22.託された背中
「おぉぉぉぉぉ! なんだよそれぇぇぇ!」
静まり返っていたピッチの空気を最初に破ったのは、全力疾走してきた健一の絶叫だった。そしてそのまま勢いを殺すことなく、蹴太にガバッと飛びついてくる。
「今の見たかよ!? 曲がった! めちゃくちゃ曲がったぞ! なんだあれ、漫画かよ!」
「・・・重い。騒ぐな」
蹴太は面倒くさそうに、背中に乗った幼馴染の腕を振りほどいた。
「まだ前半は終わってねぇぞ」
淡々と事実だけを告げて、蹴太はさっさとセンターサークルへと戻っていく。
(・・・まぁ、悪い気はしねぇな)
自分でも意外なほど胸の奥がじんわりと温かい。だが今それを表に出すつもりはなかった。しかしまだたったの1点。この程度で浮かれるほど目の前の相手は甘くない。
そして川島SCの選手たちが重い足取りでボールをセンターサークルへと運んでいる。その隙に蹴太は空中にステイタス画面を表示して確認した。
――――
神野蹴太
ランク:ジュニアユース
【基本スキル】
フィジカル:SSS1000
スピード:SSS1000
ドリブル:SSS1000
スタミナ:SSS1000
シュート:SSS1000
キープ:SSS1000
パス:SSS1000
【固有スキル】
・神の祝福:ステイタスが伸びやすくなる
・決定力:シュート時、ボールがゴールの枠内に収まりやすくなる
・両利き足:両足が利き足になり、ボールをコントロールできるようになる
・クイックモーション:威力は下がるが、クイックシュートを撃てるようになる
・ピンポイントクロス:対象に対してピンポイントでクロスをあげられるようになる
・精密パサー:パスミスがなくなり、精度が上がるようになる
・キラーパス:的確なスルーパスを出せるようになる
・パワーシュート:ミドルレンジからのシュートが入りやすくなる
・ヘディング:ヘディングシュートが入りやすくなる
・吸着トラップ:トラップミスがなくなるようになる
・ワンタッチ:ワンタッチでプレーができるようになる
・丈夫な身体:怪我がしにくくなる
・フリーキッカー:フリーキックがゴールに収まりやすくなる
――――
(・・・たった1回、試合でフリーキックを撃っただけでもうスキルになるのかよ)
一番下に増えた真新しい一行を眺めながら、蹴太は思わず眉根を寄せた。
(なんとまぁ、俺に甘い神様だな)
呆れとも苦笑ともつかない息を漏らし、蹴太はステイタス画面を消した。そして顔を上げ、リスタートの位置につこうとしている川島SCのメンバーを見据える。
以前の自分なら、この新たなスキルの一行を見て真っ先に罪悪感を覚えていただろう。努力もせずに手に入れた力。誰かの何年分もの汗を、たった一蹴りで追い越していく理不尽。それを【ズル】だと後ろめたく思っていた。
だが、もう違う。
『サッカーは残酷なまでに不平等なんだ。勝ちたいなら、使えるものは全部使う』
あの日、自販機の前で朝陽が一片の迷いもなく言い切った言葉が耳の奥で蘇る。
(俺はもう迷わないぞ)
蹴太は静かに息を吐いた。
(神から送られたステイタスだろうがなんだろうが、使えるものは全部使ってやる。それがストライカーとしての、俺の覚悟だ)
明確な決意を宿した瞳のまま、蹴太はプレーへと戻っていく。
その後、川島SCは失点の焦りからか無理な縦パスを繰り返したが、そのことごとくを健一と春樹が冷静に読み切って潰していった。
前がかりになった相手の背後には広大なスペースが生まれていたが、そこへ蹴太が走り込もうとするたび、二枚のセンターバックが露骨にラインを下げて蓋をする。逆に青下・松野川も決定的な形までは持ち込めない。試合は激しくボールが行き交うものの、膠着したまま時計だけが進んでいく。
(・・・向こうも必死だな)
削られ、掴まれ、押さえつけられながら、それでも蹴太の集中は途切れなかった。そしてやがて前半のアディショナルタイムも終わり、主審の長いホイッスルが鳴り響いた。
【川島SC 0―1 青下・松野川合同チーム】
わずか1点のリードを抱えたまま、試合は折り返しを迎えた。
■■
青下・松野川合同チームのロッカールーム。
選手たちの荒い呼吸が壁に反響していた。明里が手際よく配って回る冷たいドリンクボトルを、全員が奪うように受け取っている。
「蹴太、すごいね。正直、あのフリーキックは決まらないと思ってたよ」
蹴太の横に腰を下ろした蒼空斗が、ボトルを傾けながら笑顔でそう言った。悪びれる様子はまるでない。むしろ自分の予測の誤りを認めることを心底楽しんでいるような顔だ。
「あぁ。まぁなんだ。色々と覚悟が決まったからな」
「・・・そうか!」
蒼空斗は満足げに頷き、例のイケメンスマイルを蹴太へと向けた。
