第十話
「はい。それじゃ、お辞儀をする様に頭を下げてね」
頭を下げたエトの髪に、水の球体が触れると弾け、もとの液体となる。気温の高い日中では、水の冷たさは気持ちが良い程だ。
「じっとしているんだよ。魔方陣が至る所にあって危ないから、俺に任せて」
「は、はい。分かりました」
なにかの拍子に発動したら、怪我の元だけでなく、室内も破壊してしまうかもしれない。頭を下げたままのエトは、自分の中にも魔力が流れているのを思い出し、素直に従った。
専用の液状の石鹸を髪の毛や頭皮に馴染ませ、水で汚れと共に洗い流す。3回繰り返すと、石鹸の泡が立たず固かった髪が柔らかくなり、艶が出る。洗い終わると布で丁寧に拭きとり、エトに顔を上げてもらう。
「髪を乾かすよ」
エトの周りに温かい風が吹いたかと思うと、一瞬にして髪から水気が無くなった。不思議そうに乾いた髪を触る彼をよそに、シャルアは直ぐにブラシを使って梳いていく。
「髪は切る?」
「えっ、あ、あの、シャルア様は全て自分で行っているのですか?」
エトが驚いて後ろを振り返ると、シャルアの手にはいつの間にか専用の鞘に収まった髪切りバサミがあった。
「前髪をちょっと弄りたい時に、切ったりするよ。人に頼むほどではないからね」
奴隷や一般人ならいざ知らず、王に仕える魔術医であるシャルアの何気ない言葉に、エトは戸惑う。
「……失礼を承知でお訊きします。シャルア様は、奴隷を従えた事が無いのですか?」
使用人や奴隷を使役するのは、仕事に専念し、不自由のない暮らしをする為だけでない。経済力、政治又は社会的権力の誇示を表す一面がある。
若いシャルアが王の医師として使えるのならば、反発が多いはず。周囲から甘く見られない為だけでなく、身の安全の為にも、奴隷の1人2人は必要な筈だ。
「あるよ。小さな頃は、身の回りの世話をしてくれる使用人も奴隷も沢山いた。けれど、俺を殺そうとしたから、全員処刑されたんだ」
顔に僅かな悲しみと疲労を滲ませるシャルアは、遠くを見ながら大きくため息をついた。
「特に16年前の第一と第二王子が誕生された時期が酷くてね……事ある毎に狙われて、その都度人が入れ替わっていたよ」
宝石眼は、不老長寿の妙薬である。その目を抉り取ると大粒の宝石になる。
いまでこそ形骸化したが、宝石眼は神聖視されると共におかしな噂が囁かれていた。とある地方では、かつて災いを呼ぶ者として産まれた直後に殺されていた。
時代が変わり彼等が王の側近として活躍し始めると、宝石そのものと同じく、彼等の瞳の色には意味があると考えるものが出始める。
エメラルドは繁栄や豊かさ、生命のシンボルとして遥か昔から各国の王族に愛されてきた宝石だ。
その宝石眼を持つシャルアの登場によって、王ディーガはリシムアルタ王国に長きに渡る繁栄を齎す存在であると信じる者が多いのだ。
反面、ディーガを王の座から引きずり落そうと暗躍する者、第一、第二王子の母達と生家である貴族にとって、王に関心を向けられていたシャルアは邪魔な存在だった。
「成人するまで寝泊まりは、イサール先生のところでお世話になった。あちらの奴隷は、忠誠心が高い人ばかりだから安心して暮らせたよ」
毎日の様に食事に毒が盛られ、寝室で眠ろうにも魔力を通して周囲の気配に気づいてしまう。弱っていくシャルアを心配したイサールはディーガと話し合い、彼を夕方から朝まで屋敷で過ごさせることにした。そして、昼食は必ずディーガと共に摂るようになった。安心て食事と睡眠が出来るようになったシャルアはみるみるうちに回復し、健康に育ち、今に至る。
「配慮が足らず、申し訳ありません」
王子や姫の周囲について何度か耳にしていたエトは、謝罪をする。
今でこそ静かだが、10年ほど前までは王子や姫の母親達の間で勢力争いが激しかった。
王位継承には、黒竜の力の目覚めが必要だ。現王ディーガは踊り子の子であり、第8王子だった。血統や何番目かは関係していないのは明らかである。それが無いからこそ、誰が目覚めるのか分からない。ましてや、次世代に力が目覚めない可能性もある。
黄金の大樹の恵みは、黒竜の力を介して地上に齎される。力無くして国の繁栄はない。黒竜病は黄金の大樹へと伝えるための即位式が行われなかったからだ。エトはその様に庭師の老人から聞いていた。
恵みが絶え、国が傾かないよう王はハレムの女性達と関係を持ち、可能性を増やす為に複数の子を成す。しかし、我が子が黒竜の力に目覚めると信じて疑わない女性達からして見れば、ライバルが増えていく一方だ。
竜の血からの継承は、具体的にどの様なものか周囲に伝えられていない。王自ら選んでいると考える者が多く、側室の身分から上がれない彼女達は邪魔ものを蹴落とし、正妻のいないディーガに少しでも我が子に関心を持ってもらおうと必死だったのだ。
「気にしなくても良いよ。そっちもそっちで、大変だっただろうからね」
奴隷や使用人からして見れば、女性達に短期間で捨て駒として使い捨てられる状況だった。人員が入れ替わり立ち代わりの劣悪な環境は、権力や財に目が眩みそうな年長者が若年層を裏方に隠す程だ。やがてそれを聞きつけたのか、ディーガは〈騒ぎを起こし続けるならば、子供達とは今後一切会わない〉と彼女達に伝え、終止符が打たれた。
エトが裏方ばかりになったのは、これらの原因もあった。
「宮殿で奴隷を連れていない人なんて、俺くらいだろうね。でも、出来る事が多いに越したことはない。お菓子だって作れるからね」
度重なる裏切りに疑心暗鬼になり、精神が擦れても仕方がないはずだ。しかし冗談めかしに言いながら笑うシャルアを見て、居た堪れなくなったエトは目線を落とす。
「さぁさぁ、顔を上げて。前髪だけでも整えようか」
「よ、よろしく、お願いします」
慌ててエトが顔を上げると、シャルアは彼の肌にハサミの刃が当たらないように、金髪に手が当てられる。
以前髪が伸びた時は、無理やり小刀で切られて怪我をしたな。現実逃避をする様にエトは思い出しながら、ハサミの刃同士が擦れ合う音とシャルアの鼻歌を聞いていた。




