18.VS明石SC―――3
「攻めるぞぉ!」
同点ゴールに沸いた熱気もそのままに、明石SCがセンターサークルでリスタートの準備を進めるその僅かな間隙。キャプテンである春樹の腹の底から張り上げた声が、青下・松野川合同チームの選手たちを強く鼓舞した。
「「「「おうっ!!」」」
追いついた勢いそのままに、ピッチに立つ青下・松野川のイレブン全員の目にギラギラとした闘志が漲っている。
あの格上相手に何もできず、ただサンドバッグのようにボールを追い回され、絶望的なまでに重く沈んでいた前半の空気がまるで嘘のようだった。都大会常連のエリート集団を相手に、戦術と意地で一歩も引かずに渡り合っている。その確かな手応えが、疲労の溜まり始めた選手たちの足を再び力強く突き動かしていた。
一方の明石SCも動揺を引きずることなく、リスタートへ向けて忙しなく声を掛け合っていた。都大会常連のプライドが彼らに下を向くことを許さない。
だがその陣形の中で、左サイドバックの鵜飼朝陽だけはただ一人、じっと無言で右ウィングの位置につく蹴太を見つめていた。
(後半は残り10分。アディショナルタイムはどれくらいだ?)
刻一刻と迫るタイムリミットを脳内で冷静に計算しながら、朝陽は先ほどの痛恨の失点シーンを思い返す。
(今のは、間違いなく俺の失態だ。あの9番に・・・神野という存在に執着しすぎた。あいつを止めることだけを考え、釣られてしまった。もっと中を警戒してカバーに入るべきだったんだ)
ぎり、と血が滲むほどに唇を噛みしめる。だが朝陽は深呼吸とともに頭を強く振り、その思考を強制的に切り替えた。
(反省は後だ。今は引きずってる暇はない。ただ勝ちきることだけを考えろ!)
主審のホイッスルが鳴り、明石SCのキックオフで試合が再開された。
リスタートするや否や、明石SCは怒涛の勢いで再び攻めに転じた。前半同様、洗練され、淀みのないパスワークで青下・松野川合同チームの守備網をじわじわと広げ、翻弄していく。同点に追いつかれたとはいえ、個人の技術や組織力といった地力の差は依然として大きい。
ここで再び突き放し、格の違いを見せつける。明石SCの選手たちの連動した動きには、強者の揺るぎない意地と焦燥が混じり合って滲んでいた。
それに対する青下・松野川も必死に食らいつく。最終ラインの健一を中心に、抜かれても抜かれても泥臭く身体を投げ出し、ゴールを死守し続ける。互いのプライドと体力を削り合うような、息の詰まる一進一退の時間が続いた。
そんな中、左サイドの高い位置に張っていた朝陽のもとへとボールが渡った。その目の前には、当然のように【右ウィング】の蹴太が立ちはだかる。
1対1。両チームのキーマン同士による、極限のデュエルの始まりだった。
(勝つためにはどうする? ここで勝負するか?)
一瞬、朝陽の中に眠る【元FW】としての血が、熱く「仕掛けろ」と囁いた。目の前に立つあの忌まわしい9番を、自分のこの足で完全に抜き去ってやりたい。前半に植え付けられた逃げの屈辱を、今こそ晴らしたい。
だが朝陽はその誘惑の衝動を、冷水を被るように冷静に噛み殺した。
ここで自分が仕掛けて万が一奪われれば、背後の広大なスペースを使われ、そのまま逆転の失点に直結する。今優先すべきは己のちっぽけなエゴではなく、チームを勝たせるためのリスク管理だ。
込み上げる熱を胸の奥へと無理やり押し込め、朝陽は突破を諦めて一度後方のボランチへと安全なパスを下げた。
(これでいい。これがチームのための正しい判断だ)
半ば自分自身に言い聞かせるように念じる。だがその胸の奥には、決して澄まし切れない真っ黒な澱のような何かが、確かに残っていた。
その後も明石SCは焦ることなく丁寧に、かつ鋭く攻め込み、青下・松野川のゴールへと迫った。
後半28分。ペナルティエリア手前でワンツーによる壁パスを駆使し、青下・松野川の守備網を完全に崩す。フリーになった明石SCのミッドフィルダーが、右足を豪快に振り抜き、鋭い弾丸シュートを放った。
「やらせるかぁっ!」
だがその絶望的な軌道に最後の最後で健一が猛然と身を投げ出した。
ドンッ!