蹴太の表情にはかつてグラウンドでぶつかり合った頃のどす黒い炎はもうない。ただ純粋に、無意識のうちに自分のゴールを喜んでいるストライカーの顔だった。
そして全員の水分補給が済んだのを見計らい、居舘がホワイトボードの前に立つ。
「いいか! 後半戦は7割くらい、守備を大目に意識しろ!」
ペンでボードを叩きながら居舘の鋭い声が飛ぶ。
「相手は恐らくあの前のFWにパスを出して仕掛けてくる! あの二人は1点を追いかけている上に自分が点を決めたくて仕方がない連中だ。どんな体勢からでも、無理にでもシュートまで持っていこうとするぞ!」
「「「「「はい!!!!」」」」」
「特にセンターライン! 白河が中心となってシュートコースを塞げ! 1対1で抜かれることを怖がるな、身体の向きだけは絶対に譲るなよ!」
「はい!」
名指しされた健一が、汗を拭いながら力強く返事をする。
「サイドバックは相手インサイドハーフの動きに気をつけろ! いくらFWが主体とは言え、サイドからの攻撃も十分考えられるからな! 中村、渡辺、絞りすぎて外を空けるな!」
的確で、かつ最低限に絞られた指示だった。難しい戦術用語は一つも使わない。中学生が息を切らしながらでも実行できる約束事だけを居舘は選んで並べている。
そして、一方その頃。
川島SCのロッカールームは、まるで別の意味で荒れていた。
「あーくそ! なんで俺にパス出さねぇんだよ! 雑魚の部活動なんか、俺が一人で潰してやるからよ!」
ベンチをガンと蹴りつけながら喚いているのはツートップの一人だった。前半、味方を恫喝し続けたその男である。
「同感だ。ただ、より多くシュートを決めるのは俺だ。お前は引っ込んでろ」
もう一人のFWが氷のように冷たい声でそう返す。二人の視線が空中で激しくぶつかり、火花を散らした。
パスが通らない。通ったとしてもシュートまで運べない。そして自分たちが1点も奪えていない一方で、向こうの無名なFWは、あの馬鹿げた距離から見事なフリーキックを叩き込んでみせた。その事実がどうしても許せなかった。
他の中盤やディフェンスのメンバーは誰一人としてその輪に入ろうとしない。壁際で床を見つめ、嵐が過ぎるのをただ待っている。
(ストライカーたるもの、ゴールを奪う執着は必要だ)
川島SCの監督はドリンクを配りながらその異様な光景を横目で捉えていた。
(でも、すこし甘やかしすぎたか?)
得点を取る者が偉い。結果を出す者の言うことは通る。その原則を認めてきたのは他ならぬ自分だ。おかげでこの二人は、都内でも屈指の得点力を持つに至った。だが、それはあくまでチームが勝っているうちの話だ。
監督は短くため息をつき、そして決断した。
「後半戦はサイドからの攻撃を狙っていこう」
その一言にツートップの二人が即座に噛みついた。
「ふざけんなよ! 俺がゴール決めんだよ!」
「こいつに同意はしたくないですが、俺もそう思います。俺たちに任せてください」
二人の凄まじい剣幕に、周りのメンバーが肩をびくりと震わせる。恐怖にも似た沈黙が部屋に落ちた。
「ただでさえ俺は、明石SC戦を外されたっていうのによぉ! これじゃあ俺の大会全体を通した得点王が遠ざかるだろうが!」
「・・・だったら、下がるか?」
「あん?」
監督の声がそれまでとは打って変わって低く、重く沈んだ。喚いていたFWの動きがぴたりと止まる。
「お前らの実力は認めている。ただ、サッカーはチームスポーツだ」
一歩、監督が前へ出た。
「それに俺達にはもう後がない。引き分けでも敗退だ。分かっているな?」
「・・・っ」
反論の言葉が喉の奥で潰れる。FWはそのまま不満げに唇を噛み、荒々しくベンチへ腰を下ろした。もう一人も何も言わずに視線を逸らす。
そして監督はホワイトボードへ向き直り、後半の配置をペンで示していく。
「後半戦は中を囮とした、サイドの攻撃を中心にする。右サイドバックは月影を、センターバックはより9番をマークしろ」
■■
それぞれの監督の指示が終わり、運命の後半戦が始まった。
青下・松野川合同チームのキックオフ。蹴太が軽く後ろへ流したボールを、中央に構えていた春樹が受ける。
(焦るな。まずは落ち着いて回す)
1点のリード。しかも引き分けでも勝ち点で上回るこちらは、無理をする理由がどこにもない。春樹は顔を上げ、ゆっくりとボールを持ち出しながらビルドアップの形を作ろうとした。
だが。
「うおおおおっ!」
猛然と、獣のような勢いで川島SCのFWが春樹へと突っ込んできた。
開始からわずか数秒。前線の選手が単独でここまでチェイスに来るなど、通常の戦術ではあり得ない。
(早い! こいつ、絶対監督の指示なんか聞いてないな!)
