20.責任
5月上旬。
初夏の心地よい風が窓から吹き込む、区立青下中学。ゴールデンウィークを目前に控えた浮足立った空気の中、三年一組の教室はいつにも増してやかましい昼休みの喧騒に包まれていた。
「蒼空斗君! 聞いたよ、あの明石SCと引き分けたんだって!? すっごくかっこいい!!」
「うんうん! 怪我ももうすっかり元通りみたいだし、将来は絶対にJリーガーだね!」
「ね、ねぇ! 今度の連休とか、もし部活が休みの日があったら遊びに行かない?」
「えーと、その・・・部活の予定がまだちょっと分からなくて」
窓際の一角。蒼空斗は幾重にも群がる女子生徒たちに囲まれ、いつもの爽やかな笑顔を顔面に貼り付けたまま、しどろもどろになっていた。そこに注がれる視線は、純粋なスポーツマンへの羨望から、明らかな恋愛感情が混じった熱視線まで実に多岐に渡っている。
あの明石SC。都大会常連であり、この地域でその名を知らぬ者はいない強豪街クラブ。サッカーのルールに詳しくない生徒であっても、その名前が持つ【重み】くらいは直感的に理解していた。そんな格上のエリート相手と互角に渡り合ったという事実は、尾ひれがつきながら瞬く間に校内を駆け巡っていたのだ。
(引き分けに持ち込めたのは俺一人の力じゃないんだけどな・・・)
何度そう弁明しても、周囲の盛り上がりは一向に収まらない。むしろ「謙虚で素敵!」と受け取られ、さらに評価が上がる始末だった。蒼空斗は引きつる頬を必死に保ちながら、内心で深々とため息をついた。
そして、囲まれて身動きが取れないのは蒼空斗だけではない。
「月影さん! 大丈夫!? サッカー部のむさ苦しい連中に変なことされてない!?」
「万年一回戦負けだったあいつらが勝ててるのは、どう考えても勝利の女神の月影さんがマネージャーになってくれたおかげだよね!」
「えっと、あの・・・みんなが必死に頑張ってるからで、私はただの雑用というか・・・」
教室の反対側ではマネージャーの明里が男子生徒たちに取り囲まれ、必死に愛想笑いを浮かべていた。美男美女の双子揃ってすっかりクラスの中心、いや学校の注目の的である。
そんな二人の様子を少し離れた席から呆れ顔で眺める男が二人いた。
「なんだよあれ! だから月影のワンマンチームじゃねぇだろっての!」
健一が机に肘を突き、面白くなさそうに唇を尖らせて唸る。
「だからいちいち怒るなよ。見苦しいぞ」
その向かいの席で、蹴太は五時間目の英語の教科書に目を落としたまま淡々と応じた。
「前にも言っただろ。世間の評価なんてそんなもんだ。無名な選手の泥臭い2点より、イケメン有名選手の華麗な1点が大々的に報道される。それが当たり前なんだよ」
「うぐぐ・・・お前がそんなに冷静に言うならそうなんだろうけどよぉ。なんか釈然としねぇ」
健一は納得のいかない顔で唸り声を上げ、それからふと教科書を見つめる蹴太の横顔をまじまじと覗き込んだ。
「・・・お前、なんかいいことでもあったか?」
「何だよ急に」
「いや、なんか顔つきっていうか、表情? 前よりちょっと優しくなったような気がしてよ」
思わぬ指摘に蹴太はわずかに眉を動かした。自分では何も変えたつもりはない。ただ先日の試合後、自販機の前で交わした会話の記憶がふいに脳裏をよぎった。
『君は最高のFWだ。だから、もっと自分を信じてくれ』
朝陽の真っ直ぐな目がフラッシュバックする。
「・・・うるせぇよ。気のせいだ」
蹴太は照れ隠しのようにぶっきらぼうに一蹴し、それから目の前の教科書を指でトントンと叩いた。
「それよりお前、次の授業の予習しなくていいのか? 順番的に次お前が当たるだろ」
「げっ! そうだった! やべぇ、蹴太! ここどういう意味か教えてくれ!」
慌てて自分の教科書を広げる健一。この幼馴染はサッカーの練習には誰よりも熱心で真面目に取り組むくせに、勉学のほうはからきしだった。
「ここの現在完了形、ルールは分かってるか?」
「げんざい・・・なんだって?」
「・・・前途多難だな」
結局、昼休みの残り時間は蹴太による付け焼き刃のスパルタ英語講座に費やされることとなった。もっとも、そうやって騒いで頭を抱えている間だけは、健一も蒼空斗への嫉妬を綺麗さっぱり忘れているようだった。
■■
放課後。
