21.ストライカーとして
青下・松野川合同チームのロッカールームにて。
「よし! みんな聞け! 今日が正念場だぞ」
居舘のよく通る声が静まり返った室内に響き渡る。ユニフォームに着替え、スパイクの紐をキツく結び終えた選手たちが一斉に顔を上げた。
「相手は都大会常連の強豪街クラブ、川島SCだ。あっちはこのリーグ戦、勝たなければ後がない。だからこそ、必ず死に物狂いで勝ちに来る。全員、相手の気迫に絶対に飲まれるなよ!」
「「「「「はい!」」」」」
腹の底から響く力強い返事に、ロッカールームの空気がぴりりと冷たく引き締まる。誰の顔にもこれまでにないほどの極限の気合と緊張感が漲っていた。
色々と問題だらけで始まったこの弱小サッカー部の集まりが、いつの間にか東京大会への切符を懸けて都内屈指の強豪と真っ向から殴り合うところまで来ている。この一戦に勝てば、あるいは引き分けさえすれば、その先の大舞台へ進める。
そしてその胸の高鳴りは例外なく蹴太もまた同じだった。
(・・・ついにここまで来たか)
かつては【面接のいいエピソード作り】などと嘯き、冷めた目で見ていた自分が今や誰よりも本気でこのチームでの勝ちを求めている。その自分自身の明らかな変化を、今の蹴太は自嘲することなく、素直な熱として受け止めていた。
「みんな」
その時部屋の隅から控えめに、しかし凛とした声で手を挙げたのはマネージャーの明里だった。
「私はピッチの外で見ることしか出来ないけど・・・何があっても最後まで絶対に諦めないでね」
マネージャーとしてずっと裏方でこのチームを支えてきた明里の言葉。泥だらけの洗濯物を畳み、重いドリンクのボトルを走り回って用意し、夜遅くまで対戦相手の情報をかき集めてノートにまとめてきた。一緒に戦っているのにピッチに立てないもどかしさを誰よりも知っている明里からの、祈るような、飾り気のない心からの応援だった。
「・・・当たり前だろ!」
真っ先に力強く答えたのはやはり健一だった。
「月影さんの分まで俺たちがピッチで死ぬ気で走ってやるよ!」
その健一の言葉に続くように次々と「おう!」「任せとけ!」と頼もしい声が上がる。その一言のやり取りで、張り詰めていたメンバーの緊張が適度にほぐれ、気合がさらに強固なものへと引き締まった。
「よし、じゃあ吉峰! 頼むぞ!」
「はい!」
居舘の呼びかけに応じ、キャプテンの春樹が部屋の中央へと進み出る。それを合図に、青下・松野川のメンバー全員が立ち上がり、固く肩を組んで一つの大きな円を作った。
「みんな、今日の一戦で全てが決まる」
円の中心で春樹が仲間たちの顔を一人ずつ、確かめるように見回していく。
「ピッチにいるメンバーも、ベンチで声を出してくれるメンバーも、みな心は一つだ。俺たちのサッカーを証明して、絶対に勝つぞ!」
「「「「「おぉぉぉぉ!」」」」」
万感の思いが込められた咆哮がロッカールームの壁をビリビリと揺らした。
そのまま、青下・松野川のイレブンは初夏の陽射しが照りつけるピッチへと向かっていく。その最後尾で蹴太もゆっくりと向かった。
「・・・行くか」
ロッカーを出る蹴太の瞳には、静かで、しかし確かな、灼熱の闘志が宿っていた。
■■
ピーッ!
主審が前半開始を告げる甲高いホイッスルを鳴らす。
川島SCのキックオフと同時に、相手チームの全体が怒涛の波のようにぐいと前へと押し上がった。躊躇のない、なりふり構わず勝ちを取りに来る気迫のビルドアップ。ボールは素早く後方のセンターバックへと繋がれ、そこから川島SCのボランチへと渡る。そしてボランチが鋭い視線で前線をルックアップした。
その瞬間、弓から放たれた矢のような鋭いグラウンダーの縦パスが、裏のスペースを狙って走り出した前線のFWの一人へと突き刺さった。
ドンッ!
だが、そのパスの進路にはすでに泥臭く身体を投げ出していた健一の姿があった。
(読み通りだ!)
