読書
夜になって、セラフィナは二階の多目的スペースにいた。多目的、といはいっても、二階の個室以外に空いたスペースに、ソファや棚を置いただけの、簡易的なスペースだ。一階で焚かれた暖炉の熱がこもり、ほのかに暖かい。
そこで、セラフィナは一人、ランプを灯して魔法書を読んでいた。三人が余裕で座れるソファに両脚を投げ出し、肘掛けにもたれて本を読むのは、さすがのリーゼも怒るだろう。そう考えての、この場所だった。
集中して魔法書を読んでいると、突然両脚がソファから落ち、身体の向きが変えられた。自分の意思とは関係なく身体が動いたのに驚いて、セラフィナは魔法書から視線を上る。キョロキョロと周りを見渡すと、先ほどまでセラフィナの両脚があった場所に、アルベルトが腰を下ろしていた。どうやら、アルベルトがセラフィナの脚を床に下ろし、身体を支え起こしたらしい。セラフィナの背中に回っていた手を引き、アルベルトは彼女に呆れた視線を投げた。
「淑女教育はどうした?」
期限の悪いアルベルトを、セラフィナは睨んで反論した。
「四六時中淑女でなんて、いられないわよ。家ではいいの」
「ここには男がいるんだぞ。部屋だけにしろ」
「私は貴族ではないもの。淑女である必要も、ないわ」
「そう言う意味ではない。エーリヒやカイルに、隙を見せるなと言っているんだ」
「隙って、喧嘩中じゃあるまいし……」
「その"隙"ではない」
はあ、と深いため息をついたアルベルトは、もういい、と呟いた。
「とにかく、完全にくつろぐのは部屋の中だけにしろ」
「…………まあ、努力するわ」
そうしてくれ、とアルベルトは言い、魔法書を取り出した。セラフィナに借りている、音の魔法書だ。アルベルトは、一人分空いていたセラフィナとの間を詰め、膝の上でページを開いた。
「この意味がわからない。説明してくれ」
セラフィナは、アルベルトの膝の上にある魔法書を覗き込んだ。暗めのランプのなか、かなり近づかないと文字が見えない。肩が触れるのに構っていられる明るさではなかった。
『音とは、静かな湖水の波紋の如く、ただそれ自体を震わすものである。風なき部屋で琴を鳴らせば、燭台の炎がわずかに揺れる。これは、音がそこに波紋を描くためである。音とは耳に見えぬ風である。されど風とは違う。風は流れであり、音は空気に刻まれた震えの記憶である』
セラフィナは、魔法書の一部を、古代語で読み上げ、そのまま頷いた。
「音の定義よね。これのどこがわからないの?」
少し顔を上げると、アルベルトの顔が予想以上に近くにあって、セラフィナは少しだけ驚く。目が合うと、アルベルトも驚いた様子でセラフィナを見ている。
「――本当に、嫌味なくらい、きれいよね」
セラフィナは、とりあえず素直な感想を述べた。
「………………」
「褒めているのに、嫌そうな顔をしないでよ」
アルベルトは、すっと目を逸らした。片手で目元を覆い、はあ、とため息をつく。
「どうしてそういうところだけ、伝わらないんだ」
アルベルトの言葉の意味がわからないが、何となく貶されている気がしたセラフィナは、「は?」と彼を睨みつけた。しかし、アルベルトはその視線に慣れている。
「それで? 音の定義、とは?」
「…………何もないように話を戻したけれど、この手は何なのよ」
魔法書の話をし出したアルベルトの手は、ごく自然にセラフィナの腰に回されていた。セラフィナは、その手を見て言うが、アルベルトは何でもないように返した。
「お前が寄ってきたんだ。距離はさほど変わらない」
何の答えにもなっていない気がしたが、別段何が変わるわけでもなし、セラフィナはこれ以上追求するのをやめて、魔法書の内容に戻ることにした。
「まあ、いいわ。ここには音が何なのか書いてあるだけでしょう? 何か問題があるの?」
セラフィナがアルベルトを見上げると、彼は眉間に皺を寄せた。
「あるだろう。音は、音だろう。聞こえない風とは何だ? しかも、風ではないと書かれている。では、一体何なのだ」
何と言われても、とセラフィナは眉を下げた。
「音は、空気の振動で伝わっているだけで、音というものがあるわけではないのよ」
「では、声は音ではないのか? 耳に聞こえるものは? 一体、何が音なのだ」
「ええと、だから……」
どう説明すればいいのか、セラフィナは困ってしまった。
