23.思いを乗せて
(ちっ! 大して強くもいってねぇだろうが!)
主審の胸ポケットから抜かれた黄色いカードを見上げながら、川島SCのFWは露骨に舌打ちをした。頭を下げるでもなく、痛みにうずくまりピッチを去った相手を気にする素振りすら微塵もない。ただ不当な判定を押しつけられたとでも言いたげに、その顔には明らかな不満と苛立ちだけが浮かんでいる。
(さてどうするか・・・流石にもう強くはいけねぇ)
イエローが1枚出た以上、次に同じような危険なタックルをすれば退場だ。舌打ちをもう一度こぼしながら、苛立たしげに自陣へと戻ろうと踵を返した。
その時。
(・・・ん?)
背後から文字通り物理的に肌へ突き刺さるような異常な視線を感じた。
首だけを回して振り返る。そこにいたのはこちらを真っ直ぐに見据えている相手チームの9番だった。
叫んでいるわけでも、怒りに任せて掴みかかってくるわけでもない。ただ静かに、こちらの目の奥の奥まで覗き込むように見ている。激しい憎悪でも怒号でもないその無機質な視線が、なぜか背筋を這い上がるような得体の知れない気味の悪さを伴っていた。
「・・・なんだよ、気持ちわりぃな」
FWは自分を誤魔化し、吐き捨てるように呟くと、その視線から逃げるように前を向いて足早にポジションへと戻っていった。
■■
「蹴太?」
隣に並んだ蒼空斗が蹴太の横顔を不思議そうに覗き込んだ。
普段の、どこか一歩引いたような蹴太の気配が今は綺麗さっぱり消え失せている。表情そのものはいつも通り変わらない。だが、その全身から立ち昇り纏っている空気が明らかに違っていた。
「・・・月影。ボール持ったら俺にパスすることはできるか?」
「・・・やる気かい?」
「ストライカーはゴールを奪うのが仕事だ」
蹴太は視線を敵陣のゴールへ向けたまま、静かに、しかし揺るぎない声で言い切った。
「今日はその仕事をきっちりこなしてやる」
ただそれだけを告げて、蹴太はさっさとリスタートの位置へと戻っていく。
残された蒼空斗は数秒その背中を見送り、そして口の端をゆっくりと吊り上げた。
(あぁ・・・とうとう目覚めたんだね)
蒼空斗は楽しくて仕方がないというような極上の笑みを浮かべ、自らのポジションへと駆け戻った。
そして後半開始5分。主審の笛と共に、荒れた試合が再開された。自陣でボールを回す春樹が左のスペースに開いた蒼空斗へ丁寧にパスを通す。
「月影君!」
「OK!」
だがパスを受けた瞬間、川島SCの右サイドバックと右インサイドハーフが容赦なく挟み込むように距離を詰めてきた。ハーフタイムの監督の指示通り、蒼空斗には常時二枚がつく。ドリブルで持ち出す余裕はない。
(別、ここから俺が強引に抜く必要なんてないさ)
蒼空斗は迷わなかった。半身の姿勢でボールを受けながら相手のプレスが届くよりも早く、まるで大怪我をする前を彷彿とさせるような高速のグラウンダーのパスを中央へと突き刺す。
(届け!)
その針の穴を通すような鋭いパスに、蹴太は右足の裏で軽く触れただけだった。
ピタッ。
【ワンタッチ】と【吸着トラップ】のスキルが発動する。高速で転がってきたボールが、まるで最初からそこにあったかのように嘘のように勢いを失い、蹴太の足元へ磁石のように吸いついて収まる。
だがその見事なトラップが決まった頃には、すでに相手の包囲網が完成していた。
「囲め!」
「絶対に前を向かせるな! ここで潰せ!」
センターバックが前に出て前方の蓋をし、背後からはボランチが激しく身体をぶつけて襲いかかる。さらにもう一枚のセンターバックも中央のスペースを捨てて横から寄せてきた。
合計三人。中学生の試合において、たった一人の選手にかけるマークの枚数としては異常な数だ。
(三枚か。まぁ、そうなるよな)
蹴太は自らをすり潰そうとする圧力の中にあって表情一つ変えなかった。
背中にボランチの強い当たりを感じ、ぐっと腰を落とす。強く押される。だが1ミリも動かない。カンストしたステイタス【フィジカル:SSS】。肩と背中から入ってくる激しい圧力を、体幹だけで全て受け止めて無力化する。
(なっ!?)
