第5話②「記憶の粒子」
灰色の空から、冷たい雨が降り続いていた。
墓地に人の姿はない。
並んだ墓碑も、濡れた石畳も、遠くに霞む木々も、すべてが色を失ったように沈んでいる。
その中を――
淡い光の粒子が流れていた。
青とも白ともつかない、ごく微かな光。
雨粒の間を漂い、ときおり緩やかな流れを描いては、空気の中へ溶けていく。
黒い傘を差して歩いていたカイが、足を止めた。
光の粒子を目で追う。
(……データ光じゃない)
仮想層から漏れ出す光なら、これまで何度も見てきた。
だが、これは違う。
規則性がない。
情報通信の流れとも、システムの残留データとも異なる。
まるで空気そのものに溶け込んでいた何かが、雨に触れたことで、かすかに姿を現しているようだった。
ひとつの粒子が、カイの頬の近くを通り過ぎる。
その瞬間――
胸の奥が、微かに疼いた。
「……なんだ?」
光は答えない。
ただ雨の中を、ゆっくりと流れていく。
カイは再び歩き始めた。
コートの襟を立て、黒い傘の下を進む。
黒い手袋をはめた右手には、白い花束。
やがて、一つの墓碑の前で足を止める。
そこに刻まれた名前を見つめ、カイは腰を落とした。
白い花を、そっと墓前へ置く。
「……ミナ」
低く、かすれた声。
その名だけが、雨の中へ溶けていく。
ふいに、脳裏に光が差した。
陽射しの中で笑う四人。
若き日のカイ。
ゲーツ。
ハル。
そして――ミナ。
風に揺れる長い髪。
振り返ったミナが、柔らかく笑う。
何でもない日だった。
だからこそ、失ってから気づいた。
あれはきっと、幸せと呼ばれる時間だったのだ。
記憶の中の笑顔が滲み、ゆっくりと闇へ溶けていく。
そのときだった。
どくん……!
「くっ……!」
カイは胸元を押さえた。
世界が傾く。
立ちくらみに似た感覚が襲い、呼吸が浅くなる。
次の瞬間――
過去が、濁流のように押し寄せた。
***
データ管理省、分析室。
無数の画面が光っている。
その中央に、ミナがいた。
複数のウィンドウを同時に開き、視線を高速で走らせながら、両手で別々の端末を操作している。
背後から眺めていたハルが、呆れたように息を吐いた。
「……あれ、人間技だと思うかい?」
カイは答えなかった。
見入っていた。
その横で、ゲーツがぼそりと言う。
「……お前もか」
「は?」
まるで心の中を見透かされたようで、カイは眉をひそめる。
ゲーツはそれ以上、何も言わなかった。
別の記憶。
「ねえ、カイ。見てほしいものがあるの」
振り返ったミナの目が、子どものように輝いていた。
いつもより少し早口だ。
何かを発見したときの顔。
「今か?」
「今」
「俺、まだ仕事が――」
「もう、いいから、来て!」
「お、おい!」
腕をつかまれる。
鼻先を、彼女の甘い香りがかすめた。
遠ざかっていく二人を眺めながら、ハルが呟く。
「……罪なやつだ」
そこには、呆れと、ほんの少しの妬みが混じっていた。
また、別の記憶。
ミナが端末の前で腕を組んでいる。
「いやよ」
硬い声だった。
「これは――自分で解きたいの。誰にも譲りたくない」
カイは頭を抱えた。
この顔になったミナは、絶対に曲げない。
「お前なあ……」
何度、面倒なことに巻き込まれただろう。
何度、言い争っただろう。
カイが止める。
ミナが反発する。
ゲーツが理屈を並べる。
ハルが面白がって余計なことを言う。
最後には、なぜか全員が巻き込まれている。
そして――
「ありがとう……みんな」
すべてが終わったあと、ミナは少し申し訳なさそうに笑う。
結局。
いつも、その笑顔で許してしまった。
***
カイは強く目を閉じた。
雨が傘を叩いている。
過去と現在の境界が曖昧になる。
笑い声。
端末の光。
ミナの声。
甘い香り。
触れた腕の感触。
失われたはずのものが、まるで昨日の出来事のような鮮明さで流れ込んでくる。
やがて記憶の奔流は遠ざかっていった。
あとに残ったのは――虚無だった。
