第九話
まずは一時避難と身なりを整えるためにも移動しよう。
そう言って、シャルアは研究室兼医務室を後にする。
「背負うのに」
「歩けますので……」
予備のサンダルを貸したシャルアは、歩き難そうなエトの歩調を合わせながらある場所へと案内する。
「見えて来たよ」
それは宮殿の裏手にある林の中に建てられた二階建ての白い豪邸だ。ひっそりと佇む建物の隣には、綺麗に整備された薬草の畑や果樹が植えられている。
「この建物は、シャルア様のご自宅なのですね」
「あれ? 知っていたんだ?」
驚く様子もなくさらりと言われ、シャルアは意外に思った。
「林の枯れ木をゴミ処理所へ運ぶ際に、遠目で見かけていたんです。お抱えの芸術家の方がいらっしゃるのかと思っていました」
宮殿に連なる大きな建築物しか身近に無い彼にとっては、豪邸とはいえ一軒家はとても珍しかったのだろう。宮殿の裏手はあまり人が寄り付かないが、建物は20年が経過している。
誰も口に出さないだけで、見ている人がいるのは当たり前か。シャルアは納得し、興味深そうに見上げるエトを横目で見た。
「もともと林は先王の趣味の狩場として造られ、ここは離れとして建てられたんだ。設備が整っているし、医者の立場からも緊急事態に備えるには丁度良い距離だから、使わせてもらっているんだ」
宝石眼持ちは幼い頃に宮殿に召し上げられるが、成人すればある程度の自由が利くようになる。シャルアはその自由を利用して、静かに暮らせる場所を得た。
「建物には俺しか入れないように魔術で細工がしてあるから、防犯面も心配はいらないよ。さぁ、入ろう」
シャルアはドアを開け、エトを中へと誘導する。
「お邪魔します」
遠慮がちにエトは家の中へと入る。
建物の魔方陣は一切反応しない。
先王の為だった屋敷には、宮廷魔術師による魔方陣も刻まれている。王に会う前に念には念を、と確認を兼ねての避難だったが、発見された呪い以外に彼には術式は隠されていないとようだ。
「医務室と雰囲気が似ているでしょう? 派手な飾りも好きだけれど、俺にはこれ位が丁度良いんだ」
派手で豪奢な宮殿とは違い、落ち着きのある室内だ。木目を楽しむための一枚板のテーブルと同じ赤茶色の木材で作られた椅子が二脚、窓際には刺繍の入ったクッションが置かれたソファが設置されている。本棚には魔術や医学以外にも図鑑や冒険記など様々な書物が収められている。窓の横には干した薬草が吊るされ、部屋の奥には使い込まれているが綺麗に掃除された台所と窯があった。
「落ち着きのある素敵な住まいですね」
室内に一切人気が無いことにエトは疑問に思いながらも、住み心地の良さそうだと素直に述べる。
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
シャルアは笑顔でそう言うと、エトを下から上へと身体を見る。
「まず……髪の毛を洗って、整えようか。身体は治療の際に拭かせてもらったけれど、髪は出来なかったからね。服は……急ぎだから、俺のものを使おう」
「水を使っても、よろしいのですか?」
オアシスがあり豊かな王都ではあるが、水が貴重であることは変わりない。しかし、宮殿の敷地には奴隷専用の入浴場が用意されている。身体をきちんと休められる環境を作ることで鬱憤を貯めさせず、反旗を翻させないための策だ。
エトも知っている筈だが、この一年で行けなくなってしまったようだ。発言から飲み水すら苦労していたことが伺え、居た堪れない。
「王の御前に立つんだから、身なりは綺麗にしないと。こっちに浴室があるから、洗おう」
切る余裕がなく、ろくに洗えず軋んだ髪に触れたエトは、シャルアの後を追った。
台所の隣に在る青いタイル張りの浴室には、ネコ脚のバスタブが設置され、その側面には魔方陣が彫られている。
「その椅子に座って」
エトは指示通り、背もたれの無い小さな椅子へと座った。
シャルアがバスタブに左手が触れると、魔方陣が僅かに光始める。光から水が流れ出し、浴槽に溜まり始めると、シャルアは右手を軽く上げた。水は球体となり、彼の周りをふわふわと浮き始める。