背後から全体重をかけて押し込んでいた川島SCのボランチが、逆に自分の方が弾き返されたように体勢を崩してよろめいた。
(こいつ! なんちゅう体幹だ! 大木かよ!)
正面からプレスをかけるセンターバックが内心で悲鳴を上げる。とても中学三年生の身体ではない。三人がかりで必死に押し込んでいるはずなのに、まるで地面に深く根を張った大樹を三方から押しているような、絶望的な手応えのなさだった。
しかもただ耐えて止まっているわけではない。
三人に囲まれ、服を掴まれ、足を削られながら、それでも蹴太は細かいタッチでボールを撫でるように運び、じりじりと、だが確実に前へ進んでいる。奪えないどころか押し戻すことすらできない。
(このままじゃまずい! 足掛けてでも止める!)
センターバックは覚悟を決めた。イエローを喰らってもいい。ここを突破されれば失点に直結する。カードと引き換えにでもこのバケモノを刈り取る。
そう決めて蹴太の足元へ思い切り鋭いスライディングの足を伸ばした。
だがその必死の足が届く直前。
「はぁ?」
蹴太は伸びてきた足の上を、なんとボールごと跳んでいた。
両足の内側でボールをしっかりと挟み込み、そのまま軽やかに垂直に跳躍する。滑り込んだセンターバックの足はボールにも蹴太の脚にもかすりもせず、虚しく芝を削っただけだった。
「マジかよ・・・」
センターバックの口から間の抜けた絶望の声が漏れる。
流れるような、あまりに滑らかでアクロバティックな個人技。テレビの向こう側の、海外トップリーグでしか見たことのない類のプレーが目の前で当たり前のように起きた。
三人がかりの絶対的な包囲はたった一瞬でただの無力な置物へと成り下がり、着地と同時に蹴太は挟んだボールを静かに地面へ戻す。そしてその右足がコンパクトに振り上げられる。
(撃つ!)
固有スキル【クイックモーション】。テイクバックを極限まで削った、予備動作の全くない蹴り足。本来ならこの打ち方では威力は落ちる。だが、そこにさらなる固有スキル【パワーシュート】が上乗せされる。
ドンッ!
放たれた弾丸はあろうことか慌てて立ち上がろうとして股を開いていたセンターバックのその股の下を鋭く潜り抜けた。
地面とボールの隙間はわずか数ミリ。芝を焦がすような凄まじい威力のグラウンダーのミドルシュートがGKの視界に映った時にはもう手遅れだった。
味方の身体が完全にブラインドとなり、シュートコースが見えない。見えた瞬間にはボールはすでにキーパーの足元を通り過ぎている。
バサァッ!!
ゴールネットが下から激しく突き上げられるように揺れた。
【川島SC 0―2 青下・松野川合同チーム】
後半12分。川島SCが痛恨の2点目を許した瞬間だった。
「何してんだよ! てめぇら!」
静まり返ったピッチに真っ先に響いたのは味方への醜い罵声だった。
川島SCの前線のFWが後方のディフェンス陣を指差して激しく喚いている。三人がかりで止められなかったセンターバックもボランチも、反論する気力すらなく、ただ肩を落として「ごめん」と繰り返すことしかできなかった。
その崩壊していく光景を蹴太は一度だけ冷たく横目で見た。
一方、青下・松野川のベンチは大騒ぎだった。
「よっしゃあああ! 入った入った!」
「今の見えました!? 股の下ですよ! 三人もいたのに股の下!」
控えの山本と田中が肩を組んで飛び跳ね、明里が両手で口元を押さえたまま何度も力強く頷いている。
そしてその輪の中心で、包帯を巻かれた右足をベンチに投げ出したままの健一が誰よりも大きな声を張り上げていた。
「見たかああああ! あれが俺の幼馴染だぞ! どうだ!」
「白河、足。動かすな」
冷静に健一の肩を押さえつける居舘の口元も隠しきれないほど緩みきっている。
(・・・変わったな、神野)
腕を組みながら居舘は静かにピッチの背番号9番を見つめた。
つい先日まで蹴太は自分の圧倒的な力を持て余していた。撃てる場面で撃たず、確率という理屈の陰に隠れ、決める責任を誰かに渡そうとしていた。
それが今はどうだ。三人に激しく囲まれてなお、自ら前へ出た。あれは技術の話ではない。精神の進化の話だ。
(覚悟が決まった選手ってのは、ああいう顔をするんだ)
かつて自分が届かなかったストライカーの景色を教え子が軽々と踏み越えていく。悔しさなど微塵もなかった。ただ指導者として、これ以上の喜びはなかった。
そして自陣へ戻る青下・松野川のイレブンは蹴太を囲んで沸き立っていた。
「さすがだな。三人の密集から股下を抜く完璧なミドルシュート。恐れ入るよ」
春樹が汗を拭いながら、心底感嘆したという顔で言う。
「あぁ・・・なぁ、みんな。一ついいか?」
蹴太が唐突にそう切り出したので全員が疑問の表情を浮かべて静まった。
