第6話②「あれから10年」
翌日――。
仮想層〈レイヤー・ゼロ〉、修行エリア。
どこまでも続く白い地平。
空もなければ、影もない。
遠近感さえ曖昧な空間に、演算によって構築された世界だけが広がっている。
その中央に、二つの人影があった。
道着姿のユカとカイ。
少し離れた場所では、ホログラム体のピコがふわりと浮かび、いくつものデータログを展開している。
カイが軽く肩を回した。
「――よし。始めるか」
「押忍!」
ユカの声が白い世界いっぱいに響き渡った。
「はいはい。その気になってますね。昨日まで落ち込んでいたとは思えないテンション補正です」
「いいじゃん! 修行なんだから!」
すっかりやる気満々である。
カイは苦笑すると、表情を引き締めた。
「ピコの分析によると、ゲーツとノワは、自分たちの能力を正確に理解している。それも、ただ使えるってレベルじゃない。その“構造”まで把握してるって話だったな」
ピコがデータを展開する。
白い地面の上に、幾何学模様が浮かび上がった。
波形。
位相。
出力。
発動領域。
複雑な数値が立体的に組み合わされていく。
「はい。特にゲーツは顕著でした。必要な瞬間に、必要な部分へ、必要な量だけ能力を作用させています」
ユカもうなずく。
「うん。戦ってるとき、ほとんど普通の格闘に見えた。でも実際には、攻撃が触れる瞬間だけ能力を使ってた」
「完全に制御できている証拠です」
カイは腕を組んだ。
「それに比べて、俺たちはまだ“感覚”で振るっている段階だ」
自分の掌を見る。
「力が出た。だから使ってみた。それで何となく使えてる。それじゃ、ゲーツには届かない」
ユカの表情から笑みが消える。
「まずは、自分の力を把握する。何ができて、何ができないのか。どういう条件で発動して、どこまで制御できるのか」
カイはユカを見る。
「その上で――能力を一段上の“層”へ進化させる」
「うん。わかった!」
ユカは力強くうなずき、一歩前へ出た。
「それと私……《レゾナーレ・ルーキス》で、一度に複数の波を“同時制御”できるようになりたい」
脳裏に、あの日の光景が蘇る。
巨大なデータオーガー。
そして――。
それを一撃で消し去ったゲーツ。
迷いはなかった。
力を溜める時間さえ、ほとんどなかった。
(ゲーツは、迷いも溜めもなかった)
ユカは自分の両手を見る。
(私は……発現に時間がかかりすぎる)
今のままでは届かない。
だから。
もっと速く。
もっと強く。
もっと正確に。
ユカが顔を上げる。
その瞳には、昨日までとは違う光が宿っていた。
カイは、その横顔を見つめた。
(……本気だな)
そう思った瞬間。
別のユカの姿が、記憶の底から浮かんできた。
今よりずっと小さな身体。
不安そうな瞳。
小さなバッグを両手で抱えていた少女。
(あれから、もう10年か……)
***
シン統治システムとの戦いが終わったあと。
孤児となったユカが、初めてカイの家へやって来た日。
夕暮れのリビング。
玄関に、小さなユカが立っていた。
バッグを胸に抱きしめ、部屋の中を見回している。
「そんなに緊張しなくていい」
カイがしゃがみ、目線を合わせる。
「……うん」
小さく答える。
けれど、動かない。
靴を脱ぐことすら、誰かの許可を待っているようだった。
カイは少し考えてから笑った。
「今日からここがお前の家だ」
ユカが顔を上げる。
「……家?」
「ああ。だから遠慮なんてするな」
その言葉を聞いて、ようやくユカは靴を脱いだ。
それでも部屋の隅にちょこんと座り、バッグを膝に抱えている。
安心したい。
でも、安心していいのか分からない。
そんな瞳だった。
***
ところが――。
そんな遠慮は、意外と早く消えた。
原因はカイである。
ある朝。
キッチンから、盛大に焦げ臭い煙が漂ってきた。
「……なんか焦げてる」
ユカが覗き込む。
フライパンの中には、炭のようになった卵焼き。
カイは真剣な顔で首をひねっていた。
「……おかしいな」
おかしいのは、それだけではなかった。
洗濯物は色移り。
書類は床一面。
冷蔵庫には賞味期限切れの食品。
