19.使う一択
支部大会のリーグ戦は、同点であってもPK戦による決着は行われない。両者一歩も譲らぬまま、試合はそのまま終了となった。
■■
引き上げてきた青下・松野川合同チームのロッカールームには、なんとも言えない複雑な空気が漂っていた。
勝てなかった悔しさ。あと一歩届かなかったもどかしさ。だが同時に、格上を相手に互角に食らいついたという確かな手応え。喜んでいいのか、悔しがるべきなのか。誰もがその答えを決めかね、ただ黙ってタオルで顔の汗を拭っていた。
その微妙な均衡を破ったのは、パンッという乾いた拍手の音だった。
「おいおい。なんて顔をしてんの!」
キャプテンの春樹だった。手を叩きながら、集まった仲間たちの顔をぐるりと見回す。
「俺たちは、あの【格上】の明石SCと引き分けたんだ。もっと誇っていいと思うよ」
その一言に、真っ先に反応したのは健一だった。
「そ、そうだな! 万年一回戦負けの俺らが都大会常連の相手と引き分けたんだ。誇っていいよな!」
健一が泥だらけの拳を握りながら声を張り上げると、それに呼応するようにメンバーの強張っていた表情が少しずつほころんでいく。
「・・・確かにそうか」
「あの明石SC相手に、だもんな」
沈んでいた空気に、じわじわと熱が戻ってくる。そのタイミングを見計らったように、今度は居舘が拍手をして全員の注目を集めた。
「そうだぞ! 俺たちは明石SCに引き分けたんだ。まずは喜ぼう!」
「「「「「はい!!!」」」」」
ようやくロッカールームに笑顔が戻った。居舘は満足げに頷くと、傍らに控えていた明里へと視線を向ける。
「月影さん。別会場の、川島SCと第四中学の結果は入ってるか?」
「はい! えっと・・・」
明里は手元のスマートフォンを確認し、そこで一瞬言葉を詰まらせた。
「・・・8―0で、川島SCが勝利しています」
8―0。
その圧倒的なスコアが告げられた瞬間、戻りかけていた笑顔が再び戸惑いへと変わっていく。自分たちが3―0で勝った相手を、川島SCは8点差で葬った。単純な比較はできないと分かっていても、その数字は彼我の【格の違い】を無言で突きつけてくるようだった。
「8点って・・・」
「うちの倍以上入れてるじゃんかよ・・・」
健一が思わず呻く。ざわつきと不安がじわりとロッカールームに広がった。
「はいはい、落ち込まない!」
だが居舘は再び拍手を打ち鳴らして、俯きかけた選手たちの注意を引き戻した。
「いいか。現時点でリーグ戦の順位は俺たちが2位だ。それに俺たちは明石SCと引き分けた。逆に川島SCはその明石SCに負けている。これが揺るぎない今の事実だ」
居舘は感情を交えず、淡々とホワイトボードに事実を並べた。
現在の順位はこうだ。
1位・明石SC 勝ち点4 得失点差+4
2位・青下・松野川合同チーム 勝ち点4 得失点差+3
3位・川島SC 勝ち点3 得失点差+4
4位・第四中学 勝ち点0 得失点差-11
わずかな得失点差で青下・松野川は2位につけている。各グループの上位2チームが東京大会へ進出できる以上、この位置は決して悪くない。
「それに第四中学はうちとの初戦で負けた時点でリーグ突破の目が事実上消えていた。最終戦のメンバー表を見たが、控え組の下級生たちに経験を積ませる場に切り替えていたはずだ。ならこのスコアも納得だろ?」
対する川島SCは明石SCに負けた初戦とは打って変わり、惜しみなく主力を投入してきた。8点差は必然の結果でもあった。
だが裏を返せば。本気の川島SCがそれだけの恐ろしい攻撃力を持っているということでもある。
「ともかく! 俺たちは【格上】とも戦える。それが今日、証明された」
居舘は力強く言い切った。
「この後と明日は練習を休みにする。しっかり身体を休めろ。そして3日後の川島SC戦、気合を入れて行くぞ!」
「「「「「おぉぉぉぉぉ!!!」」」」」
腹の底から響く声がロッカールームを揺らした。居舘が連絡事項を伝え終えると、その日は解散となった。
■■
(・・・さて、帰るか)
荷物をまとめた蹴太は帰り支度を済ませると、ふと会場のトイレへと足を向けた。その入口で・・・
「あっ」
「・・・ども」
(鵜飼朝陽・・・)
ばったりと明石SCのキャプテンである鵜飼朝陽と鉢合わせた。
先ほどまでピッチで死力を尽くして削り合っていた相手と、こんな日常的な場所で顔を合わせる。何とも気まずいものだった。
挨拶をするのも無視するのも違う気がして、二人は特に会話を交わすこともなく並んで用を足し、並んで手を洗った。
流れる水の音だけがやけに大きく響いている。
