船旅
セラフィナたち五人が乗ったバークは、春の穏やかな風を受けてゆっくりと南下した。大陸の北方地帯を隔てる高い山を横目に通り過ぎ、彼らの母国フィヨルラインの港に一時停泊する。一日かけて物資を積み込んだ船は、更に南へと帆を進めた。
南へ行くに連れ高くなる空は、どこまでも澄んだ青。海を見れば、少しずつ青が薄くなっているようだが、まだ海底が見える程には遠く及ばない。それでもセラフィナは、初めての船旅に心躍る思いだった。出航当初だけは。
「……船って、揺れがおさまらないのね」
げっそりとした様子で甲板の椅子に腰掛けたセラフィナに、リーゼが飲み物を差し出した。
「多分、悪いのはセラフィナさんです」
「ううう……わかっているわよ……」
セラフィナは、しょんぼりとしてリーゼからコップを受け取り口をつけた。
「だって、船の旅って何日もでしょう? 本も読みたくなるわよ」
部屋で本を長時間読んだ結果、見事に船酔いしたのだった。
コップの水を飲み干してから、セラフィナは甲板を見渡した。胃のあたりはまだムカムカしているが、肌にあたる風は気持ちが良い。
向こうでは、カイルとエーリヒが他の乗客と談笑し、アルベルトは、欄干にもたれて海を眺めている。女性たちが、日に焼けるのも構わず甲板に出てきているのは、彼らがいるからだろう。出航当初は男性が数人だった甲板も、今では女性が多くを占めている状態だ。
「相変わらず人気ねえ、うちのチームメンバーは」
セラフィナが苦笑いをして呟くと、リーゼは「は?」と目を細めた。
そんなリーゼの反応はいつも通り気にせずに、セラフィナはしばらく甲板を眺めていた。「一番人気があるのは誰かしら」と呟くと、リーゼからしっかりとした返答が返ってきた。
「大人の男性枠でエーリヒさんがダントツです。続いて笑顔が可愛い、とカイルさん。アルベルトさんは、ご年齢から遅れをとりましたが、五年後にはブチ抜きで一位かと」
「リーゼは、何の調査をしているの?」
「市場調査を少々」
「売り物……?」
そんなふうに甲板を眺めていると、視界に華やかなドレスが入ってきた。
「ねえ、あなた」
セラフィナとリーゼが視線を向けると、二人の女性が立っていた。一人は艶やかな黒髪を美しく結い上げた、少しキツめの顔をした美人。セラフィナよりも、二つ三つ年上に見える。もう一人は一歩後ろでその女性に日傘を差している、侍女服の女性だ。
黒髪の女性は、まっすぐにセラフィナを見下ろしている。服装や侍女がついているところを見ると、貴族の子女か。
セラフィナは、少しだけ焦った。自分もアルベルトも、これといって変装はしていない。アストレア王国の貴族には、二人の顔を知っている者も多い。しかし、まさか一国の王子や公爵令嬢が、護衛もつけずにこんなところにいないだろうと、他人の空似と思ってくれると思っていたが、もしかして、彼女は気がついたのだろうか。
ドキドキと耳の中で聞こえる心臓の音を聞きながら、セラフィナは何でもないように首を傾げた。
「私ですか?」
セラフィナは、もう貴族ではないので、名乗っていない相手の身分を気にする必要はない。あえて座ったままで見上げると、女性は眉間に皺を寄せてセラフィナを睨んだ。
「ふん。これだから平民は……まあ、いいわ」
女性は、セラフィナの態度に不満そうにしたが、気を取り直したように続けた。
「あなた、彼らと話をしていたわね。私を紹介なさい」
「…………紹介?」
セラフィナは、咄嗟に聞き返してしまった。「あなた、もしかして……」と言われると思っていたセラフィナは、言われたことの意味を理解するのに、少し時間がかかり、キョトンとした顔をした。
「誰を、誰にですか?」
「私を、彼に、よ!」
女性は、イライラしながらセラフィナを睨む。身バレしたわけではなかったのか、とほっとしたセラフィナだったが、それでも女性の言っている意味がちっとも伝わらない。眉を下げて困った顔で聞き返した。