「後半の作戦は確か、7割守備意識だったよな?」
「あぁ。そうだが?」
春樹が首をかしげる。
「なら、攻撃の3割は全て俺に任せてくれないか?」
その言葉に、メンバー全員がさらに驚きをあらわにした。
普段の蹴太なら絶対に言わない台詞だった。面倒事を避け、常に一歩引いた場所から冷めた目で試合を眺めていた男。その男が今、自ら進んで「攻撃の責任を全て俺に寄越せ」と言った。
だが春樹は数秒だけ蹴太の真剣な顔を見つめ、そして噴き出すように笑った。
「なんだ? ストライカーとしての自覚がやっと出てきたか?」
「・・・どうだかな」
「よし。じゃあ俺達は徹底して守備に徹する。お前はゴールを奪え!」
キャプテンの即断だった。
蒼空斗が「異論なし」と肩をすくめ、渡辺も中村も、慣れないセンターバックに入ったばかりの鈴木までもが極限まで緊張した顔で強く頷く。
チームの全員がその想いを一人の男の背中に託した。
■■
川島SCのキックオフでリスタートする。
(冗談じゃねぇ! あのくそ9番ばかりにいい思いをさせるか!)
真っ先に飛び出したのは、あのイエローをもらっているFWだった。
全速力でピッチを駆け抜け、相手の最終ラインの前へ。身体を半身に開き、いつでもパスを受けられるという姿勢を作ってボールを激しく要求する。教科書通りの正しい動きだった。
だが。そこにパスは来なかった。
ボールを持っていた川島SCのボランチは、要求の声が確かに聞こえていながら顔を上げず、右インサイドハーフへと横パスを流した。
(あんのやろう! なら!)
「おい! 俺によこせ!」
今度は声に出してはっきりと要求する。インサイドハーフの耳にも当然その怒声は届いていた。
届いていて、それでもなおインサイドハーフが選んだのは、逆サイドへ流れていたもう一人のFWへのパスだった。
(くそが!!!)
パスを無視されたFWの視界が真っ赤に染まる。味方の誰も彼を見ようとはしなかった。
前半からずっと理不尽に恫喝され続けてきた。ミスを押しつけられ、怯えさせられ、ボールを寄越せと高圧的に喚かれ続けてきた。恐怖で支配された関係は絶対に負けられない極限の状況下で必ず綻ぶ。だから彼らの本能は無意識のうちに選んでしまったのだ。【怒鳴られるリスクのない方】を。
(・・・そうか)
タッチライン際で腕を組んでいた川島SCの監督は、その一連の生々しいやり取りを見て静かに目を閉じた。
彼が心の奥底で最も恐れていたチームの病が、最悪のタイミングで、最悪の形で証明された瞬間だった。
技術の差ではない。走力の差でもない。勝負を分けたのはボールを持った選手が『誰にパスを出したいと思うか』。ただそれだけだ。
自分は結果を出すエゴイストを優遇し、その代償にチームの中で最も大事な【信頼】という血の巡りを完全に止めてしまっていた。ハーフタイムに少し叱った程度で戻るものではない。もっとずっと前に、勝てている時にこそ正すべきだったのだ。
「・・・すまん。全て俺の責任だ」
監督は誰にも聞こえないようにそう呟き、それでも顔を上げてタッチラインへと一歩出た。まだ試合は終わっていない。
パスを受けたもう一人のFWが右サイドからペナルティエリアへと侵入を図る。
だがそこにはすでに戻り切っていた左サイドバックの渡辺が立ちはだかっていた。しかもその後ろには本来なら攻撃の要であるはずの蒼空斗までもが、約束通り完全に自陣へ帰陣して構えている。
「行かせるかっ!」
「そっちは俺がいるよ」
二枚がかりの徹底した守備に切り返しを潰され、苦し紛れに放り込んだクロスは中央でどっしりと構えていた春樹が頭で完璧にクリアした。
ボールはタッチラインを割り、川島SCのスローインとなる。
そしてそのリスタートが行われる前に。
「なんで俺にパス出さねぇんだよ!」
FWがボランチの胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っていた。
「ご、ごめん・・・」
「ちっ!」
その光景を蹴太は自陣から冷ややかな目で眺めていた。
(・・・崩れてるな)
崩れているのはチームの守備組織ではない。もっと根本的な、選手同士を繋いでいるはずの信頼という何かだ。
やがてスローインで試合が再開される。川島SCは意地でボールを前へ運び、再びゴールへと迫った。だがディフェンスリーダーの健一を欠いてもなお、青下・松野川の守備は分厚く、そして強固だった。
鈴木が身体を投げ出してシュートコースを消し、渡辺と中村が外への展開を切り、最後は春樹が身体ごと当たってボールを絡め取る。
「取った! 高橋!」
奪い返した春樹が右サイドハーフの高橋へと素早く展開した。
「はいっ!」
そして高橋は迷いなく中央で待つ蹴太へとボールを預ける。
(こいつさえ止めれば!)
