第5話①「交わらぬ想い」
薄明のリビング。
外では細い雨が降り続いていた。
窓ガラスを伝う雨粒が、街の灯りを縦に引き延ばしている。
いつも見慣れているはずの景色なのに、今夜は世界の輪郭まで曖昧になったように見えた。
テーブルを挟み、ユカはマグカップを両手で包んでいた。
立ち上る湯気が、彼女の瞳をかすかに歪ませる。
不安がある。
それでも、知りたいという気持ちは消えない。
ソファの端には、ピコがちょこんと座っている。
いつもなら何かしら口を挟んでくるのに、今夜は珍しく黙っていた。
「ゲーツって名乗る男に会ったの。突然現れて……“門は再び閉じる”って」
カイの指先が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
だが、ユカは見逃さなかった。
「それに……カイのこと、知ってた」
カイは何も言わない。
ピコのレンズが、ユカからカイへ向く。
「ねえ。ゲーツって何者? なんでカイのこと知ってるの?」
それでも、カイはすぐには答えなかった。
コーヒーから立ち上る白い湯気を見つめている。
その向こうに、ずっと昔の何かを探しているようだった。
窓を叩く雨音が、規則正しく続く。
やがてカイが口を開いた。
「……俺が前に、データ管理省で解析士をしてたって話はしたよな」
「うん。データ関連事件を扱う部署……」
「ああ」
カイは短く答えた。
「あいつは、そのときの仲間だ」
そこで言葉が止まる。
視線が、わずかに下がった。
「……いや。仲間“だった”」
「“だった”って……?」
ユカの問いに、カイは答えなかった。
代わりに、遠い記憶が脳裏によみがえる。
***
まだ若かったころ。
データ管理省の解析室。
徹夜明けのコーヒー。
机を埋め尽くす端末。
壁一面に浮かぶ解析データ。
事件が立て込めば、家に帰れない日も珍しくなかった。
それでも――
あの頃は、よく笑っていた。
ゲーツ。
ハル。
ミナ。
難解な事件の解析に頭を抱え、ようやく突破口を見つければ、四人でくだらない冗談を言い合った。
昼休みには窓辺に集まり、冷めたコーヒーを片手に街を眺めた。
開いた窓から入る風が、机の書類を揺らす。
ミナが笑う。
ゲーツが呆れる。
ハルが余計なことを言う。
そして、自分も笑っていた。
何でもない時間だった。
だからこそ――
今になって思えば、かけがえのない時間だった。
あの日が来るまでは。
***
カイの瞳に、遠い日の残光が残っていた。
「……そうだったんだ」
ユカはそれ以上、踏み込まなかった。
けれど、聞かなければならないことがある。
窓の外で、雨脚が少し強くなった。
「じゃあ、ゲーツは何をしようとしてるの?」
カイを見る。
「“門を閉じる”って、どういう意味?」
まっすぐな視線だった。
カイは、その目から逃げるように窓へ視線を向ける。
「ユカ。ここから先は危険だ」
声が変わった。
過去を語る声ではない。
保護者の、父親の声だった。
「しばらく前線は外れろ。後方支援に回るんだ。俺からアランに頼んでおく」
「……え?」
ユカは瞬きをした。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
そして頭に浮かんだのは、レンの言葉だった。
《分析して、証明して、答えを出す。そういうのは俺たちの仕事だ》
《ユカは、目の前の事件に集中しろ》
《街を守るのは、おまえの役目だ》
大切な人から託された、大切な言葉。
そうだ。
レンと約束した。
自分には、自分の役目がある。
それなのに――
「なんで?!」
ユカの声が大きくなる。
「今、みんな戦ってる。セラ博士も、レンも。私だけ守られるなんて、イヤだよ!」
カイの拳が強く握られた。
テーブルのグラスに、小さな波紋が広がる。
「ゲーツは危険だ。あいつは……」
続く言葉が出てこない。
ゲーツが何をしようとしているのか。
どこまで力を得ているのか。
そして、過去に何があったのか。
カイだけが知っているものが、あまりにも多かった。
だからこそ――失いたくなかった。
「俺は、お前のことを思って――」
その言葉を聞いた瞬間。
ユカの中で、張り詰めていたものが切れた。
「“私のため”とか言わないでよ!」
