15.鵜飼朝陽
―――明石SCのクラブ施設にて。
そのミーティングルームには一本の試合映像が映し出されていた。青下・松野川中学合同チームと第四中学の一戦。プロジェクターのスクリーンに、鋭いカウンターから叩き込まれるゴールが流れていく。
「これが次に戦う相手の映像だ」
明石SCの監督がリモコンを片手に低い声で言った。整然と椅子に並んだ選手たちの視線が一斉にスクリーンへと注がれる。
「中学の部活だからといって侮るなよ。映像はないが、市区町村大会も圧倒的な攻撃力で勝ち上がっている。油断していると、足元を掬われるぞ」
「「「「「はい!!!」」」」」
きびきびとした返事が部屋に響いた。都大会常連のクラブチーム。その規律の取れた空気は蹴太たちのチームとはまた違う、洗練された強者のものだった。
専用のピッチに映像分析の設備。相手チームの試合を事前に研究し、対策を練る。それは部活動という枠を超えて、本気で勝ちを取りにいく者たちの環境だった。そして、たかが中学の部活が相手であろうと、明石SCは決して手を抜かない。それこそが彼らがこの2年間、東京大会という舞台に立ち続けてきた理由でもあった。
「よし。じゃあキャプテンの鵜飼だけ残って、後はコーチの指示に従って練習だ」
監督の一声で選手たちは弾かれたように立ち上がり、機敏な動作で練習へと向かっていく。広いミーティングルームには、監督と一人の少年だけが残された。
明石SCのキャプテン。鵜飼朝陽である。
「鵜飼。どう思う?」
監督が映像を巻き戻しながら尋ねた。朝陽はスクリーンを鋭く見据えたまま口を開く。
「はい。個人的な感想ですが・・・青下・松野川チームの9番はかなりの選手です。得点もほぼこの選手から生まれていますし」
「そうだ。だが、ワンマンチームのように見えてそうではない。全員が連動している」
「はい。相手のボランチの的確な指示、あとは・・・月影ですね」
朝陽は映像の中でボールを引き出す蒼空斗へと視線を移した。監督もまたその少年を見つめ、どこか感慨深い表情を浮かべる。
「中1の時に相手のスライディングで靭帯断裂と骨折・・・よくここまでレベルを戻したものだ」
相手チームの選手でありながら、監督はその不屈さに素直な感心を示していた。そしてそれは朝陽も同じだった。
「そうですね。俺だったら・・・絶対に心が折れています」
朝陽は飾らない本心を口にした。監督は小さく頷くと映像を巻き戻し、朝陽との認識のすり合わせに入った。
「全体的な指示は後で全員にする。とりあえず、お前とだけ認識を合わせておきたい」
「はい」
「鵜飼。お前があの9番、神野とマッチアップしたとして・・・勝てるか?」
「・・・」
朝陽は即答できなかった。
脳裏で映像の中の神野の動きが何度も再生される。
あの異常な緩急。こちらの重心を的確に外してくる嫌らしさ。仮に一対一で対峙したとして、60分間完璧に抑え切れる自信は正直なかった。
「勝てます」と口にするのは簡単だ。だがそれはただの嘘になる。そしてこの監督が最も嫌うのは、弱さよりも己を誤魔化す嘘だった。
「分かった。ならば、基本的な作戦は決まりだ」
監督はそう言うと、蹴太がゴールへと迫る瞬間の画面で映像を一時停止させた。
「1点は覚悟する。ただし、絶対にそれ以上は好きにさせない」
「! ・・・はい」
常に無失点勝利を前提として掲げる監督が、試合前から失点を前提とするなど異例中の異例だった。それほどまでに映像越しでもあの9番の決定力は理不尽なのだ。
「基本は9番にボールが渡る前にこちらで刈り取る。中盤で幾重にも網を張り、供給源を完全に断つ。それでもパスが通ってしまった時は・・鵜飼、お前が最後の砦だ。常にあの神野を視界に入れ、警戒を怠るな」
「分かりました」