前世?の記憶で、音と空気の関係は朧げながらに理解できる。だから、魔法書に書かれた内容も、それはそうだ、と納得できるのだ。しかし、それを説明しろと言われても、セラフィナにはそこまでの知識はない。いわゆる、記憶の中の常識の範囲内、「音とはそういうものである」という認識でしか、ないのだから。
セラフィナは、アルベルトの膝にある魔法書を、自身の方に引き寄せた。ちょうどアルベルトとセラフィナの間に来た魔法書を、パラパラとめくる。何か、良いことは書いていないだろうか、と目を凝らした。
「ええと、ほら、ここに、『空気は常に、我らと共に』ってあるでしょう?」
セラフィナが、魔法書の一文を指差すと、アルベルトもそこを覗き込んだ。
「見えないし、感じもしないけれど、常にここにあるものが空気で、その空気を揺らすことで音が伝わるの。逆にいうと、空気の振動が、音なのよ」
「言っていることはわかるが、感じもしないものをイメージするのは、難しいな」
眉を寄せて考えるアルベルトだが、セラフィナは落ち着かない。何せ、アルベルトの手のせいで、彼との距離が明らかにおかしい――というかゼロなのだから。いくら幼馴染だと言っても、正直なところ、先ほどから心臓がうるさいのだ。早く問題を解決して離してもらわないと、とチラリとアルベルトを見るが、間近に見えるその横顔は真剣だ。考えを邪魔するのも良くないだろう、と、もう少し何も言わないことにした。
しばらく魔法書をめくりながら考えていたアルベルトだが、そのうちため息をついて顔を上げた。
「お前が、どうして感覚的にわかるのかがわからない。音魔法については、もう少し調べる必要がありそうだ。――が、お前、近すぎないか?」
セラフィナの顔を間近で覗き込みながら、アルベルトは真顔で言った。しかし、セラフィナにはわかった。この男、最後に「まずい」と思って責任転嫁した、と。
「…………この手を離せば、解決するのだけれど?」
セラフィナは、はっきりと言ってやった。お前が原因だ、と。
「………………まあ、いいか」
「よくないわよね」
セラフィナは即座に返すが、アルベルトは聞こえていないことにしたようだ。膝にある魔法書を閉じて、セラフィナの横に置かれた黒い魔法書に視線を移す。
「お前は、闇の魔法書を読んでいたのか」
話が変わり、セラフィナも、先ほどまで読んでいた魔法書を見た。そうだった、とそれを手に取り、膝に広げる。
「ダンジョンのボスが、闇属性だったのだろう? あの魔法は、何なのか、わかったか?」
アルベルトは、セラフィナの膝にある魔法書を見ながら聞いた。セラフィナは、腰にある手が気になりながらも、魔法の話ならば、と魔法書のページを捲る。
「まだ、全部を読んでいないから、あまりよくはわからないのだけれど」
そして、目的のページを見つけて指差した。
「闇魔法って、そもそも闇を操るのではないみたいね。この魔法の基本原則は、負、過去、吸収。影を操り、記憶という時間を遡る」
記憶、とアルベルトは呟いた。
「では、あの魔物が見せた夢は、俺たちの記憶ということになるのか」
そう言って嫌そうな顔をするアルベルトに、セラフィナは首を振った。
「そういう単純なことではないみたい。第一、私が見た夢は、記憶にない夢よ」
「俺が、お前を殺すのだったか」
アルベルトの顔が、苦しげに歪む。セラフィナは、苦笑いして頷いた。
「ありそうだけど、今のところ体験したことのないことが、夢になっていたわ」
「確かに、ありそうな未来だな」
「そこは否定しなさいよ」
無表情に戻ったアルベルトを、セラフィナが下から睨み上げる。それを、アルベルトは真正面から受け止めた。
「お前が俺から離れた時は、俺と一緒に死ぬ時だ」
腰に回された腕に、力が入る。近づけられた身体は密着し、セラフィナはアルベルトの胸を両手で軽く押した。
「……怖いことを言わないでちょうだい。離れられなくなるでしょう」
セラフィナが、ため息をつきながら言うと、アルベルトの瞳が怪しい光を灯す。
「――離れなければいいだろ」
低く響く声に、セラフィナは背筋が凍りついた。魔物の悪夢で見た、「一緒に死ぬ」と言った、あのアルベルトの仄暗い瞳と一緒だ。
セラフィナは、その瞳から目を逸らせなかった。
ゆっくりと近づいてくるアルベルトの顔。熱を孕んだ碧い瞳が、セラフィナだけを見つめている。
(――待って。これ、何が正解?)