カイはゆっくり目を開く。
雨粒が手袋を伝い、墓前の白い花弁へ落ちた。
その背後から、足音が近づいてくる。
奇妙だった。
これだけ地面が濡れているのに、水を踏む音がしない。
カイは振り返らなかった。
「……久しいな、カイ」
聞き覚えのある声。
「ゲーツか」
背後に立つ男の気配だけを感じながら、カイは墓碑を見つめ続ける。
「世界の更新が始まった……」
ゲーツの声は、雨よりも冷たかった。
「こんな雨の日は、《ヴェスティギア》の流れが激しい」
「だから、どうした?」
「否が応でも、過去の記憶がかき乱される」
カイの眉がわずかに動いた。
先ほど見た光。
そして、突然流れ込んできたミナとの記憶。
「……あの光か」
ゲーツは答えない。
だが、それで十分だった。
「お前の中のミナは、今どんな顔をしている?」
カイは墓碑から目を逸らさない。
「笑ってるよ」
白い花を見る。
「いつだって、そうだった」
「欺瞞だな」
短い言葉だった。
雨が二人の間に降り続け、透明な壁を作っている。
カイは低く問い返した。
「じゃあ、おまえの中のミナはどうなんだ」
ゲーツの表情は変わらない。
「俺はすべてを失った。記憶も、思い出も、何もかも」
「嘘だ」
カイは即座に言い切った。
初めて、わずかに振り返る。
「おまえは誰よりも、記憶と思い出を抱え込んでいる」
ゲーツの瞳が、ほんの少し揺れた。
雨だけが二人の間を落ちていく。
「なぜユカの前に現れた」
カイの声が低くなる。
「あいつは関係ないはずだ」
「関係ない者など、いないさ」
「……何?」
「世界が更新される以上、誰も無関係ではいられない」
カイの拳が握られる。
「お前の目的が何であれ、俺が止める」
「止める?」
ゲーツが小さく鼻で笑った。
「違うな。俺とお前は同じ場所を見ている。ただ、歩く道が違うだけだ」
カイは完全に振り返った。
二人の視線が、雨の向こうでぶつかる。
「お前の歩むのは覇道だ」
声に迷いはない。
「力で閉じる世界」
ゲーツは黙っている。
「人が進むべきは、王道――選び続ける道だ」
カイは言い切った。
「俺は、それを選ぶ」
雨脚が強くなる。
ゲーツはしばらくカイを見つめていた。
「相変わらず変わらんな」
吐き捨てるような言葉。
それでも、その奥には、かつて同じ場所で笑っていた男の感情が微かに残っていた。
「ああ」
カイも笑わない。
「お互いにな」
ゲーツの輪郭が揺らいだ。
身体を走るノイズ。
像が崩れ、雨粒の向こうへ滲んでいく。
「……いずれ分かる」
声だけが残った。
「お前も、失ったものからは逃れられない」
次の瞬間、ゲーツの姿は消えていた。
カイは動かなかった。
灰色の墓地に、雨だけが降り続ける。
やがて黒い傘をゆっくりと傾けた。
冷たい雨が髪を濡らす。
額を伝い、頬を流れ、顎から落ちる。
その周囲で――
淡い光が浮かび始めた。
ひとつ。
また、ひとつ。
空気中を漂っていた無数の微細な粒子が、雨粒に触れるたび、淡い光を帯びていく。
それはデータ光ではない。
人が生きた痕跡。
失われたはずの時間。
誰かを愛したこと。
笑ったこと。
傷ついたこと。
忘れたつもりで、どこかに残り続けていた記憶。
ゲーツはそれを《ヴェスティギア》と呼んでいた。
雨によって活性化した記憶粒子が、墓地の空気を満たしていく。
光の粒子が、カイの周囲をゆっくり流れる。
そのひとつが頬に触れた。
誰かの笑い声が聞こえた気がした。
それはミナなのか、それとも、ユナなのか。
カイは目を閉じる。
頬を伝った雫が、墓碑の前の白い花へ落ちた。
それが雨なのか。
それとも別のものなのか。
確かめる者はいない。
ただ雨の中――
失われた記憶の残滓だけが、
淡い光となって、
いつまでも世界を漂っていた。
※作者の活動報告に各話の設定や裏話などのコメントを書いています。
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