「ご紹介するのはいいけれども、私は、あなたのことを知りません。何を、どうご紹介すれば良いのかしら」
「何でもいいのよ! そこで会ったの、とか、お話ししたいって言ってる、とか、自分で考えなさいよ」
「ああ、それでいいのなら、いいですよ。それで、誰にご紹介しますか?」
セラフィナが言うと、女性はようやく満足した顔をして頷いた。
「最初から、そう言えばいいのよ。茶色い髪の剣士様に紹介してちょうだい」
茶色い髪の剣士、と聞いて、セラフィナがエーリヒのいた方に目を向ける。しかし、彼の姿が見当たらない。セラフィナが首を傾げた時、後ろから柔らかな声がした。
「何の話をしているの?」
驚いて振り向くと、笑みを浮かべたエーリヒが、優しくセラフィナを見下ろしている。
「――驚いたわ。急に現れないでちょうだい」
セラフィナが文句を言うと、エーリヒは楽しそうに笑った。
「セラの驚いた顔も好きなんだ。それで? 何をしていたの?」
「この方が、あなたとお話ししたいって」
セラフィナが、エーリヒを見上げながら言うと、彼は女性に目を向けて「俺と?」と聞いた。声をかけられた女性は、先ほどまでとは打って変わって、頬を染めにこやかに微笑んだ。
「あの、初めまして。わたくし、リリアローズ・ボビーニヤと申しますの。少し、わたくしにお時間をいただけて?」
上目遣いがなんとも言えない色気がある。セラフィナは、美人はお得よね、と感想を抱きながらエーリヒを見ると、彼はにこやかにリリアローズを見ている。
「それはいいけれど」
エーリヒがそう言い、セラフィナは何となくモヤっとして彼をじっと見つめた。
「何か、ご用事でもありましたか?」
穏やかにエーリヒに問われたリリアローズは、少し目線を下げて赤く染まった顔を隠した。
それを見たセラフィナは、そうか、と思い至った。公爵家に籍があった時、護衛についているエーリヒは、よく貴族女性に声をかけられていた。エーリヒはうまくあしらっていたが、仕事中の騎士によく声を掛けられるものだ、と注意するか、セラフィナはいつもモヤモヤしていたのだ。リリアローズの表情は、まさにその時の貴族女性たちと同じだった。それを思い出してモヤっとしたのか、とセラフィナは納得した。
そうすると、妙にスッキリして、セラフィナはエーリヒとリリアローズに笑いかけた。
「紹介もしたし、私はあちらに行っているわね」
船酔いもだいぶ良くなっている。リリアローズは、エーリヒと話したいのだろうし、自分がいては邪魔だろう。そう考えたセラフィナは、椅子から立ち上がり、その場を離れようとした。その瞬間。
エーリヒに手首を掴まれた。しっかりと掴まれているのに、全く痛くないとは、どういう仕組みなのか。セラフィナが、掴まれた手首から辿って顔を上げると、そこには恐ろしいほどに輝く笑顔があり、セラフィナは「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
「セラ? どこに行くって?」
「――あ……え、と……」
セラフィナの喉が詰まる。
(待って。どうしてエーリヒは、怒っているの!?)
それを聞こうにも声が出ないし、聞いてはいけない気がする。セラフィナは、頬を引き攣らせて黙り込んだ。
エーリヒは、いい笑顔のままセラフィナを見つめた。
「何を考えていたのかな?」
「……あ……その……」
うん?と覗き込む笑顔は、さっきよりも少しだけ緩んでいて、セラフィナはようやく口を動かした。
「ボビーニアさんが、あなたと話したいようだから……」
「うん、それで?」
「私は邪魔かしらって――ひっ」
言い終わらないうちに、エーリヒの褐色の瞳に潜む緑がキッと濃くなり、口だけに笑みが残った。セラフィナは、返答を間違えたことに気がついた。けれども、何て答えればいいのかわからない。
(どうしようどうしようどうしよう! 絶対に怒っているわよね。何が正解? 誰か教えて!)