いつものようにトイレで練習用のユニフォームに着替え、青下中のメンバー全員が校門に集合し、自転車にまたがろうとした頃。招かれざる者がそこに現れた。
「おい、サッカー部」
「! 葛田先生・・・何か用ですか?」
声をかけてきた人物の顔を見て、健一が露骨に面倒くさそうな声で応じる。
顧問の葛田は洗っているのかも怪しいよれたジャージのポケットに手を突っ込んだまま、値踏みするようにサッカー部員たちを舐めるように眺め回した。
「お前ら・・・なんか最近勝ち進んでいるってのは本当か?」
「はい」
健一が短く、事務的に答える。市区町村大会を突破し、現在行われている支部大会のリーグ戦でも2位につけている。生徒たちが血のにじむような努力で掴み取った成果を、この名ばかりの顧問はいまだに他人事のように尋ねてくるのだ。
だが葛田はその力強い返事にもろくに反応を示さず、健一を完全に無視してすたすたと歩き出した。そして向かった先は、最後尾にいた蒼空斗のもとだった。
「月影。お前、足の怪我は治ったのか?」
「そうですね。もうだいぶ元通りに動けます。まぁ、サッカーの技術のほうはブランクがあってまだまだですけど」
「ふーん・・・そうか・・・」
葛田は顎に手を当て、何かを計算し、思案するようなねっとりとした表情を浮かべた。その異質な空気に耐えかねたのか、健一が横から割って入るように口を挟んだ。
「あのぉ、すみません。俺らそろそろ合同練習で松野川中学に行かないといけないんですけど・・・」
「・・・まぁいい」
葛田はようやく興味を失ったように手をひらひらと振り、それから健一の方をちらりと見下ろした。
「おい、えーと・・・くれぐれも月影の足を引っ張んなよ。怪我でもさせたらどうなるか、分かってるだろうな」
そう言い捨てて葛田は踵を返し、気怠そうな足取りで校舎へと引き返していった。そしてその背中が完全に見えなくなったのを確認すると、健一は思い切りあっかんべーをした。
「俺の名前は白河健一だ! 3年も居て、キャプテンだった部員の名前も覚えられねぇのか、あのクソ顧問!」
「あれでも一応、教育者なんだよな・・・」
蹴太も心底呆れた声で呟いた。3年間も同じ部活で顔を合わせておいて、名前一つ覚えていない。もっとも、この男に指導者としての何かを期待するだけ無駄だということは、すでに全員の共通認識だった。
(それにしてもあの顔・・・)
去り際の葛田の表情が、蹴太の頭の片隅に少しだけ引っかかっていた。無関心を装いながらも、蒼空斗の【価値】を利用して何かを企んでいるような、ひどく嫌な目つき。
(・・・まぁ、今考えても仕方ねぇか。俺たちがやるべきことは一つだ)
蹴太は思考を切り替え、ペダルに足を乗せた。仲間たちと共に決戦に向けた準備を行うべく自転車を走らせた。
■■
松野川中学に到着すると、居舘の出迎えを受けてメンバーはすぐさま薄暗い視聴覚室へと通された。そしてスクリーンに映し出されたのは、先日行われた【川島SC対第四中学】の試合映像である。
「と、まぁ、こんな感じだ」
スコアボードに【8―0】という絶望的な数字が刻まれたところで映像を止め、居舘が振り返る。だが、室内に重苦しい雰囲気は漂っていなかった。
「なんだろうな? 先にあの明石SCと戦ったからなのかな? スコアは凄まじいけど、あいつらほどの絶望感は感じないな」
健一が腕を組み、首を傾げながら率直な感想を漏らす。
「だろうな」
蹴太も静かに同意した。
「川島SCは確かに個の力は強いし、パスも早い。だが明石SCの鵜飼みたいな、戦術を一人で破壊してくるような理不尽なバケモノはいない」
川島SCは間違いなく実力のある強豪街クラブだ。だがあの鵜飼朝陽のような、こちらの想定を根こそぎ覆してくる圧倒的な【個の暴力】は映像の中に見当たらなかった。8点という数字の裏には、組織としての熟練度はあっても、絶対的な恐怖は存在していない。
「だが、決して隙だらけの弱いチームじゃないぞ」
隣の席で画面を食い入るように見つめていた春樹が冷静な声で釘を刺す。
「一人ひとりの技術は間違いなく俺たちより一つ上のレベルにある。トラップの正確さ、パススピード、ボールを失った後の寄せの速さ。基礎の練度がまるで違う。油断して中盤を空ければ、あっという間にペナルティエリアまでボールを運ばれるな」