以前の岩下戦を彷彿とさせるような、顔面すらいとわない決死のシュートブロック。強い衝撃に芝に転がり倒れ込みながらも、健一は執念でボールを枠外へと弾き返してみせた。
そのボールがゴールラインを割り、判定は明石SCのコーナーキック。
そしてその直後、第4の審判が頭上に掲げた電子ボードがアディショナルタイムを示した。
その真っ赤な表示は【5分】。
(5分。しかも相手のコーナーキックからか・・・ここが今日の最大の山場だ)
ペナルティエリア内でマークの確認をする春樹の背に、冷たい緊張が走る。ここで決められれば時間的に挽回は不可能。そこで万事休すだ。
だが防ぎさえすれば、逆に前がかりになった相手の裏を突く、こちらの大きなチャンスに変わる。事実、勝ち越しを強烈に狙う明石SCはGKすらあわよくばセットプレーの二次攻撃に絡もうと、自陣を空にしてセンターサークル近くまで高い位置を取って攻め上がってきていた。
がら空きになった、明石SCの広大な背後。
誰も、そこを突くカウンターの一撃を脳裏に思い描いていた。
(吉峰君もきっと同じことを考えてるはずだ。このコーナーさえ凌いで、一発のカウンターが決まれば俺たちの勝ち。なら、今俺がやるべきことは・・・)
ニアサイドのポジションについた蒼空斗の中で、今やるべき己のタスクが明確に定まった。
その時主審の笛が鳴り、明石SCの左インサイドハーフが鋭いコーナーキックを蹴り込んだ。
ボールは高い軌道を描き、両チームの選手が密集するゴール中央へと精確に運ばれるクロス。それに合わせ、明石SCのエースFWが長身を活かして高々とジャンプし、強烈なヘディングを試みた。
(一番確実な方法で来ると思ってたよ!)
蒼空斗はそのFWの動き出しを完全に読み切っていた。
ボールの落下点に入り、相手のジャンプに合わせて同時に跳ぶ。だが蒼空斗の狙いはまともに競り勝つことではない。相手の巨体に空中ですっとそっと肩を当て、ジャンプの最高到達点におけるバランスをほんの僅かに崩すこと。ただそれだけだ。
トラウマのある怪我明けの脚で高く跳ぶリスクを冒してまで放ったその狙いは、寸分の狂いもなく的中した。
空中で体勢を失った相手FWのヘディングはミートを欠き、威力のないボールとなってコースが大きくずれる。
その甘く浮いたボールをGKの中野が渾身の飛び出しを見せ、両手でペナルティエリアの外へ向かって大きくパンチングで弾き出した。
そしてそのペナルティエリア外へのこぼれ球の落下点に、真っ先に反応して駆け込んだのは春樹だった。
「蹴太っ!」
「あぁ!」
春樹と蒼空斗、二人の戦術眼が描いた絵が寸分違わず重なった瞬間だった。
蒼空斗が相手のエースのシュートを封じ、中野が弾き、そのこぼれ球を春樹が拾い、右サイドの高い位置に残っていた前線の蹴太へと一気にグラウンダーの縦パスを繋ぐ。
青下・松野川の完璧なカウンターの始動だった。
「「「「戻れぇ!!!」」」」
前線に残っていた脅威の9番、神野蹴太にボールが渡ったと悟った瞬間。明石SCの選手たちは血相を変え、一斉に自陣へと取って返す。
GKすら飛び出している、がら空きのゴールへ向け、パスを受けた蹴太が矢のように加速する。ステイタス【スピード:SSS】のトップギアに乗った蹴太のスピードには、疲労困憊の明石SCの選手たちではもはや到底追いつけない。
ただ一人、例外を除いては。
「行かせないっ!!!」
「くっ!」
朝陽だけはこのセットプレーの局面でも決して蹴太から目を離していなかったのだ。
だからこそ味方の誰よりも早く、パスが出るよりも先にこの展開を予測し、守備への帰陣に反応できた。
蹴太が春樹からのパスをトラップする、その刹那のわずかな減速。朝陽はそのコンマ数秒の隙を鋭く突き、蹴太の真横にぴたりと並び立った。
まるでこのワンプレーのためだけに、これまでの全ての集中と体力を注ぎ込んできたかのように。
(絶対に抜かせない! ここで潰す!)
