11.才能と努力の共存
「岩下中学か・・・」
「なんだよ、健一。なんかあんのか?」
蹴太は、健一が自分の机に広げたトーナメント表を食い入るように見つめ、ギュッと拳を握りしめたのを確認した。
岩下中学は、青下中学と同じ地域にあるライバル校だった。ライバルと言えば聞こえはいいが、実際のところ、ここ数年の公式戦や練習試合において、青下中学は岩下中学に一度も勝てていなかった。万年一回戦負けの青下にとって、常に立ち塞がる理不尽な高い壁のような存在である。
「去年も秋の新人戦でボコボコにされたんだよな。あの時はマジで悔しかった。でも!」
健一は顔を上げ、自信に満ちた声で力強く宣言した。
「今の俺達なら、絶対に勝てる!」
健一の顔には、過酷な冬の練習を乗り越えてきた自負と、確かな希望が満ちていた。
「・・・」
しかし、その頼もしいかつてのキャプテンの宣言を聞いた瞬間、蹴太の表情がわずかに曇った。
ほんの一瞬、目を伏せて重い息を吐き出したその些細な変化。他の誰も気にも留めなかったその憂鬱そうな蹴太の表情を、隣に座っていた蒼空斗だけは、鋭い視線で見逃さなかった。
そしてその日の放課後。
青下・松野川合同チームは、いつものように松野川中学のグラウンドで練習を行っていた。
大会前ということもあり、グラウンドには選手たちの活気ある声が響き渡っている。特に青下中学のメンバーたちは、因縁の岩下中学との対戦が決まったことで、異様なほどに盛り上がっていた。
「初戦が岩下か! 今まで散々コケにされてきたからな、今回こそ倍返しにしてやろうぜ!」
「あぁ! 今の俺たちには蹴太がいるんだからな!」
「間違いない! 蹴太がいれば岩下なんて余裕だろ!」
「あいつらに今までボコられた分、蹴太にハットトリック決めてもらって、あいつらの絶望する顔を見てやろうぜ!」
給水タイムの短い合間にも、青下中学のメンバーたちは次々に口を揃えてそう言った。
それは彼らからすれば純粋な信頼であり、勝利への期待の表れだった。
しかしその無邪気な言葉の数々を聞くたびに、蹴太の表情はどんどん暗く、冷たく沈んでいった。
(蹴太がいれば勝てる、か。まるで、神様が用意した【必勝の道具】扱いだな)
蹴太は首にかけたタオルを深く被り、誰とも目を合わせないようにグラウンドの土を見つめた。
(みんなが俺を頼るのは分かる。俺のこの異常な才能があれば、中学生レベルの試合なら一人で戦況をどうにでもできる。だけど)
頭の中で、先日行われた練習試合の光景がフラッシュバックする。
蹴太の圧倒的なスピードとフィジカルの前に、何人がかりで挑んでも止められず、最後には心が折れてグラウンドにへたり込んだ相手選手たちの、あの虚ろで絶望に満ちた目。
『どんなに努力しても、結局は才能あるやつには勝てない』
あの選手たちの顔は、前世で【理不尽な才能】を前に完全に絶望し、サッカーを諦めたかつての自分の顔そのものだった。
(俺は前世で、自分の努力を理不尽に踏みにじった『化け物』と、全く同じになっちまってるんだ)
蹴太は無意識のうちに、持っていたスポーツボトルの容器をギリッと強く握りしめた。
その時、グラウンドの反対側でボールを拾っていた春樹と蒼空斗、そして全体を見渡していた居舘が、蹴太の放つ異質で重苦しい空気に気づいていた。
■■
「よし! 今日の練習はここまで! 大会が近いからしっかりケアして帰るように!」
「「「「「ざしたーっ!!!」」」」」
居舘の終了の号令に合わせて、メンバーたちは一斉にグラウンドに礼をし、着替えのために部室や駐輪場へと散っていった。