川島SCのセンターバックが決死の形相で寄せる。
だがその思いは届かない。
蹴太のボールタッチは異常なまでに細かかった。一歩につき一度、足の甲でボールを撫でるように進む。ボールが常に身体のすぐ横にあり、奪おうと足を出せば必ずその瞬間だけ届かない場所へ移動している。
センターバックはただの一度もボールに触れられないまま、じりじりとペナルティエリア付近まで後退させられていく。
その時、蹴太は視界の端に猛烈な勢いで走ってくる影を捉えた。
「てめぇ! うぜぇんだよ!」
あの味方を恫喝していたFWだった。
前線から全速力で自陣まで戻り、自らボールを刈り取ろうと突っ込んでくる。だが彼にはイエローが1枚出ている以上、露骨なスライディングタックルはできない。
だから男が選んだのは、主審の死角からユニフォームの背中を鷲掴みにして力任せに引き倒すという、最も卑劣なやり方だった
ぐんっ、と蹴太の身体が後ろへ引かれる。
普通ならここでそのまま倒れる。倒れて危険な位置でのファウルをもらえばいい。それが中学生のサッカーにおける、最も賢く、最も安全な選択だ。だが・・・
「・・・お前はストライカーじゃない」
「あぁ!?」
背中を強く引っ張られたまま、蹴太は強靭な体幹で全く軸をブレさせることなく、重戦車のように前へ進んでいた。
「お前は誰からも何も託されてない」
ドスッ、と一歩、深く芝を踏みしめる。引っ張られたユニフォームが限界まで伸びきり、みしりと嫌な音を立てる。
『信じてるぞ!』
痛みを腹の底に押し込めて、それでも笑ってそう言った幼馴染の顔が浮かぶ。
『じゃあ俺達は守備に徹する。お前はゴールを奪え』
背後で必死に走り続けている10人分の呼吸が背中に張りついている。
「俺は・・・アイツらからゴールを託された!!」
バツンッ!!
強引に前へ出る蹴太の圧倒的なパワーと前傾姿勢に耐えきれず、ユニフォームを掴んでいたFWの指が力ずくで引き剥がされた。
(こいつ! あんなに引いたのに全く倒れない!?)
体勢を崩したのは引いたはずのFWの方だった。あれだけの妨害を受けながら、蹴太の上半身は一ミリも折れていない。
そして蹴太の右足が豪快に振り抜かれる。
ドバァァンッ!
砲弾のような一撃が反応したゴールキーパーの手を弾き飛ばし、そのままネットの天井へと突き刺さった。
【川島SC 0―3 青下・松野川合同チーム】
後半24分。蹴太の完璧なハットトリック。
体勢を崩し芝の上に尻もちをついたまま、FWは呆然と自陣のゴールを見上げていた。何が起きたのか、まるで理解できていない顔だった。
そしてその男を蹴太は静かに見下ろした。
「仲間から託された思いをボールに乗せる」
淡々と、しかしはっきりと。
「それがストライカーだ」
それだけを告げて蹴太はゆっくりとセンターサークルへ歩き出す。振り返りはしなかった。
仲間たちの歓声が爆発するように聞こえてくる。春樹の声も、蒼空斗の声も、ベンチで飛び跳ねている山本や田中の声も。
そしてタッチライン際で片足のまま身を乗り出し、誰よりも大きな声で叫んでいる健一の声も確かに蹴太の耳に聞こえていた。
3点。
もう川島SCに立ち上がる気力は少しも残っていなかった。