朝陽の瞳に最大級の闘志が宿る。
相手のディフェンスが完全に追いついた。誰もが蹴太の足が止まると確信した。
しかし蹴太もまた、己の理不尽なステイタスとスキルを全て解き放った。
朝陽と並走しながら正対した蹴太は減速することなく、右足の裏でボールを自分の方へと鋭く引き寄せる。
そして空中に浮いたそのボールを、今度は左足のつま先へと当ててクッションにした。
前傾に体を沈めながら、足元でふわりと浮き上がったボール。蹴太はそれを左足のアウトサイドを使って、相手の頭上へと掬い上げるように弾き飛ばした。
ふわりっ。
ボールは綺麗な弧を描き、ブロックに入ろうと重心を低くした朝陽の頭上を、優雅に、そして残酷なまでに美しく越えていった。
中学生はおろか、並のプロ選手であっても反応すら許されない、規格外の個人技だった。
「なっ!?」
朝陽が信じられないものを見たように驚愕に固まった、その刹那。
蹴太は呆然と足を止めた朝陽の横をすり抜け、自ら浮かせたボールの落下点に入り、そのまま相手ゴールへと一直線に駆け出した。
だが蹴太がこの超絶技巧を用いて朝陽との攻防に貴重な数秒を費やす間に、明石SCの守備陣はすでにゴール前を固め直していた。
さすがは組織力で守り切る強豪クラブ。誰一人として、不用意に蹴太へ軽率なプレスをかけて飛び込んではこない。
(遠いがここからなら固有スキル【パワーシュート】でミドルレンジのシュートが撃てる!)
ペナルティエリアのやや外側。目の前に立ち塞がるセンターバックの、その股の下。ゴールキーパーからはブラインドになって死角になる絶好のコースが、蹴太の目にははっきりと見えていた。
スキルの理不尽な威力があれば、この距離からでも十分にネットを揺らせる。
よし、ここへ渾身の一撃を叩き込む――
そう蹴太が右足を大きく振りかぶった、その瞬間だった。
「神野君っ!!!!」
「!!!」
その切実な声に蹴太の視界がパッと広く開ける。
ペナルティエリアの中央。蹴太にディフェンスの意識が集中したことで、完全にフリーの状態で走り込んでくる味方のセンターフォワード、山本の姿があった。
(自分で撃つか。それとも出すか・・・)
ほんの一瞬、蹴太の思考が揺れる。
自分が撃てば、9割の確率で決まるという確信がある。だが、フリーの味方にパスを出せば確率は10割になる。
そして蹴太が選んだのは、己のエゴではなく、必死に走ってきた味方を信じることだった。
シュートモーションをキャンセルし、蹴太が繰り出したのは固有スキル【キラーパス】と【精密パサー】の複合。
守備の僅かな隙間を鋭く縫う、寸分の狂いもないグラウンダーのスルーパスが、山本の足元へと吸い込まれていく。
GKすら不意を突かれる、決定的なフリーの一枚。
これを決めれば勝ち越し。劇的な逆転勝利だ。
ベンチの控え選手も、スタンドの観客も、誰もが息を呑んでその歓喜の瞬間を待った。
だが・・・
「あっ!」
山本の足元に収まるはずだったトラップが、ポーンと大きく前へと弾んでしまう。
絶好機を前にした極限の緊張。確実に決めなければならないという重圧による力み。中学生の心と身体のバランスを狂わせるには十分すぎるほどのプレッシャーだった。
あまりに惜しい、たった一つのミス。
無情にも山本の足元に収まりきらなかったそのボールは、明石SCのGKの真正面へと、ころころと弱々しく転がっていった。
一瞬の、痛いほどの静寂。
歓喜の直前でグラウンドの時間が凍りついた。
「カウンター!!!! 走れぇっ!!」
ボールをがっちりとキャッチした明石SCのGKが、すかさず大声で前線の味方に指示を飛ばす。ボールを収めた明石SCは間髪入れず、猛然とビルドアップを開始した。
(まずいっ!)
【パスを出せば絶対に決まる】と思い込んでいた蹴太は、まさか山本が外すとは思っておらず、一瞬完全に動きを止めてしまっていた。
それは蹴太だけでなく、蒼空斗を含めた勝ち越しを信じて前がかりに攻め込んでいたメンバー全員が同じだった。あまりに突然の天国から地獄への暗転。誰の足もほんの一瞬だけ地に縫い留められてしまったのだ。
「ご、ごめっ!」
決定機を逃した山本の顔からさぁっと血の気が引く。だが己のミスを悔いている時間すら、彼らには残されてはいなかった。
しかし・・・
(全く・・・嫌な予感だけはいつも当たりやがる!)