蹴太も無言のままカバンを肩にかけ、自転車へと向かおうとした。
「神野君。ちょっといいかい?」
背後から、居舘の穏やかな声がかけられた。
「はい? なんですか?」
「少し付き合ってくれないか」
蹴太は居舘に呼ばれ、他の生徒たちが帰っていくのを見送りながら、グラウンドの隅にある土手の方へと向かった。 夕日が赤く染まり始めた空の下、居舘はゆっくりと口を開いた。
「なにか悩みでもあるのかい?」
「・・・ないです」
蹴太は即座に目を逸らし、短く答えた。しかし、居舘はそんな蹴太の嘘をあっさりと見透かし、フッと優しく微笑んだ。
「嘘つかなくてもいいよ。ほら、こっちに座るか」
促されるまま、居舘と蹴太はグラウンドを見下ろす土手に並んで座った。春の夕暮れの風が、練習で火照った身体を心地よく撫でていく。
「俺はこれでも教師なんでね。たとえ他校の生徒でも、毎日見ていれば悩んでいることぐらいは分かるし、今ここで無理に言えとは言わないよ。ただ、いつでも相談には乗ってやる。それだけは覚えておいてくれ」
居舘は、蹴太の横顔を見つめながら柔らかい笑顔で伝えた。
そのあまりにも真っ直ぐで嘘のない大人の対応に、蹴太は小さくため息をつき、ずっと胸の奥につかえていた黒い感情を吐き出す決意をした。
「居舘先生は、この世は【才能】が全てだと思いますか?」
「えっ?」
唐突な問いに、居舘は目を丸くした。
「結局、この世は全て【才能】のあるやつが優位になる。勉強でも、サッカーでもね」
「・・・」
居舘は反論せず、ただ静かに蹴太の言葉の続きを待った。
「去年の秋から、俺はあんたの元でサッカーの練習をして、本格的にサッカー選手になった。んで、そこから練習試合もした」
「そうだな」
「頭から離れないんですよ。俺に負けた奴らの顔が。俺のプレーを見て、完全に絶望に落とされた選手たちの顔が!」
蹴太の言葉は、普段の淡々とした彼からは想像もつかないほど、悲痛な熱を帯びていた。
「どんなに努力しても、結局は才能あるやつには絶対に届かない。俺は、その『届かない側』の惨めな立場を、痛いほど分かっているはずなのに! 今の俺は、自分に与えられたこの理不尽な才能で、純粋に頑張っている奴らの努力を上から無慈悲に踏み潰している!」
蹴太は前世で、血を吐くような努力をした。
どんなに届かないと言われていた分厚い壁を、己の努力だけで破壊しようとした。しかし、結果は無惨だった。圧倒的な才能の前では、自分の積み上げた努力など紙屑同然だったのだ。
だからこそ、あんな絶望を二度と味わいたくなくて、そして誰にも味わわせたくなくて、今世では絶対にサッカーなんてしないと決めていたはずだった。
なのに、今や立場は完全に逆転してしまった。自分が【理不尽な才能】そのものになり、純粋にサッカーへ打ち込む中学生たちの努力を粉砕している。その現実に、蹴太の心は耐えられなくなっていた。
「俺は・・・また間違ったんだ」
膝を抱え、自嘲するように笑う蹴太。
しかし、その言葉を居舘は静かに、けれど力強く否定した。
「それは違うよ」
「!」
「神野君。君の過去に何があったかは聞かない。だけど、君は間違っていないと、俺は強く言うよ」
蹴太が顔を上げると、居舘は夕日を見つめながら、ぽつりぽつりと自身の過去を語り始めた。
「ちょっと昔になるけどね、俺も本気でサッカーをやってたんだよ。しかも、プロ目指してね」
「そう、なんですね」
「あぁ! それこそ神野君の言うように、めちゃくちゃ努力したさ。でも、結局プロにはなれなかった」