個の力不足を泥臭い組織力と連動で補ってきたのがこれまでの青下・松野川合同チームだった。真っ向から基礎技術だけでぶつかれば分が悪い。
「そうだね。システムはオーソドックスな【4―4―2】。基本に忠実で、前線に張っているツートップのFWが得点源になってる」
その隣で蒼空斗もまた的確に相手を分析していた。奇をてらわない堅実な布陣。4枚のディフェンスラインと4枚の中盤で綺麗なブロックを作る。これを崩すには相応の力と工夫がいる。
「だがあのツートップの二人、実はそこまで仲良くないと見た」
「どういうこと?」
春樹の唐突な指摘に蒼空斗が目を丸くする。
「8―0というスコアを見た時からなんとなく違和感があったが、映像を見て確信した。この二人は連携しているように見えて、恐らくピッチの上で【得点を奪い合っている】だけだ」
「なるほどね。自己主張の強い二人ってことね」
言われてみれば、と蹴太もスクリーンを思い返す。
第四中学戦の映像を見る限り、川島SCのツートップには【下がって守備をする】【味方を活かすためにおとりになる】という選択肢がそもそも存在していないように見えた。自分にボールが来なければ露骨に苛立ち、味方が強引にシュートを撃てば、不満げに天を仰ぐ仕草を見せていた。
(確かな観察眼だな)
蹴太は内心で春樹の分析力に舌を巻いていた。前世でずっとサッカー漬けの自分ならまだしも、春樹はただの公立中の部活の選手だ。それでいてこの戦術眼と洞察力。もし恵まれた環境に出会えていれば、この男はどこまで行けたのだろうかとすら思う。
(後半開始5分で4―0。普通ならこの時点で勝負は決まっていた。監督は他の主力メンバーを温存のために交代させたのに、あのFW二人だけは最後までピッチに残り続けた。それは監督の意向というより、本人たちが点を取りたくてピッチを降りたがらなかったからだろうな)
大量リードの試合で、点取り屋だけが最後まで立ち続けた。得点王争いか、あるいはチーム内での単純な意地か。いずれにせよあそこまでエゴが強いなら必ずどこかに綻びが生じる。
(利用できる隙、か)
「つーかさ、蹴太もあれくらい自己主張してもいいんじゃないか?」
「何だよ急に?」
不意に健一が放った言葉に、蹴太は面食らった。
「いや、なんとなくだよ。お前、周りを見てパス出すのが上手いけどさ、たまに俺らに遠慮してるように見える時がある。もし気を遣ってるんだったらそんなの要らねぇぞ。FWはエゴイストでいい。点入れてなんぼだからな!」
健一は屈託のない、いつものニカッとした笑顔でそう言った。
(・・・全く、こいつは)
蹴太の口元に、思わず軽い笑みが浮かぶ。
先日、朝陽から告げられた本質的な指摘と全く同じことを言っている。しかも健一のほうはただの野性の直感と仲間への絶対的な信頼だけで口にしているのだ。何の裏付けもない、健一らしいまっすぐで力強い言葉だった。
(遠慮してた・・・つもりはねぇんだけどな)
そう思いながらも蹴太は否定しなかった。この幼馴染は時として論理を超えて、誰よりも鋭く本質を突いてくる。
「いいか、お前ら!」
その時居舘がパンッと強く手を叩いて全員の注目を集めた。
「明日の試合、我々は仮に引き分けても勝ち点の差でリーグ突破が決まる。相手を上回っている状況だ。しかし! 絶対に【引き分けでもいい】なんて気持ちでピッチに立つな!」
「「「「「はい!!!!!」」」」」
引き分けでもいい。その状況は確かにこちらに有利だ。だが同時にそれは、川島SCにとって【勝つしか生き残る道がない】という背水の陣を意味する。
「相手は死にものぐるいで、牙を剥いて勝ちを取りに来る! 強者のプライドを捨てて襲いかかってくるぞ! 少しでも守りに入ればその瞬間に喉笛を食い破られる。絶対に飲まれるなよ!」
居舘の気迫のこもった警告に、部員たちの顔がピリッと引き締まる。
居舘はそのまま明日の試合に向けた各ポジションへの細かい指示を出していった。そしてその日のグラウンドでの練習は、明日への極限の緊張感でいつも以上にヒリヒリと張り詰めていた。
■■
練習後。
夕日に染まるグラウンドの隅で用具の片付けを終えた蹴太は、一人ビブスを畳んでいる居舘のもとを訪れた。
「居舘先生」
「ん? どうした、神野?」
「一つ聞きたいことがあって・・・FWの仕事って、なんだと思いますか?」