健一は腹にボールを当てる決死のブロックでパスを遮断しながら内心で叫んだ。
事前のミーティングと映像分析で、徹底的に対策を練ってきた形だった。川島SCはどの試合でも立ち上がりのこの意表を突く一本からリズムを作り、得点を奪ってきている。相手のFWが裏へ抜ける動きを見せた瞬間、必ずボランチから縦に速い楔のパスが入る。だからこそ健一は、開始1秒目からその【最初の一本】だけを絶対に潰すつもりで完全に狙いを絞って待ち構えていたのだ。
「もらった!」
ボールを奪い取った健一は、すかさず前を向いて走り出していた春樹へと丁寧にパスを繋ぐ。
(流石に戻りも速いな。でもそのおかげでサイドが完全に空いている!)
パスカットされたと見るや、前がかりになっていた相手が慌てて自陣へと戻っていく。春樹はその攻守の切り替えの僅かな隙間を見逃さなかった。タメを作ることなく、すかさず左サイドの広いスペースに張っていた蒼空斗へと展開する。
「月影君!」
「OK!」
ボールを受けた蒼空斗が一気にトップギアへと加速した。
完全に感覚を取り戻しつつある繊細かつ大胆なドリブルテクニックが冴え渡る。立ち塞がった相手の右インサイドハーフを鋭いボディフェイントと切り返しで鮮やかにかわし、カバーに詰めてきた右サイドバックの重心をも見極め、縦のスピードだけで一気に置き去りにする。
そのまま左サイドをえぐってペナルティエリア付近までボールを運び、中央で待つ蹴太へと、鋭いマイナスの横パスを送り込んだ。
「蹴太!」
だがその決定的なパスはスライディングで素早く戻ってきた川島SCのセンターバックの足に当たり、無情にもブロックされて弾き出された。
(流石に最後の最後のリスク管理はしっかりできているか)
蒼空斗は小さくため息を漏らす。前節で8点をも奪う圧倒的な攻撃力ばかりが目立っていたが、守備の対応力や個人の危機察知能力も決して雑ではない。
前半8分。川島SCの立ち上がりの攻撃を見事に摘み取り、鮮やかなカウンターを見せた青下・松野川。相手がクリアしたボールによるスローインで試合が再開される。
左サイドバックの渡辺から再び蒼空斗へとボールが渡った。だが、川島SCの選手たちは間髪入れずに蒼空斗へと激しいプレスをかける。
「球際しっかり行け! 相手の9番へのパスコースは絶対に潰せ!」
「「おうっ!」」
(・・・俺への対策はバッチリってか)
中央で構える蹴太は、内心で軽く舌打ちをした。二人がかりで蹴太を前後から挟み込み、こちらへパスが出そうになる気配を感じただけで、パスコースには常に嫌らしく足を伸ばしてくる。中央でボールを引き出そうと動いても、必ず視界の端には川島SCの選手がぴったりと張り付いている。
明石SCが見せたような空間ごと制圧する洗練された囲い込みではない。だがその分、とにかく泥臭く、執拗で、息が詰まるようなマンツーマンだった。
(まぁ当然か。流石にこの大一番で俺を甘く見て油断はしてくれねぇよな)
そして前半13分。
時間が経つにつれ、川島SCは焦りからか徐々に球際で厳しく身体を当ててくるようになった。時にはファウル覚悟のハードチャージで、青下・松野川の選手たちをゴリゴリと削っていく。
空中で競り合った中山が倒され、ドリブルを仕掛けた渡辺が押し倒される。主審の笛は鳴る。だが相手にはそれでも構わないという開き直った姿勢があった。ファウルをしてでも少しずつ相手の足を止め、恐怖を植え付け、自分たちのペースへと引きずり込む。
絶対に負けられない、後がないと追い詰められた者だけが纏う、なりふり構わない強者の執念がそこにはあった。
(・・・ふっ!)
オフ・ザ・ボールの動きの中で密着マークに削られながらも蹴太はなぜか口の端を上げて笑っていた。
だが・・・
「まだだ! 行けるぞ!」
ファウルで得た自陣からのリスタート。ボールの前に立った春樹が相手の陣形が整う一瞬の隙を突き、全くのノールックで鋭いパスを前線の蒼空斗へと通してみせた。
(向こうは左サイドで1対1・・・サポートに行くか?)
川島SCの右サイドバックが一瞬だけ判断に迷う。目の前でボールを持った蒼空斗のドリブルを止めるべきか、それとも中にいるあの9番への警戒を優先してステイすべきか。
「! 相手の9番から目を離すな!」
センターバックから鋭い怒声が飛ぶ。だがその声が響いた時には時すでに遅し。
右サイドバックに生じた【一瞬の逡巡】それこそが蒼空斗の求めていた唯一の隙だった。
(もらった!)