腹の底に静かな火が灯る。確実に格上と思われる相手の選手。抑え切る自信はない。それでも託されたからにはやり遂げてみせる。朝陽はそう固く心に決めた。
監督との認識をすり合わせた朝陽は静かに立ち上がると、仲間たちの待つピッチへと向かっていった。
■■
一方その頃。
蹴太たち青下・松野川合同チームは、松野川中学の視聴覚室に集まっていた。スクリーンに流れているのは、春樹の親が撮影して送ってくれた川島SC対明石SCの試合動画である。
(鵜飼朝陽、か)
蹴太の目に、一人の選手が強く焼き付いた。
並の中学生とは到底思えない、爆発的なスプリント力。低い姿勢からトップスピードに乗るまでの無駄のない加速。そして何より、60分間を通してその全力疾走を繰り返しても、まるで衰えることのない底なしのスタミナ。
左サイドを一人で駆け上がり、駆け下りる。攻守に渡ってピッチの端から端までをカバーし続けるその運動量は明らかに常軌を逸していた。
まさしく才能という言葉が相応しい選手だと蹴太は静かに認識した。前世で自分の前に立ちはだかったあの怪物たちと同じ匂いがする。
「今見てもらったように、川島SCはベストメンバーではない」
居舘が映像を止めて口を開いた。
「おそらく、うちと第四中学の2戦に全力をぶつけてくるつもりだ」
「くそぉ! 舐めやがってぇ!」
健一が悔しげに吠える。だが蹴太は、冷静にそれを諭した。
「そう言うな、健一。リーグ戦は上位2チームが勝ち上がるんだ。強豪の明石相手に無理をせず、確実に2位抜けを狙う。限られた戦力で勝ち上がる確率を最大化する。むしろ賢いやり方だ。立派な作戦の一つだよ」
健一はなおも不満げに口を尖らせていたが、蹴太は川島SCの割り切った戦い方に一定の理解を示していた。
「・・・でもさ」
それまで黙って映像を見ていた蒼空斗がぽつりと呟いた。
「向こうがそのつもりなら、なおさら都合がいい。俺たちが明石に勝って一位で抜ければ、川島の思惑ごと全部ぶち壊せる。そうだろ?」
爽やかな笑みの奥で、その瞳はぎらついていた。2位抜けで満足する気などこの男には毛頭ない。蹴太は内心で小さく肩をすくめた。
「そして次に当たる明石SCだが・・・どの選手も、今まで戦ってきたチームとは正直レベルが違うと見ていい」
居舘はそう言うと、朝陽が写っている場面で映像を一時停止した。
「特に気をつけたほうがいいのは、明石SCのキャプテンである鵜飼朝陽。この選手は、【地域トレセン】にも選ばれたことがある有名な選手だ」
トレセン。トレーニングセンター制度。
それは各年代のレベルの高い選手同士を集め、互いに刺激を与え合わせることで、さらなる成長を促すための選抜育成の仕組み。
そのステージはいくつもの段階に分かれている。
まず、各地区で選び抜かれた者だけが【地区トレセン】へと招かれる。そこからさらに絞られた精鋭が【都道府県トレセン】へ。その上に立つのが複数の都府県をまたいで選抜される【地域トレセン】。そして頂点に君臨するのが、日本全国からたった一握りだけが招集される【ナショナルトレセン】である。
つまり地域トレセンとは、全国の頂点であるナショナルトレセンのすぐ一つ下。数えきれない同年代の選手の中から、ほんの僅かに選び抜かれた才能だけが立つことを許される場所なのだ。
『地域トレセンに選ばれたことがある』。ただそれだけで、相手選手の格を示す十分すぎるほどの脅威の象徴だった。
(トレセン、ね)
前世でサッカーに全てを捧げていた蹴太にとって、その言葉の重みは痛いほどに分かっていた。それは選ばれし才能だけに許された憧れのステージ。前世の蹴太がどれだけ焦がれても、ついぞ届かなかった場所の一つでもあった。
「持ち前のスプリント力で高い位置まで駆け上がって、攻撃の起点になることも多い選手だ。左サイドバックだからと言って油断するなよ」