居舘は蹴太の目を見て、真剣な表情で語りかけた。
「俺はチームで常に二番手の選手でね。いつも大事な試合のスタメンには、別の奴が選ばれていた。だけど、そいつをどうしても超えたくて、必死に努力をしたんだ。朝練したり、夜練したり、居残りしてビデオを見たりね。とりあえず思いつく限りのことは全部やったさ」
「でも、届かなかったんでしょ?」
「そうだな。届かなかった。それこそ、そいつの圧倒的な【才能】に負けたよ」
蹴太は小さく鼻で笑った。
「だったら、結局努力は才能に敵わなかったんでしょ? 俺の言った通りじゃないですか」
蹴太はそう言い捨て、これ以上話しても時間の無駄だと思い、立ち上がろうとした。しかし、居舘の続く言葉が、蹴太の足をピタリと止めた。
「でも、神野君。君はなんで、努力と才能を『上下の関係』で見てるんだ?」
「えっ?」
「努力と才能は、勝つか負けるかの上下の関係じゃない。共存しているんだよ」
「どういうことですか?」
蹴太が怪訝な顔をして聞き返すと、居舘は優しく微笑んだ。
「神野君。仮にこの世が、最初から才能だけで全てが決まる世界なら、【才能】という言葉自体が生まれないよ」
「そりゃまぁ」
「才能という言葉が生まれるのは、それを持たない者が、それを持つ者を超えようと【努力】するからだ。努力という比較対象があるからこそ、才能は光るんだ」
「・・・」
「いいかい? 例えば、俺に天才的な料理の才能があったとしよう。でも、俺は今現在、残念ながら料理なんて全くできない。仮に料理をするにしても、最初のスタートラインはみんなと同じ、【包丁を正しく持つこと】からだ」
「そうですね」
「でも、この包丁を握り直している段階で、他人が俺を見て『あいつには料理の才能がある』なんて思うかい? 思わないだろ?」
「・・・はい」
「才能は、努力することから始まるんだよ。正しく包丁を持つ努力、ボールを真っ直ぐ蹴る努力。それを重ねた先に初めて、才能という花が開くんだ」
居舘は、蹴太の肩にポンと温かい手を置いた。
「だから、君は間違っていないよ。君の存在は、決して他人の努力を否定してなんかいない。むしろ、今君が『自分は他人の努力を否定している』と思っていること自体が、間違いに進んでいるのかな?」
「でも! 俺は相手に絶望を!」
「本当にそうかな?」 居舘がそう言って、蹴太の後ろへ視線を向けた。
蹴太がハッとして振り返ると、そこには土手の影に隠れるようにして立っていた健一、蒼空斗、明里、そして春樹の姿があった。
「お、お前ら、なんで」
「お前が練習中からずっと、なんか変に悩んでる感じだったから、心配したじゃねぇか!」
健一が土手を駆け上がりながら、ぶっきらぼうに言った。
「お、おう・・・」
「お前みたいに何でもできるすげぇ奴でも、そんなくだらないことで悩むんだな」
健一の呆れたような言葉に、蹴太は言葉を詰まらせた。
続いて、蒼空斗が静かに歩み寄ってきた。その目には、いつものイケメンスマイルの裏にある、ギラギラとした野心が宿っていた。
「そうだよ、蹴太。勝手に自分に絶望しないでくれ。お前という圧倒的な才能が身近にいたからこそ、俺はもう一度、世界を目指すためにここまでやれてるんだよ」
「そうだぞ」
春樹もまた、キャプテンとしての力強い眼差しで蹴太を見据えた。
「少なくとも俺らは、お前の才能を見て絶望なんてしていない。必死に食らいついて、お前に追いつこうとしているよ。お前のその才能が、俺たちの基準を引き上げてくれてるんだ」
「お前ら・・・」
最後に、明里がふわりと微笑みながら口を開いた。