春樹は舌打ちしながらも冷静だった。身体をひねって相手の勢いをいなし、最終ラインの健一へと丁寧にボールを預ける。
「健一、任せた!」
「おう!」
ボールを受けた健一が顔を上げる。左右を見渡し、サイドバックへ逃がすか、それとももう一度春樹へ戻すか。
その一瞬の判断の間に、人影が視界の外から飛び込んできていた。
「よこせぇぇぇ!」
「なっ!」
ボールに向かってではない。明らかに人へ向かってきていた。
健一が慌てて身体を入れて守ろうとするより早く、猛スピードのままの相手の足が真横から健一の右足首を深く刈り取る。
「ぐはっ!」
ピーッ! ピーッ!
主審の甲高い笛が二度、グラウンドに鋭く鳴り響いた。
芝の上を二回転した健一がそのまま起き上がってこない。
危険なプレーに、主審が迷いなく胸ポケットへ手を伸ばし、FWへとイエローカードを高々と掲げた。だが・・・
「白河!!!」
真っ先に駆け寄ったのは春樹だった。
芝の上で健一は身体を丸め、右足首を両手できつく抱え込んでいる。額には脂汗が滲み、食いしばった歯の隙間から荒い息が漏れていた。
「白河!」
ベンチから飛び出してきた居舘がその傍らに膝をつく。
「白河、痛むか?」
「い、いえ! これくらい・・・」
健一は歯を食いしばったまま、なんとか立ち上がろうと地面に手をついた。だがその右足が地面を捉えた瞬間、身体全体がぐらりと大きく傾く。
「嘘をつくな」
居舘の声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。
健一は数秒間、その場で固まっていた。行けると言いたい。言ってしまいたい。この試合がどれだけ大事か誰よりも分かっているのは自分なのだ。
だが、うつむいた健一の口から出たのは絞り出すような別の言葉だった。
「・・・正直、痛みます」
ここで自分が無理をして穴になれば、チームの敗北に直結する。出たいという自分のエゴを押し殺し、チームの勝利を優先した健一の勇気ある撤退だった。
「分かった。よく言ってくれた。交代だ」
居舘は即座に立ち上がり、主審に向かって負傷交代を告げた。ベンチが慌ただしく動く。
すぐにベンチへ戻ってきた居舘がセンターバックの代役に指名したのは、もともとボランチとして控えていた鈴木だった。慣れないポジションに顔が強張っているのが遠目にも分かる。
「鈴木! お前なら出来る! 難しいことは考えるな、身体を張れ!」
「は、はい!」
肩を叩かれた鈴木がピッチへと駆け出していく。
そして入れ替わりに健一が蒼空斗に肩を担がれてゆっくりとタッチラインへ向かっていた。右足はほとんど地面についていない。
「白河君・・・」
蒼空斗がその横顔を見ながら小さく呟いた。かつて自分の膝が砕けた日の記憶が否応なく重なる。
「すまねぇ月影・・・最後まで一緒に走りたかったんだけどよ・・・」
唇から零れ落ちた本音に蒼空斗は力強く首を振った。
「謝るなよ! それより、今はしっかり怪我を治して欲しい。絶対に無理はさせない」
「・・・そうだな。大怪我を乗り越えたお前が言うと説得力がちげぇや」
健一が痛みに歪んだ顔のままそれでも無理に笑ってみせた。そしてその二人の前に、いつの間にか蹴太が立っていた。
「・・・」
蹴太は何も言わなかった。ただ、その瞳の奥には友を傷つけられたことへの静かで冷たい怒りが渦巻いている。
しかし健一はそんな蹴太の顔をじっと見上げると、蹴太の感情を宥めるように誰よりも先に口を開いた。
「信じてるぞ!」
かつて、蹴太が自分たちに言ってくれた言葉。
その一言だけだった。
痛みも、ピッチを去る悔しさも、全部を腹の底に押し込めて健一はいつも通りの馬鹿みたいに明るい声でそう言った。
蹴太は一瞬だけ目を伏せ、そして真っ直ぐに幼馴染を見返した。
「当たり前だ」
たった五文字。だがそれで十分だった。
健一は満足げに、心底嬉しそうに笑ってピッチを去っていく。担架には乗らず、タッチライン際まで来ていた明里の肩を借りながらも、自分の意思でタッチラインをまたいでいったその背中を蹴太はしばらく見つめていた。
胸の奥が、じりじりと焼けるように熱い。
前半に自分が撃ったフリーキックは、確かに自分の責任で選んだ一本だった。だが今、背中に乗っているのはそれとは種類の違う重さだ。ピッチに立てなくなった仲間が、それでも託していったもの。
蹴太はゆっくりと振り返り、自陣のゴールを背にして構える川島SCの選手たちを、射抜くような目で睨みつけた。