このまま何もしなければ、先の結果は明らかだ。心臓もうるさい。たぶん、アルベルトに聞こえている。セラフィナは、アルベルトの碧い瞳が閉じられたのを見た。唇に、アルベルトの吐息を感じ――。
咄嗟に右手を間に差し込んだ。
手にアルベルトの唇が当たるのを感じながら、なんとか平静を装ったセラフィナは、しっかりとした声を出した。
「私は、魔法書の続きを読むわ」
だから離してね、と、驚いているアルベルトから目を逸らしセラフィナは、腰に置かれた手を剥がそうとした。しかし、どうにもこうにも剥がれない。ジタバタしてみたが、一向に離れない。セラフィナは、もういいや、と諦めて、そのまま膝に置かれた魔法書に目をやった。もう、距離感の壊れたアルベルトは、無視だ。どうせ無視するなら、魔法書を読み込もう、と開き直った。
すると、どう言うわけか、ため息をついたアルベルトは、さらにセラフィナを引き寄せ、自分の脚の間にひょいと座らせた。そして、自らも音の魔法書を読み始める。
セラフィナを避けるように魔法書を持つアルベルトを見て、読みにくそうだな、と彼女は思った。そこで、両脚をソファの上に持ち上げて、アルベルトの片脚を跨いで横向きになる。自然と折られた両膝に魔法書を置き、アルベルトの胸に少し寄りかかって読むことにした。こうすれば、アルベルトも自身の膝に魔法書を置いて読めるだろう、と。
セラフィナの考えた通りに、アルベルトは膝に魔法書を置き、セラフィナの腰に回した手で、そのページを捲ることができるようになった。
「――何をしているの?」
突然頭上から降ってきた硬い声に、セラフィナは肩をびくりと震わせた。
そろりと顔を上げると、そこにはエーリヒが立っている。いつもの柔らかい雰囲気は消え去り、鋭く細められた褐色の瞳に、寒ささえ覚える。
怒っている。何かに怒っている。そう察したセラフィナは、慌ててエーリヒに笑顔を見せた。
「あ、エーリヒ。今ね、返してもらった魔法書を読んでいてね……」
セラフィナがエーリヒに魔法書を示すと、彼はにこりと微笑んだ。その笑顔はいつも通り優しくて、セラフィナは逆に背筋が凍えた。
「うん、それはわかるんだけどね。――ねえ、アル?」
エーリヒに名を呼ばれ、終始無視を決め込んでいたアルベルトは、ようやく魔法書から顔を上げた。不機嫌そうにエーリヒを睨み、「なんだ?」と言う。
「読書の体勢として、それはどうかと思うんだけど」
エーリヒの声は冷たい。絶対、これ怒ってる声だから、とセラフィナがアルベルトを見上げると、彼は何てことない顔をしている。お願いだから、変なことを言わないで、という心からの願いは、アルベルトにより瞬時に破棄された。
「――セラから近づいてきたんだ」
「本が見えなかっただけよっ!」
離さなかったのはアルベルトだ、と苦言を呈したが、アルベルトは得意の聞かぬふりだ。ムッとして睨み上げていると、エーリヒの穏やかな声が聞こえた。
「――セラ」
呼ばれて振り向くと、スッと手が差し出された。
「おいで」
反射的にその手を取って両脚をソファから下ろし、立ちあがろうとする。が、腰に回された腕に身体が引き戻されてしまった。
ぽすん、とアルベルトの脚の間に戻ってしまい、エーリヒの手が離れていく。そのまま、後ろからアルベルトに抱え込まれてしまった。
あまりのことに、セラフィナは声が出ない。さっきまでは、存在を完全に無視していたからよかったが、ここまでされると無視できない。顔に熱がこもるのを感じ、アルベルトの腕から逃れようと、バタバタと身体を動かした。
「ちょっと! アル、いい加減にしなさいよ!」
耐えきれずに、アルベルトに怒りを向けると、騒ぎを聞きつけたのか、残る二人が階段を登ってくる音がした。何かに驚いたのか、アルベルトの腕が少し緩む。
その隙をついて、セラフィナは彼の腕からのがれ、エーリヒの背中に隠れた。
「――何してるんだ?」
後ろから、カイルの声がした。振り向くと、予想通りカイルとリーゼが、訝しむようにこちらを向いて立っていた。
アルベルトは、拗ねたように向こうを向き、無反応だ。反対に、エーリヒがそれに答える。
「何でもないよ。いつもの喧嘩」
そう言って、エーリヒはセラフィナに優しく微笑んだ。
「魔法書を読むのもいいけれども、早く寝ないと、明日お寝坊するよ?」
セラフィナは、その言葉にハッとした。今、何時だろうかとキョロキョロしていると、リーゼが「そろそろ寝る時間です」と答えてくれた。エーリヒの言う通り、寝なければ。
「ちょうど寝ようと思っていたのです。セラフィナさんも、部屋に戻ってください」
「暖炉は、俺が消しておくよ。みんな、もう寝るぞ」
リーゼに促され、カイルにも言われて、皆それぞれの部屋に戻って行った。カイルだけは、一階に降りていく。
部屋の扉をパタン、と閉めて、セラフィナはほっと息を吐いた。
なんだかアルベルトの様子が日々おかしい。彼は、ゲームでは無口無表情の正ヒーローだったはず。静かにヒロインの横にいて、いざという時にはヒロインだけを守り抜く。他人に触れるのも触れられるのも嫌いで、ヒロインでさえ、必要以上に近づかない設定だ。正ヒーローのはずなのに、なぜか攻略の難易度が高く、セラフィナはアルベルトの攻略はさっさと諦めたのだが。
「……幼馴染には、別なのかしら?」
セラフィナは、ため息混じりに呟いた。
が、考えてもしょうがない、と思い、すぐにベッドに潜り込んだ。