カイが目を見開く。
「私の気持ち、ちゃんと聞いてよ!」
声が震える。
涙が頬を伝った。
カイに悪意がないことくらい、わかっている。
誰よりも自分を大切にしてくれていることも知っている。
だからこそ、苦しかった。
「お、おい。俺はおまえのことを……」
「だから、それがイヤなの!」
ユカは涙を拭わなかった。
「私だって考えてる! 怖くないわけじゃない! でも、それでも自分で決めたいの!」
カイは言葉を失った。
「危ないからダメって、全部カイが決めちゃったら……私がどうしたいかなんて、関係ないじゃん!」
「ユカ……」
「信じてよ……!」
その一言だけが、弱かった。
怒鳴るような声ではない。
泣き出しそうな、十七歳の少女の声だった。
カイの表情が揺れる。
だが、すぐには言葉が出てこない。
それが、今のユカには答えに見えてしまった。
「……もういい」
椅子から立ち上がる。
「カイなんて、大っ嫌い!」
椅子が床を擦り、大きな音を立てた。
ユカは振り返らない。
そのまま玄関へ走る。
「おい、ユカ!」
ドアを開けた瞬間、冷たい雨の匂いが部屋へ流れ込んだ。
「ユカ──!」
返事はない。
ドアが閉まる。
残されたのは、雨音だけだった。
テーブルには、ユカのマグカップが残されている。
まだ、かすかに湯気が立っていた。
ピコは閉じられたドアを見つめたあと、ゆっくりとカイへレンズを向けた。
***
どれくらい時間が経ったのか。
テーブルの上のコーヒーは、すっかり冷めていた。
カイは黒い液面を見つめながら、頭をかく。
「やれやれ……俺としたことが。完全に感情に引きずられたな」
ソファの端で、ピコが頷いた。
「そうですね。十年前、シン統治システムとの戦いでも、似たようなことがありました」
カイの顔が曇る。
敵の本拠地へ潜入する直前。
幼いユカを危険に巻き込みたくなくて、連れて行かないと決めた。
あれも、守るためだった。
「……確かに。あのときと、よく似てるな」
「いいえ」
ピコが首を横に振る。
「“似ている”ではありません。構造的には、まったく同じです」
「おい……」
容赦がない。
「大切な人を失いたくないという感情が、ユカから《選ぶ機会》を奪ってしまう。カイは今回も、同じ判断をしました」
カイは目を閉じた。
「つまり俺は、十年前から何も成長してないってことか……」
「人はそんな簡単に変われません。分析し、対策を立て、それを仕組み化して、継続することが重要です」
「俺はそれを怠ったってことか……」
痛いところを正確に刺してくる。
さすが十年来の相棒である。
ピコはさらに続けた。
「それに、“おまえのためを思って”という言葉は、本心であっても誤解されることがあります」
「……まだあるのか?」
「あります」
即答だった。
「人によっては、《信じられていない》《頼りにされていない》と受け取ってしまいますから」
カイは苦笑した。
「……痛いとこ突くな」
マグカップを持ち上げる。
口元まで運び――やめた。
「守ることばかり考えて、あいつが何をしたいのか、ちゃんと聞いてやれなかった」
窓辺へ歩く。
雨に滲んだ街灯が、昔の記憶のようにぼやけていた。
「……頭の中ではわかってる。ユカは、もう一人前だって」
カイは窓の向こうを見たまま続ける。
「その一方で、俺はユカを……ずっと守ってやりたいんだ」
その二つは、どちらも本心だった。
だから、簡単には割り切れない。
「ピコ。悪いが……ユカのそばにいてやってくれ」
「もちろんです」
ピコはすぐに答えた。
「ですが、カイはどうするんですか?」
カイは傘を手に取る。
今度は迷わなかった。
「……ちょっと用事ができた」
玄関へ向かう。
「少し昔と、向き合ってくる」
ドアが開く。
冷たい雨の匂いが、再び部屋へ流れ込んだ。
カイは振り返らず、雨の中へ歩き出す。
ドアが閉まる。
ピコはしばらく、その向こうから聞こえる雨音を聞いていた。
「……どちらも頑固で、その上、不器用ですね」
小さく呟く。
そしてピコは、ドローンモードへと変形した。
※作者の活動報告に各話の設定や裏話などのコメントを書いています。
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