たった一人、キャプテンの春樹だけはすぐに動いていた。
【万が一】の最悪の事態に備え、一人だけ低い位置に残り、リスク管理をしていたのだ。
春樹はカウンターのロングボールを受けた明石SCのFWの前に、素早く立ち塞がった。
(少しでも止められれば! 時間を稼げれば、みんなが必ず戻ってこられる!)
春樹の狙いはボールを奪うことではなく時間稼ぎだった。たとえここで自分が抜かれたとしても、一秒でも相手の足を食い止められれば、必ず蹴太や蒼空斗、健一たちが全力で帰陣してカバーに入ってくれる。その仲間への揺るぎない確信があった。
だがそれは相手が春樹の意図に乗って、個人で勝負をしてくれればの話だった。
(パス・・・だと!?)
明石SCのFWは微塵も迷わなかった。
春樹に完全に距離を詰められる、そのほんの寸前。自分が囮になり、ワンタッチでボールを外のスペースへとはたく。
その先にいたのは、誰よりも大きく、そして誰よりも速いスピードで最終ラインからオーバーラップして駆け上がっていた左サイドバック、鵜飼朝陽だった。
(くそっ! 間に合わねぇ!)
同点弾を防いだ直後、蹴太も遥か後方からの朝陽の恐ろしい動き出しは捉えていた。だが、朝陽は蹴太がドリブルを仕掛けた直後から、カウンターを信じてすでに自陣のゴールめがけて全力で走り出していたのだ。
完全にトップスピードに乗ったその背中。スピードのステイタスにおいて互角である蹴太をもってしても、先に走り出されて生まれてしまったこの距離の差は、もうどうやっても埋めようがなかった。
(勝った!)
青下・松野川の自陣にはGKの中野ただ一人しか残っていない。健一たちDF陣も懸命に戻るが、朝陽の快足には到底及ばない。
かくして朝陽はペナルティエリアに侵入し、GKと1対1という絶対的な局面を迎えた。
(相手のGKはボールを持っている俺しか見ていない。逆サイドを猛スピードで走ってきている、完全フリーの味方の存在が見えていないな。ならここは無理に撃たず、冷静に横へパスを出して、確実に一点を・・・)
チームのために。勝ちきるために。
それがサイドバックにコンバートされた朝陽の、最も正しく、最も確実な選択のはずだった。
だがその冷静な思考に、重く熱いノイズが走った。
目の前は、GKとの完全な1対1。
ここをパスではなく、自分の足で抜き去ってゴールを決めれば、自らがチームを勝利に導いた決勝点になる。歓喜の中心に、自分が立てる。
その劇的な状況が、深く封じ込めていたはずの【元FW】としての点取り屋の本能を否応なく呼び覚ました。
自分の足でゴールを決めたい。
ずっと胸の奥で燻り続けていたその得点への渇望が、理性を真っ黒に塗り潰していく。
朝陽は横へのパスを選ばなかった。
一気に加速する。縦に抜き去ると踏んで飛び出してきた中野のその意表を完全に突き、横へと鋭くスライドしてキーパーを躱す。
少しゴールに角度はついたものの、空いた隙間へと向かって朝陽は勝利を確信しながら渾身のシュートを放った。
だが・・・
コンッ、と。
ピッチにひどく乾いた音が響いた。
エゴに呑まれ、力が入りすぎたシュート。
ボールは無情にもファーサイドのゴールポストを激しく叩き、大きく外へと弾き返された。
(くっ! 俺は、俺は最後の最後に何を!)
チームのためだと、あれほど己に言い聞かせていたのに。
最後の最後で、ストライカーとしてのエゴに呑まれ、チームの勝利を自らのエゴでふいにしてしまった。
その残酷な事実に朝陽は頭を抱え、愕然と立ち尽くす。
ポストに弾かれこぼれたボールは誰にも拾われることなく、力なくゴールラインを割った。
青下・松野川のゴールキック。
そしてまさにその瞬間。
試合終了を告げる長いホイッスルがピッチに虚しく鳴り響いた。
【明石SC 1―1 青下・松野川合同チーム】
死闘の果て。
両者一歩も譲らぬ、そして両者に深い悔恨を残す、痛み分けの引き分けだった。
絶望と後悔に打ちひしがれ、芝に崩れ落ちて両膝をつく朝陽。
その肩を震わせる姿を蹴太はピッチからただ静かに見つめていた。