「そうですよ。神野君が自分の才能をどう思っているかなんて知らないですけど、少なくとも今のチームには、すごくいい雰囲気と熱気を与えています。それは間違いですか?」
仲間たちの言葉が、蹴太の心に固く巻き付いていた鎖を、一つずつ解きほぐしていく。
「いや、違うな」
「そうだよ、神野君」
居舘が立ち上がり、蹴太の背中を押すように言った。
「確かに君の才能は凄まじい。それに相対して、絶望する人も中にはいると思う。だけど、君がもたらす影響の全部が間違っているわけじゃない。現に、ここにいる彼らは君のおかげで前を向いている」
蹴太は仲間たちの顔をぐるりと見渡し、フッと小さく笑ってうつむいた。
(・・・ちっ! 精神年齢がずっと下の、中学生の子どもに教わっちまったな)
皮肉めいた心の声とは裏腹に、蹴太の胸の奥には、前世でも感じたことのなかった温かいものが広がっていた。
「よし、決めたよ!」
居舘が突然、パンッと手を叩いて清々しい顔で宣言した。
「今度の岩下中学戦。神野君と月影君は抜きで戦う」
「「「「えっ!?」」」」
蹴太、健一、蒼空斗、春樹が同時に驚きの声を上げた。
「俺は、今の君たちなら二人抜きでも岩下に勝てると思っているよ。だから神野君。ベンチからしっかり見ててくれ。君という存在が、チームにどれだけプラスの力を与えているかってことを!」
■■
そして、そのまま解散した翌日の練習。
練習前のミーティングで、居舘監督から正式に「次戦は神野と月影をスタメンから外す」という衝撃の発表が行われた。
「えっ!? 蹴太抜きで戦うんですか!?」
「そんな・・・岩下中学相手に、二人とも出ないなんて・・・」
チームメンバーの間に、一気に動揺が走る。彼らにとって蹴太は絶対的な勝利のカードであり、蒼空斗はチームの司令塔だったからだ。
しかし、その不安な空気を切り裂くように、健一が前に歩み出た。
「おい! お前ら!」
健一の野太い声に、全員の視線が集まる。
「俺達は、蹴太一人のワンマンチームか!? アイツらがお膳立てしてくれないと、何もできない弱虫の集まりかよ!」
キャプテンの春樹が黙って見守る中、健一は自分の胸を強くドンドンと叩き、動揺するメンバー全員を力強く見回した。
「違うだろ! 俺達は全員で一つの『チーム』だ! 蹴太たちが点を取りまくってた裏で、俺達だって血反吐を吐く思いで冬の練習を乗り越えてきたじゃないか! 今こそ見せてやろうぜ。蹴太の才能にすがるだけのチームじゃないってことを。俺達の意地で、岩下中学をぶっ潰してやろうぜ!!」
健一の気迫に満ちた熱い掛け声に、数秒の静寂の後、グラウンドが震えるような大歓声が上がった。
「おおおおおっ!! やってやろうぜ!」
「そうだ! 蹴太と月影がいなくても、俺達は強いってとこを見せてやる!」
メンバーたちの顔から不安が消え、闘志の炎がメラメラと燃え上がっていた。
グラウンドの端で、ビブスを片付けながらその光景を眺めていた蹴太は、目を細めて心地よく微笑んだ。
(久々だな。サッカーをしていて、楽しいって思えるのは)
理不尽な才能に振り回される恐怖も、他人を絶望させる自己嫌悪も、今は不思議と消え去っていた。ただ純粋に、このチームがどう戦うのか見てみたいという、ワクワクするような期待感だけがそこにあった。
そこから試合当日まで、チームは蹴太と蒼空斗を抜きにした新しいフォーメーションの練習に文字通り死に物狂いで取り組んだ。
そしていよいよ、因縁の岩下中学との試合のホイッスルが、鳴り響こうとしていた。