ボールをずらし、相手のブロックが間に合わないタイミングで右足を振り抜く。まるで大怪我をする前を彷彿とさせる、素早く、そして極めて精確なクロス。
振り上げた足から放たれたボールはディフェンスラインの頭上を越え、ゴール前へと吸い込まれるように鋭く伸びていった。
誰もがそこにあの危険な蹴太が飛び込んでくると思った。川島SCの選手たちも必死の形相で慌ててそのクロスの軌道の下へと殺到する。
だがそのボールが落ちた絶好のポイントに蹴太の姿はいなかった。
そこにドンピシャのタイミングで走り込んでいたのは、逆サイドから完全にフリーの状態でスプリントしてきた、右ウィングの伊野である。相手の意識が中央の蹴太に完全に釘付けになっている、その巨大なブラインドの隙を突いた、見事な戦術的パスだった。
(決まった!)
青下・松野川の誰もがそう確信した、次の瞬間。
「あっ!」
大舞台での決定機という重圧からか。伊野の足元に収まるはずだったトラップがポーンと大きく前に弾んでしまう。制御を失ったボールはキーパーが反応するよりも早く、そのまま無情にもゴールラインを割っていった。
「ご、ごめん・・・」
がっくりと両膝に手をつき、顔を歪める伊野。決定的な場面だっただけに、その落胆と自責の念は大きい。あれを決めていれば試合の流れは完全にこちらのものになっていたはずなのだ。
だがその震える背中を、バシッと強く叩く明るい声があった。
「どんまいどんまい! めっちゃ押してるぞ!」
最後尾から駆け上がってきた健一だった。
「今のは月影のパスが最高だったし、伊野が信じて走り込んだのも大正解だ! 全くビビる必要ねぇ! 同じ形をもう一回作れば次は絶対に入るだろ!」
仲間の痛恨のミスを責めるどころか、むしろ太陽のように声を張り上げて、沈みかけた場の空気を一瞬で明るく変えていく。
サッカーの技術では劣る。それでもこの白河健一という男はいつの間にかこのチームの誰よりも頼りになる、絶対的な精神的支柱になっていた。
(・・・救われてるやつ、このチームには多いだろうな)
蹴太は汗を光らせて笑う幼馴染の背中を見ながら心からそう思った。
一方、その頃。
「お前ら、さっきから何やってんだよ! さっさと俺にパス出せ!」
川島SCの前線から苛立ちを隠さない怒声が飛んでいた。ツートップのFWの一人が、パスを回している味方の中盤の選手を睨みつけながら喚いている。
「てめぇのパスが遅えから、俺がマークされんだろが!」
その理不尽な声に川島SCの中盤の選手たちは怯えたように身をすくませ、それでも逆らうことを諦めたように引きつった表情で頷いた。
その光景を蹴太はピッチの中央から静かに、冷ややかな目で見ていた。
(FWとして自己主張する。エゴをむき出しにする。それ自体は間違ってない)
ゴールを奪うのがFWの仕事だ。それは先日、明石SCの朝陽から教わったばかりだった。どんな形であれ点を取りたいという激しい渇望は、FWにとって美徳ですらある。
(でも・・・あれは違う)
ミスを味方のせいにして恫喝し、恐怖でボールを寄越せと喚く。あれはストライカーの主張ではない。ただの幼稚な傲慢だ。信頼の上に成り立つ要求と、恐怖で従わせる命令はまるで違う。
味方の蒼空斗もまた剥き出しの野心を持つエゴイストだ。だが蒼空斗は味方を怯えさせたりはしない。自分の力で結果を示し、背中で引っ張り、その上で仲間を巻き込んでいく。
目の前のあの男にはその覚悟がない。蹴太の胸の中で、明確に燃える炎があった。
だがそれは、かつて蒼空斗とグラウンドでデュエルした時に噴き上がった、あのどす黒い炎ではなかった。誰かを叩き潰したい、絶望させたいという醜い衝動ではない。もっと澄んだ、静かで、それでいて青白く燃えるような熱い何かだった。
(見せてやるよ。本物のFWのエゴイズムってのがどういう仕事か)
そして前半20分。ついに試合が動く。
「くっ!」
左サイドをドリブルで駆け上がり、ペナルティエリアに迫ろうかというところで蒼空斗が背後から相手の激しいチャージを受けて芝に倒れ込んだ。
ピーッ!
