第二十話
「この本、文字の読み書きの教科書に丁度良いんじゃないかな」
塗料の付いた筆を湿った布で拭き、筆記用具や紙を移動させたエトは、その本を受け取る。
「砂漠の海を冒険した人の自伝。子供向けに、分かりやすい文章で書かれているんだ」
所々に小さな傷や手垢の汚れがある年季が入った本の表紙には、砂漠の上に浮く不思議な生物が描かれている。
魚にも見えるが、目はとても小さく、腹びれとエラが無い。尾ひれは水平についており、口はとても大きい。
「この描かれている生き物は、何と言う名前ですか?」
「砂鯨と呼ばれているよ」
皿を机に置くと、椅子に座り直した。
「くじら……」
エトはまじまじと表紙を見る。
「砂漠の海を泳いでいる巨大な白銀の生物だよ。体高は象より一回りくらい高くて、全長は俺の自宅の倍近くある、かな。俺は見たことが無いから、本の内容しか知らないんだ」
小さな頃に、こっそりと遠目で見させてもらった曲芸師と象の大きさ。そして、この部屋の広さ。それを頭の中で照らし合わせたエトは、ぼんやりとだが大きさを把握した。
そして、
「昔、見たことがあります」
「え? どこで?」
予想外の言葉に、シャルアはすかさず訊いた。
「宮殿の屋根の掃除を手伝った際に、遠目で見ました」
象徴的な丸い大きな屋根や平面部分には、嵐が無くとも風で巻き上げられた砂や鳥の糞などの汚れが付いてしまう。美しい宮殿の外観を守るために、外壁を含め定期的に奴隷を使って掃除を行っている。先王の時代には掃除は2週間に一回行われていたが、死者がたびたび出ていた。ディーガが即位して以降は、専門の担当者を決め、安全対策をした上で1ヶ月に一回掃除するようになった。
当時10歳だったエトは、経験を積ませようと考えた大人の奴隷に連れられ、平面の屋根の掃除を手伝っていた。
「白く輝く大きなものが……ほんの一瞬ですが……」
「ちなみに、どんな動きをしていた?」
信じてもらえるか分からず自信なさそうに口籠り始めるエトとは対照的に、シャルアは好奇心に駆られた。
砂漠の海は、特定の地域を指す名前ではない。常に広大な砂漠を彷徨い続ける神秘の領域だ。意志を持つかのように、行きたいと望む者の前には現れないとされ、王の持つ黒竜の赤い目でしか領域を捕えることができない。
また砂漠の海に生息する白銀の生物たちも、領域に入らなければ滅多に見ることが出来ない。鳥に関しては宝石眼持ちによる目撃情報が幾つかあるものの、砂鯨はこれまで一度も無かった。
砂漠の海が王都近隣に出現し、砂鯨が姿を現した。どちらも前代未聞だ。
「こ、こう……地面から縦向きに出て来ると、後ろへ倒れました。一瞬の出来事だったので、蜃気楼とばかり思っていましたが、これだけ大きな生物がいるなら、きっとそうだろうと……」
手を使ってエトは上手く伝えようと彼は努力をする。
砂鯨は長い時間を砂の中で過ごす。
危険のない安全な領域に思えるが、砂の中では宝石や鉱石が徐々に体中にこびりついてしまう。尾ヒレや鼻、目の付近に付いてしまえば、死活問題となってしまうので、砂鯨は定期的に地上まで浮上する。そして体の上部や尾を地上に出し、地面に叩きつけ、その衝撃を使って石を剥がすのだ。
他にも獲物の捕食や、それに伴って体内に入って来た砂を出す等、限りはあるが地上からでも砂鯨の存在を確認することが出来る。
砂鯨が地上へと出て来ると、その波によって砂漠の中からも大量の宝石が産出される。経済への強い影響力から、本の作者は砂鯨を富の神と称えるほどだ。
「この本に書かれている動きと一致しているよ。他に見た人は?」
訊くと、何故かエトは目線を逸らした。
「私、だけなのですが……あ、えーと、状況が、お恥ずかしい話でして……」
「うん?」
「当時は幼く、畏れ知らずで、世間を知らなかったせいでもありますが……」
「なにやらかした?」
「私は、頂飾まで登って……そこで、見ました」
下へ下へと顔が落ち込んで行きながらも、エトは白状した。
頂飾とは、丸屋根の頂上に取り付けられている金属製の棒状の装飾だ。
話からして、エトは身軽な子供だったのだろう。好奇心に駆られ、登ってしまったのが目に浮かぶ。大人達は彼が落ちないか注目し、周囲を見る余裕はなかった。
「も、最も大きな屋根では無く、周囲ので……その、大人達にも沢山叱られて、反省はしています」
もごもごと言葉を連ね、エトは後悔と恥ずかしさに顔を赤らめる。
掃除が目的で丸屋根にいるので、頂飾に登っても不敬と判断されないだろう。悪さをしたわけでは無いので、何も知らない子供の行いを王は咎めず、奴隷の大人達に委ねた。むしろ、寛大さを示すには良い機会だったはずだ。
「活発な子だったんだね」
「は、はい……」
活発で肝の据わった子供。きっと笑顔が似合う男の子だったのだろう。
加害され、全て失ったように見えるが、その片鱗は残されている。王へと進言する瞬間に、彼の身体の震えが止まったのだ。様々な人間と相対する為に訓練を受けている貴族や使用人頭と違い、奴隷で在れば黒竜の眼に臆するものだ。
目を合わせられず、呼吸する事すら儘ならず、怯える姿。
それを、幼い頃からシャルアは幾度も見てきた。
「その頃の君に、会ってみたかったな。そうしたら、一緒に砂鯨を見られたかもしれないのに」
「危ないです! ほ、本当に、足を滑らせたら真っ逆さまなんですよ……!」
顔を赤くしたまま、必死に言うエトを見て、シャルアは目を細めた。
砂鯨ほどの大きさであれば、砂漠の海の領域外でも宝石眼であればその姿を見ることが出来るだろう。調べれば、直ぐに幼いエトの行動について供述出来る奴隷が現れる。
砂鯨の行動に関して、実際に目撃するか自伝等の本を読まなければ分からない。または、その名の由来であり、同じ先祖を持つと考えられる海に生息する鯨を知っていなければ話せない。
王の庭で産まれ、暮らし、働いて来たエトは外部の情報を得られる機会は限られている。その少なさが、信ぴょう性を向上させている。
しかし、ディーガが〈王都付近に砂漠の海が出現した〉と発言したのを聞いた覚えがない。エトが砂鯨を目撃した当時はシャルアも子供であったが、宮殿内で暮らしていたので話題の一つや二つ耳に届くはずだ。
エトが嘘を付いたとは思っていない。シャルアの中で謎が膨らんだ。