「トレセンって・・・そんなにすごい選手が俺たちと同じ中学生なのかよ」
健一がごくりと喉を鳴らした。しかしその隣でキャプテンの春樹は静かに、しかし力強く言い放った。
「だからこそ、だ。全国を目指すならいつか必ず超えなきゃいけない相手だろ。それがたまたま次だってだけだ」
その落ち着いた一言が、萎みかけていたチームの空気を再び引き締めた。
居舘の説明が終わるとメンバーたちは表情を引き締め、グラウンドへと戻っていった。そこからの練習はいつにも増して熱がこもっていた。
そしてその日の夜。蹴太の家の食卓には、三人分の夕飯が湯気を立てていた。
「蹴太! 明後日は試合だろ? どうなんだ? 勝てるか?」
そう身を乗り出してきたのは、蹴太の父の神野博である。
「さぁ? 勝負は時の運とも言うしね。こればっかりは当日になってみないと分からん」
「なんだよ。相変わらずだなぁ。サッカー選手ならもっとこう、俺がチームを優勝させてやるぜ! って気概を見せろよ!」
博はぐいっと身を乗り出して力こぶを作ってみせる。息子が急にサッカーへ本気で打ち込み始めたことが、父親には嬉しくて仕方がなかった。
「うちは俺のワンマンチームじゃない。みんなで勝つんだよ」
「ふふっ! そうね、それが一番いいわね」
母の夏美が可笑しそうに笑った。
「あなた、蹴太にプレッシャーかけすぎ。蹴太、無理だけはしないでね」
「はいはい」
蹴太は素っ気なく返しながら味噌汁をすする。
そして夕飯を食べ終えた蹴太は自室に戻ると、合同サッカー部のグループメッセージに送られてきた明石SCの動画をもう一度再生した。画面の中ではあの鵜飼朝陽が、鋭い切り返しで相手を抜き去っている。
(やっぱりこの動き。もともとFWのウィングだったのか? ドリブルの技術がとてもDFのものとは思えない個人技だな)
サイドバックでありながら、まるでアタッカーのように滑らかなボールタッチ。守備の選手が身につけた技術の域を明らかに超えている。
その卓越したプレーを見つめているうちに、蹴太は自分の胸の奥がじわりと熱を帯びていくのを感じた。
(ちっ! また熱くなっちまうじゃねぇか!)
思わず舌打ちがこぼれる。だが、その口元は微かに笑っていた。
そして、蹴太が朝陽の映像を見つめていたまさにその頃。朝陽もまた自室のタブレットで蹴太のプレー映像を食い入るように見つめていた。
(・・・こいつすごいな)
FWとしての完成度の高さ。トラップ、ドリブル、シュート、そのどれもがとても中学生の領域とは思えない。朝陽は驚きを隠せなかった。
(こんなやつが中学の部活に・・・しかも今まで無名だったなんて。信じられないな)
朝陽は映像を見ていたタブレットの画面をそっと消した。暗くなった画面には自分の顔がぼんやりと映り込んでいる。。
(もし俺にも、こいつみたいな【理不尽な才能】があれば・・・)
かつての朝陽は前線でゴールを狙う生粋のウィングだった。誰よりも速く、誰よりも走れる。その圧倒的な武器を活かして、何度もサイドを切り裂いてきた。
だがどれだけ美しく相手を抜いても、最後の一点を残酷なまでに決め切る、あの神野のような【決定力という才能】だけはどうしても手に入らなかった。
だからこそ監督は朝陽をサイドバックへとコンバートしたのだ。その無尽蔵の運動量を、チームの盾として攻守両面で活かすために。
それが最善の判断だったと今なら分かる。分かっている。それでもゴールへと迫るあの背中を見ていると、胸の奥がざわつくのを朝陽は止められなかった。
(・・・いや、やめよう。今の俺はサイドバックだ。なら、こいつを止めることだけ考えよう)
朝陽は静かにそう心に決めると、明かりを消して目を閉じた。
こうしてそれぞれの想いを胸に両者は決戦の前夜を過ごしていく。
そしていよいよ、青下・松野川合同チーム対明石SCの戦いが幕を開ける。




