品店へと向かった。
壁一面にズラリと並んだスパイクを前に、博は蹴太以上に真剣な顔で悩んでいた。
「やっぱりこの色は目立つよなぁ! 9番なんだから派手にいけ!」
「落ち着けよ・・・」
結局蹴太が黙って選んだ落ち着いた色の一足を購入することになった。
「もしよろしかったら、こちらはどうですか?」
会計を終えたところで男性店員が一枚のチラシを差し出してきた。
そこにはデパートのすぐ近くにあるピッチで、小中学生に向けたフットサル体験会が行われているという案内が印刷されていた。
「いいじゃないか! 新しいスパイクの慣らしついでに行ってみよう!」
「はいはい」
■■
車で数分。
屋外の人工芝のピッチには、小中学生とその保護者たちが思い思いにボールを蹴っている姿があった。ネットで仕切られた向こう側では、小学生が歓声を上げながらミニゲームをしている。
「じゃあ早速申し込んでみるか! チラシには飛び込みOKって書かれていたし!」
受付を済ませ、蹴太は買ったばかりのスパイクを履いて中学生のエリアへと向かった。
「どうだ? 新しいスパイクは?」
「あぁ。問題ないよ」
蹴太は借りてきたサッカーボールを父親から受け取ると、その場で軽くリフティングを始めた。
トン、トン、トン。
足の甲、腿、そしてまた足の甲。ボールはまるで蹴太の身体に見えない糸で繋がれているかのように、一定のリズムで同じ高さを保ち続ける。賑やかな人工芝の上で、そこだけが異様なほど静かで、洗練された光景だった。
「・・・なぁ蹴太」
「何?」
「お前って、そんな上手かったっけ?」
「まぁ、才能があったからな」
「なんだよそれ!」
博が笑い声を上げた。息子の軽口だと思っているらしい。
(・・・嘘は言ってないんだけどな)
蹴太は内心でそう呟き、ボールを軽く父親へ蹴り出した。
しばらく二人で簡単なパス交換をした。博のパスは素人丸出しで決して上手くはなかったが、蹴太はそのすべてを吸い付くようにトラップし、丁寧に足元へ返した。
新品のスパイクは思っていたよりずっと足に馴染んだ。感触は十分に確かめられた。
「じゃあ、そろそろ帰―――」
「あー! ヤンセン・大河選手だ!」
蹴太の言葉を遮るように、隣のエリアから小学生たちの割れるような黄色い歓声が一斉に押し寄せてきた。
10人以上の子どもたちがボールを放り出して、中学生エリアの入口へと殺到していく。それに蹴太もつられて目を向けた。そしてそこに立っていたのは、蹴太よりも頭ひとつ分は背の高い、ハーフの男だった。
明るい色の髪。彫りの深い顔立ち。そして中学生とは思えないほど成熟した、しなやかで強靭な身体。群がる小学生たちに気安く手を上げ、太陽のように屈託なく笑っている。
(・・・誰だ?)
「おぉぉぉ! ヤンセン君だ!」
隣で博が子どもたちに負けないような素っ頓狂な声を上げた。
「親父、知ってんのか?」
「逆になんでお前は知らないんだよ。お前の世代の最高の傑物のセンターバックだろうが!」
「傑物?」
「去年から飛び級でU―15の日本代表に入っていて、もう『東京カイザース』のユースチームの練習に参加しているんだぞ! 世界に届く逸材って、サッカーファンの間じゃ超有名だぞ」
「へぇ・・・」
東京カイザース。
その名前に蹴太の眉がわずかにピクリと動いた。
蒼空斗がかつて所属し、そして膝の靭帯と共に絶望を置き去りにしてきた場所。中学三年生でありながら、その高校生年代のチームにすでに呼ばれているということが何を意味しているのかを分からない蹴太ではなかった。
蹴太はヤンセン・大河という同い年の選手をじっと見つめた。
そして子どもたちに「何かやって!」とせがまれるまま、ヤンセンは足元のボールを軽く浮かせた。
トン、と一度だけ膝で受け、そのまま踵で背中側へ流し、振り向きざまに空中で捉える。それを何気ない仕草で、まるで呼吸するように滑らかにやってのけた。歓声が上がる。本人は照れくさそうに笑い、子どもの頭をくしゃりと優しく撫でている。
上手い。
だが、蹴太が目を離せなかったのはそこではなかった。
背が高く、恵まれた身体を持ち、周囲から当然のように才能をもてはやされている男。眩しいほどの【本物の才能】。
蹴太の視線は、しばらくその男から離れなかった。