エーリヒから目を逸らせずに硬直したまま、セラフィナは頭をフル回転させる。そして、一つの答えに辿り着いた。
「あ、そ、その……か、必ず……戻ってきなさいよ!」
もう、セラフィナにも、何を言っているのか理解できない。リリアローズは妙な顔をしているし、後ろからはリーゼのため息が聞こえる。こんな時だけ空気になるのをやめないでほしい。
以前エーリヒの気分を害した時に、上から目線で言い放ったら、ご機嫌がなおったような、そんな気がした。だから、セラフィナは、エーリヒに理不尽を押し付けた――つもりだったが、理不尽も何も、内容のない言葉が出てきた。
(ど、どうしましょう……私、とても普通のことを言ったわよね。これで、エーリヒのご機嫌がなおるとは思えないわ……)
セラフィナは、内心で冷や汗をかきながら、エーリヒの瞳を見つめ返した。その、数秒の後。
エーリヒの目元が、ふっとほぐれた。
彼の纏う空気が柔らかくなり、いつもの穏やかな雰囲気に戻る。褐色の瞳は蕩けるようにセラフィナを見つめ、口元もゆっくりと緩められた。
それを見て、セラフィナはホッと胸を撫で下ろした。何がよかったのかはわからないが、とりあえず正解だったようだ。そうとわかれば、このまま逃げたほうがいい。ちょうど、セラフィナの手首を掴んだエーリヒの手の力が抜けたので、その手を引き後ずさろうとした。
しかし、離された手首は、指先をするりとエーリヒに捕まえられて、そっと上に持ち上げられる。エーリヒの瞳に捕らえられ、セラフィナは視線を外すことができない。そのまま片手を持ち上げられると、指先に彼の唇が触れた。
「――もちろん」
エーリヒは、指先に唇を落としたまま微笑んだ。
「だから、セラも俺から離れないでね――絶対に」
「………………っ?!」
あまりの破壊力に、セラフィナは思考が飛んだ。周囲がざわついているような気がするが、セラフィナにはそれを理解して処理するほどの余裕は、残っていなかった。
リリアローズは、目の前で処理落ちしている女性を可哀想な目で見た。
――これ、ダメなやつ。
エーリヒという剣士は、見た目もよく物腰も柔らかい。完璧な大人の男性だと思った。できれば落としたい。愛人でもいいくらいだ。そう思ったのだが、とんでもない。この、“セラ”と呼ばれた女性を見る目だけが、違う。それでも、最初は「ずいぶん優しく見るのね」くらいに思っていたのだが、そうではなかった。
(離れようとしたら牽制されるし、近づいたら追撃されるし、絶対に逃げられないやつじゃないの!)
リリアローズは、ぶるりと震えた。
一度は、こんなふうに愛されてみたいと思ったことはある。旅先で出会った男女が、身分差も、家族の反対も乗り越えて結ばれる、なんて、誰だって憧れるではないか。でも、それは本の中だから素敵なのだ。現実は、違う。
(こんなの、囲い込みじゃないの!)
現実に見てみると、ただの恐怖でしかないではないか。今の数分のやり取りだけでもお腹いっぱいだ。そう考えて、リリアローズは一歩、二歩と後ずさった。
そうこうしているうちに、黒髪の女性(空気になりすぎて、いたのを忘れていた)が、エーリヒの手をペイっと剥がし、セラと呼ばれた女性の指先をハンカチで拭きだした。かと思えば、金髪の男性(リリアローズは、年下には興味がない)が近づいてきて、エーリヒに何やら突っかかっている。軽く躱されているのは、やはり経験の差か。そこに、背の高い青年(素朴な感じだが、飼うならこっちもいい)が現れて、二人の間を取り持った。
リリアローズは、察した。これは、恋愛ではない。彼の縄張りに入れば、生きては帰れないやつだ、と。それで、彼女は侍女に目配せし、そっとその場を離れた。