蛇口を締め、蹴太が立ち去ろうとしたその時。
「・・・なんで最後、シュート撃たなかったの?」
「えっ?」
朝陽がハンカチで手を拭きながらまっすぐに蹴太を見た。その瞳に敵意はない。ただ純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「君は最後のアディショナルタイムでのカウンター、俺を抜いたあの決定機でシュートを撃たなかった。なんでだい?」
「なんでって・・・それは・・・」
『山本がフリーだったから』
たったそれだけの言葉が、なぜか喉から出てこなかった。自分でも不思議なほどその一言が舌の上で重かった。
言葉に詰まる蹴太を見て、朝陽はふっと表情を緩める。
「スポドリでいいか?」
「えっ?」
■■
会場のすぐ脇にある自動販売機。そこで朝陽は当然のように蹴太の分もスポーツドリンクを買った。二人は近くのベンチに少し距離を空けて並んで腰を下ろす。
「つか。開けておいてなんだけど、なんで奢ってくれた?」
「まぁなんていうか・・・お礼というか・・・」
「なんの?」
「・・・」
朝陽はすぐには答えず、蹴太と同じスポーツドリンクを一口飲んで深く息をついた。汗を流し尽くした身体に、冷たい液体が沁み渡っていく。そうして少し間を置いてから、ようやく口を開いた。
「俺に、FWを【完全に】諦める理由をくれたから」
「・・・はぁ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。朝陽は笑顔で蹴太を見た。その笑みは蹴太に負けた直後の人間とは思えないほど清々しく晴れやかだった。
「俺さ、去年までは左ウィングのFWをやってたんだ」
「まぁ、動きを見ればな」
サイドバックとは思えない、あの滑らかなドリブル。前へ前へと向かう推進力。ボールの持ち方一つを見れば、元が攻撃の選手であることは明らかだった。
「でも俺にはFWとして決定的に足りないものがあった」
「・・・」
「決定力。どんだけ練習してもシュートは枠に収まらなかった」
朝陽は小学生の頃からずっとFWとして活躍してきた。誰よりも速く走れた。誰よりも多く走れた。サイドを切り裂いて、幾度となくチャンスを作った。周りからは天才と持て囃されて、地区、都道府県、そして地域トレセンへと順調に階段を上っていった。
だが、最後の一枚だけがどうしても足りなかった。
決定機で枠を外す。ゴール前で力んでしまう。全国のFWたちと並べられた時、その決定力は明らかに心もとなかった。どれだけシュート練習を重ねても、その差は一向に埋まらない。走力という才能だけでは、ついに最高峰のナショナルトレセンには手が届かなかった。
「去年の終わりにコンバートされてさ。監督には感謝してる。俺の運動量は、サイドバックの方が確実に活きるって正しく見抜いてくれたんだ」
淡々と語るその横顔に卑屈さはない。だが、諦めきれていない何かが確かに滲んでいた。
「お前の・・・神野の初戦の映像を見たよ」
朝陽は握ったボトルへと視線を落とす。
「はっきり言って、俺とは比べ物にならなかった」
「・・・」
「スピードは恐らく俺以上。フィジカルも強いし、パスのテクニックもある。なにより、あのドリブル技術と決定力。個人技は世界を見ているようだった」
淡々と紡がれる賞賛の言葉を、蹴太は黙って聞いていた。
「なのに、そんな神野があの時パスを選択したのは意外だと思った」
朝陽が顔を上げる。
「君ならミドルシュート、センターバックの股下を撃ち抜くシュートくらい出来ただろ?違うかい?」
「・・・そうだな」
蹴太は否定しなかった。事実あの瞬間には、はっきりとゴールへのコースは見えていた。その言葉を聞いて朝陽は満足げに笑った。
「じゃあ・・・なんでだい?」
「絶対に勝てると思った方を選んだ。まぁ、結果としては味方が外して失敗だったが」
蹴太は淡々と語った。
あの時、自分が撃てば9割の確率でシュートは決まっただろう。だが1割の可能性で入らないこともあり得た。センターバックの脚に当たって威力が殺されること。GKが奇跡的に反応すること。その1割を消すために、10割に近いフリーの味方を選んだ。
「俺は勝てる方を選んで、きっちり仕事をしたんだけどな」
「それは違うよ」
「!」
即座に否定され、蹴太は思わず朝陽を見た。まさか否定されるとは露ほども思っていなかった。
「神野。君は一つだけ勘違いをしている」
「何をだ? FWの仕事はチームを勝たせるためだろ?」
「確かに、それは正解だよ」
朝陽は静かに頷き、そして続けた。
「でもね。それはチーム全体が考えること。君の仕事はそれじゃない」