唐突で抽象的な問いに、居舘は少し面食らったように目を瞬かせた。
「仕事って・・・そりゃ、点を取ることだろ?」
「じゃあ例えば・・・自分が撃てば9割の可能性でシュートが決まる場面があるとします。でも横にいる味方にパスを出せば、10割【確実】に決まる。そういう場面でもFWは自分で撃つべきですか?」
思い描くのは明石SC戦のあの最後のアディショナルタイムのワンプレー。
あの選択が本当に正しかったのか、蹴太は心の奥底でまだ確固たる答えを出せずにいた。朝陽には『違う』と明確に否定された。ならば、指導者として自分たちを見てくれているこの人はどう答えるのか。
「うーん。難しいな」
居舘は腕を組み、暮れなずむ空を見上げてしばし考え込んだ。そしてふと顔を下ろし、蹴太の目を真っ直ぐに見据えた。
「でもな、神野。お前はその前提で一つだけ大きな勘違いをしているぞ」
「勘違い・・・何がですか?」
「サッカーに【確実】なんてものは存在しない」
その低く静かな言葉は、ハンマーのように重く、はっきりと蹴太の胸を打った。
「どんなにフリーの選手にどんなに完璧なタイミングでパスを出したとしても、それが10割の確率で決まるわけじゃない。ボールがイレギュラーバウンドするかもしれないし、味方が直前で足を滑らせるかもしれない。確実なんてものはピッチ上のどこにも存在しないんだ」
「それは・・・」
反論できなかった。事実、あの場面がまさにそうだった。完璧なタイミングとスピードでスルーパスを通したにもかかわらず、受けた山本のトラップは極度の緊張からわずかに大きくなり、決定機は幻のように消え去った。10割だと思い込んでいたものが10割ではなかった。
「要は、自分で【責任】を取れるかどうかだ。特にFWはな」
「責任・・・」
「点を取る仕事ってのはな、華やかであると同時に失敗が一番目立つ残酷な仕事でもある。決定機を外せば観客からも味方からも戦犯扱いだ。だからこそ、その重圧から逃げずに外した時の責任を一人で引き受けられるかどうか。それが真のストライカーの条件だと俺は思う」
居舘はどこか遠い目をした。かつて自身もプロという狭き門を目指し、そしてあと一歩で届かなかった男。その言葉には理屈ではない、血の滲むような経験からくる確かな重みがあった。
「自分の取った行動、選んだプレーに自分自身で最後まで責任を持つ。これはサッカーだけじゃなくて、生きていく上でも凄く大事な覚悟だぞ」
(責任、か・・・俺は、どうだったか?)
あの時、確かにチームが勝つための【勝率の高い方】を冷静に選んだつもりだった。自分勝手なエゴを捨てた、正しい判断だと信じていた。
しかしそれは、自分の圧倒的な力を心の底では信じきれず、「外した時の責任」から無意識に逃げた結果だったのではないか。
『君はどうやら、自分の力を信じていないように思える』
朝陽の言葉が居舘の言葉とパズルのように完璧に組み合わさり、胸の奥でカチリと音を立てた。
(ふっ!)
「? どうした、神野?」
「いえ、何でもありません。すごく腑に落ちました。ありがとうございました」
蹴太は深く、深く頭を下げ、帰宅の準備へと戻っていった。
(もし前世で居舘先生みたいな指導者に出会えていたら、俺のサッカー人生は変わっていただろうか?)
砂まみれのスパイクをバッグにしまいながら、ふとそんな感傷が胸をよぎる。
あの頃、自分を正しく導いてくれる大人はそばにいなかった。ただ孤独にすり減っていくだけだった。あの時、居舘のような、あるいは健一のような誰かがいてくれたなら。もう少し違う景色を見られたのかもしれない。
(いや、たらればはいいか。前世は前世だ)
蹴太は軽く頭を振り、過去の亡霊を振り払うように駐輪場へと向かった。
(今の二度目の人生でこのチームに出会えたことに感謝だな)
初夏の夕暮れが、誰もいなくなった校庭を柔らかく、そして温かく照らしている。自転車を漕ぎ出す足取りは、自分でも驚くほど軽やかだった。
迷いが完全に晴れ、ストライカーとしてのエゴイズムの種が力強く芽吹いたのを感じる。少しだけ高揚した気分のまま、蹴太はペダルを踏み込んだ。
そして、いよいよ支部大会のリーグ戦も大詰め。
青下・松野川合同チーム対川島SC。
それぞれの意地と覚悟がぶつかり合う、運命の最終決戦が幕を開けようとしていた。