部屋を一周したユカが、額を押さえた。
「ねえ」
「ん?」
「今まで……どうやって生きてきたの?」
カイは真剣に考えた。
「気合と根性。あとは、なんとかなるって思いかな?」
「ダメだ、この人」
翌日から、ユカはエプロンを着けた。
掃除。
洗濯。
料理。
買い物。
やがて、机に積み上がった仕事の資料まで発見する。
「これも終わってないの?」
「あー、それはあとでやる」
「私も手伝う」
「いや、お前はまだ子どもだろ」
「でも困ってるでしょ?」
カイは言葉に詰まり、やがて笑った。
「……じゃあ、少しだけな」
いつの間にか。
守られるはずだった少女が、カイの生活を支えるようになっていた。
***
ある冬の夜。
カイが高熱を出した。
「もう寝ろ……」
「イヤ」
額の濡れタオルを交換する。
水を用意する。
薬を確認する。
おかゆを作る。
夜が明けるまで、ユカは何度も体温計を確認した。
翌朝。
ようやく熱が下がり、カイが身体を起こす。
「悪かったな」
「よかったぁ」
ユカが笑った。
その直後だった。
身体が、ふらりと傾く。
「ユカ!」
慌てて抱き止める。
額に触れた瞬間、カイの顔色が変わった。
熱い。
今度はユカが寝込んだ。
数時間後。
目を覚ましたユカが、弱々しく笑った。
「……ごめんね」
「何がだ」
「心配……かけちゃった」
カイは困ったように笑った。
「それは俺の台詞だ」
ユカも、少し照れくさそうに笑った。
***
そして――。
データ修復士試験の合格発表の日。
端末に表示された文字は、たった二文字。
《合格》
ユカは固まった。
画面を見る。
もう一度見る。
さらに、もう一度。
「……え?」
指で画面を拡大する。
間違いない。
「正式合格です。
ユカは本日より、データ修復士です!」
ピコがぴょんぴょん跳ねる。
「……受かった」
次の瞬間。
「受かったぁぁぁーー!!」
家中に声が響いた。
勢いよく振り返り、そのままカイへ飛びつく。
「カイ! 受かった! ほんとに受かった!」
笑っている。
でも、目には涙がいっぱいだった。
カイは驚きながらも、その頭をぽんと撫でた。
「おめでとう」
「これで……やっと少しだけ、カイの役に立てる」
カイは首を横に振った。
「何言ってる」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「お前はとっくに、一人前だ」
ユカの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「……うん」
***
どの光景も、昨日のことのように思い出せる。
カイは目の前のユカを見る。
十年前。
玄関でバッグを抱え、家へ入ることすらためらっていた少女。
その少女が今、自分の隣で戦おうとしている。
「どうしたの?」
ユカが顔を覗き込んできた。
カイは視線を外し、軽く咳払いする。
「いや、なんでもない……始めるか」
「うん!」
迷いのない返事だった。
(ずっと子どもでいてほしいと思ってた)
守るだけの存在でいてほしい。
危険から遠ざけておけばいい。
きっと心のどこかで、そう思っていた。
けれど――。
(もう違う)
ユカは、自分の足で立っている。
自分で考え、自分で選び、自分で前へ進もうとしている。
誇らしかった。
そして、ほんの少しだけ寂しかった。
それもきっと、親というものなのだろう。
(これからは、並んで立つ。そして、見守る)
カイは構えを取った。
「まずは基礎制御。波の分解と同時発振の練習だ」
ユカの手に、光のタクトが顕現する。
「よーし……!」
ピコがデータウィンドウを一斉に展開した。
「ログ記録開始。転倒、暴発、過負荷を検出した場合は即時停止します」
「容赦はしないぞ」
「望むところ!」
父と娘。
いや――。
これからは、同じ場所に立つ二人として。
白い世界に、最初の振動が走った。
あれから10年。
新しい修行が、始まった。
※作者の活動報告に各話の設定や裏話などのコメントを書いています。
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