「じゃあ、なんだ?」
「ゴールを奪うこと」
真剣な眼差しがまっすぐに蹴太を射抜いた。
「FWの仕事は相手のゴールを奪う。それだけだよ。その付属としてアシストとか、チームの勝利がついてくるだけだ」
「それは・・・」
―――違う。
そう反論しようとして、蹴太は言葉に詰まった。出てこなかった。
かつて自分がFWとして立っていた頃、確かに信じていたはずの言葉がそこにあったからだ。ゴールを奪う。ただそれだけのために毎日ボールを蹴っていた。誰よりも点を取りたかった。その渇望こそがあの頃の自分を動かしていた。
だが今の自分はどうだ。
チームのため、みんなで勝つため。その言葉は確かに本心だ。嘘ではない。だがその裏側で、自分の力を振るうことにどこかブレーキをかけてはいなかったか。この理不尽な才能で相手を叩き潰すことに、後ろめたさを感じてはいなかったか。
「正直に言うと、今日の試合は内容的に俺たちの負けだ。ただ、記録としては引き分け。その理由は君だよ」
「・・・」
「君はどうやら、自分の圧倒的な力を信じきれていないように思える。それがもったいないと思ってね」
朝陽はまるで長年の友人に語りかけるような口調でそう言った。
「もし会えたら伝えようと思ってたんだ」
そう言うと朝陽はスポーツドリンクを一息に飲み干し、ボトルをゴミ箱へと放り込んでベンチから立ち上がった。そして笑顔で振り返った。
「神野、君は最高のFWだ。だから・・・自分を信じてくれ!」
そう告げて朝陽はその場を立ち去ろうとする。だが今度は蹴太の方がその背中を呼び止めた。
「鵜飼」
「ん?」
「お前、チートってどう思う?」
「いきなりなんだよ、ゲームの話か?」
「いいから答えろ
朝陽は虚を突かれた顔で腕を組み、首をひねった。
「うーん。俺は別にオンラインゲームをやってるわけじゃないからなぁ。なんとも言えんけど、良くないんじゃない?」
「じゃあゲームじゃなくて、サッカーならどうだ?」
「サッカーで? それはあれかい? ステロイド的なことかい?」
「いや、それは違法だろ? チート以上じゃねぇか。そうじゃなくて、もしサッカーに・・・そうだな、合法的に強くなることが出来る、能力アップのスキルとかあったらどうよ?」
我ながらひどく荒唐無稽な問いだ。だが、蹴太はどうしても訊いておきたかった。
自分だけに見えるステイタス。神から与えられた、数値という名の暴力。それに乗っかって勝つ自分は果たして本当に戦っていると言えるのか。ずっと胸の奥に刺さっていた棘があった。
「使うよ」
「!」
朝陽は一切迷わなかった。
「神野がなんでこんな質問をしたのか分からないけど、答えとしてなら【使う】一択だよ」
「・・・なんでだ?」
「そもそもサッカーって、残酷なまでに不平等なスポーツだろ?」
「・・・」
「生まれつき身体が大きい選手、俺みたいに脚の速い選手、月影みたいに足元が上手い選手。それらを持ってない凡人からすれば、俺たちだって全員【チート持ち】みたいなもんだろ?」
「それは・・・まぁ、そうだな」
「それが、もし神様から【スキル】を貰って強くなれる? いいじゃないか。勝ちたいなら使えるものは全部使う。勝負の世界でそれの何が悪いんだ?」
朝陽は一片の迷いもなくあっさりとそう言い切った。
「俺の答えはこれだよ」
決定力という才能だけをどうしても手に入れられなかった男。その男が言うからこそ、その言葉には否定しようのない重みがあった。
蹴太はしばらく黙ってスポーツドリンクのボトルを見つめ、それからようやく口を開いた。
「・・・分かった。変なことを聞いたな」
「いいよ」
朝陽は笑って手を振る。
「じゃあ次は・・・都大会で会おう!」
そう言い残して朝陽は歩き去っていった。
一人ベンチに残された蹴太はその背中が見えなくなるまで見送ってから、残ったスポーツドリンクを一気に喉へと流し込んだ。
(・・・使う、か)
才能を持つエリート選手が、使えるものは使えと迷いなく言い切った。
(不平等、か)
そうだ。前世の自分だって身体的な限界はあっても、他人から見れば環境など恵まれていた部分は確かにあったのかもしれない。誰もが何かを持ち、何かを持っていない。ならば、自分が今持っているこの力を後ろめたく思う必要が本当にあるのだろうか。
(・・・神から貰ったステイタス、か)
空になったボトルを握り潰し、蹴太はゴミ箱へと放り込む。
不思議と、悪い気分ではなかった。
ずっと胸の奥につかえていた重たい十字架が、ほんの少しだけ、確かに軽くなっているのを感じていた。