主審の笛が鳴り、川島SCのファウルの判定。
獲得したフリーキックの位置は左サイド、やや角度のあるところ。しかもペナルティエリアからは少し距離が離れている。直接ゴールを狙うにはあまりに微妙な距離と厳しい角度だった。
セオリーで言えば、ここはショートパスで繋いで組み立て直す場面。あるいは長身の選手を上げて中央へ放り込み、ヘディングでの混戦を狙うか。実際川島SCの選手たちもこの位置から直接狙われる可能性は最初から考えていない様子だった。
1点を先に取れば、勝ち点で上回るこちらは圧倒的に有利になる。だからこそ、確実性を優先すべき場面。ファウルを受けた蒼空斗自身もそう判断していた。
蒼空斗がゆっくりと立ち上がりながら傍らに歩み寄ってきた蹴太を見た。
「どうする? 蹴太? 中に合わせるか?」
「……」
蹴太は何も答えず、ただ無言で力強く頷いた。
その一つの動作だけで蒼空斗は全てを察した。
この距離、この角度から。蹴太は自分の足で直接撃つつもりだ。
無謀とも言える選択。だが蒼空斗は何も言わず、静かにボールから離れた。
(信じるよ。蹴太が【撃つ】って言うならね)
主審の笛が鳴り、プレーが再開される。川島SCは念のためにと壁を二枚だけ用意した。この距離、この角度から直接枠を狙ってくるとは露ほども思っていない。むしろ中央への放り込みを警戒し、ゴール前に人数を割いて密集している。その明らかな油断が見て取れた。
「中に上げてくるぞ! 絶対に競り負けるな!」
「9番をフリーにするな! マーク付け!」
川島の選手たちの飛び交う声も全て中央への警戒だ。
だがセットされたボールの前に立ったのは蹴太だった。
「・・・9番?」
「あいつ、まさか直接!?」
ようやく異変に気づいた選手が数人、慌てて壁を増やそうとする。だがもう遅い。
蹴太は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
助走の距離を測りながら、目線だけで遠くのゴールを捉える。角度は悪い。距離も遠い。壁も、キーパーも当然そこにいる。冷静に確率を計算すれば成功率は決して高くない、非常に非合理的な選択だった。
(確率だの、勝率だの・・・そんな言い訳をして俺は今までずっと逃げてただけだ)
かつての自分なら、いや、つい先日の自分でさえ、迷わずパスという無難な選択をしていただろう。
だが今の蹴太はもう逃げない。
『要は、自分で責任を取れるかだ。特にFWはな』
『君は最高のFWだ。だから、自分を信じてくれ』
『FWはエゴイストでいい。点入れてなんぼだからな!』
居舘、朝陽、そして健一。三人の言葉が胸の中で一つに重なり、ストライカーとしての火種が爆発的に燃え上がる。
(・・・上等だ)
蹴太は三歩の助走から迷いなく右足を振り抜いた。
ドンッ!
凄まじいインパクト音と共に放たれたボールは、二枚の壁の頭上を鋭く越えた。そしてそこから信じられないほど美しいカーブを描く。
一度はゴールの外へと逃げていくかに見えた軌道が、ゴール手前でぐんと巻き戻るように鋭く内側へ曲がっていく。
「なっ!?」
川島SCのゴールキーパーが慌ててステップを踏み横っ飛びで反応した。だが、懸命に伸ばした指先は届かない。届くはずもなかった。あまりに速く、あまりに正確すぎた。
ボールは弾丸のようにファーサイドのゴール隅の、全く隙のないその一点へと吸い込まれていった。
バサァッ!!
ゴールネットが激しく揺れる。その瞬間、会場を奇妙な静寂が支配した。
川島SCの選手たちは目の前で何が起きたのか理解できないまま、石像のように立ち尽くしている。青下・松野川の面々も同じだった。歓声を上げることすら忘れ、ただ揺れるゴールネットを見つめている。
そして、蹴太にフリーキックを託した蒼空斗ですら、呆然とその異常な軌道の残像を目で追うことしかできなかった。
味方であるはずの自分の背筋がぞくりとする。無謀な選択だと思った。信じると言いながら、心のどこかでは【失敗しても仕方ない】と、免罪符を用意していた。
その予想を、蹴太は軽々と飛び越えていった。
あまりにも鮮やかすぎる、ストライカーとしての矜持が詰まった一撃だった。
「まず1点」
静まり返るピッチの中央で蹴太はぽつりとそう呟いた。
フリーキックには不利な位置。勝利を確実に掴むならショートで繋ぐのが得策の場面。それでも蹴太は、迷わず自分の足で振り抜いた。
【川島SC 0―1 青下・松野川合同チーム】
スコアボードを見上げるその蹴太の顔は、ストライカーとしての重圧を背負いながらもどこか晴れやかだった。




