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裏ボス

みんな、壊れそうです

 ズズズッ――と重たい音を立てて開いた扉の先は、やはり広すぎるほどの石造りの空間だった。半円を描く広い天井は、星一つない夜空のよう。その部屋の中央、入り口からだいぶん離れた場所に、"それ"はいた。

 何と表現したら良いのか、誰もが迷った。"それ"は一見モヤに見る。しかし、光を吸収するほどの黒は、まさに闇と言っても良い程だ。煙のように揺蕩う"それ"は、原型などないかのように形を変え、ゆらり、ゆらりと漂っていた。

 五人は、顔を見合わせた後、一歩、部屋に足を踏み入れた。

「……何も、ないな」

 数秒後、カイルがぽつりと呟いた。黒いモヤは、最初と同じくゆらゆらと揺れるだけで、何もない。五人は、また顔を見合わせて、首を傾げた。

 ――どうする?、と。

 何もしなければ、何もないと言うことだろうか。

「あれは、魔物だよね? 裏ボスというので、いいのかな」

「状況的に、そうだろうな。襲ってくるでもないが、こちらから手を出しても良いものか……」

 エーリヒの問いに、カイルが腕を組んで答えた、その時――。

 それは、一瞬だった。

 部屋の中央で揺蕩っていた闇は、瞬きする間も与えずに、その広い部屋を覆い尽くした。


 闇から抜けた、と思った瞬間、エーリヒは頭がくらりとする感覚に見舞われた。

(――あれ? 今まで、何をしていたんだっけ?)

 そこは、気持ちが良いほどの広い草原。青い空に輝く太陽は、暖かな熱を地面に注ぐ。そよぐ風は心地よく、ここで昼寝をしたら、陽が沈むまで目を覚さなさそうだ、と思った。

「――エーリヒ!」

 心地よく響く声に振り向くと、予想通りにセラフィナが微笑んでいた。

 太陽の光を受けたプラチナブロンドに負けないくらい、嬉しそうに輝く氷青の瞳に、エーリヒは幸せな気持ちで目を細める。

 差し出されたセラフィナの白い手を取り、エーリヒは思い出した。二人で旅をしよう、とここまで来たのだ。一緒に世界を周り、彼女の笑顔を見ながら旅をしよう、と。それは、とても充実した時間で、それをくれたセラフィナを、エーリヒはぎゅっと腕の中に抱きしめた。

「……セラ、ありがとう」

 腕の中に、心地よい温もりを感じながら、エーリヒは彼女の首元に顔を埋める。

「急に、どうしたの?」

 首にかかる息がくすぐったいのか、セラフィナがくすくすと笑いながら言った。

「セラ――愛している。もう、絶対に、離さないから」

 エーリヒは、セラフィナを抱きしめる両腕に、少しだけ力を入れた。決して、離れない、と言うように。

 セラフィナは、また、くすくすと笑う。その声に、聞いたことのない冷たい響きを感じ、エーリヒはゾクリと背中を震わせた。

「おかしなことを言うのね」

 感情のない声が、耳に響く。セラフィナが、両手で彼の胸を軽く押す。それだけで、セラフィナの背中に回されたエーリヒの両手は、簡単に解けてしまった。

「私は、公爵家の長女で、次期女公爵で、アストレア王国第二王子の婚約者です」

 言いながらエーリヒを見る彼女の瞳は、その色と同じように温度を失い、彼を見下しているかのようだった。

「男爵家のあなたとは、見ているものも、感じているものも、何もかもが違います。一緒にいられるわけが、ありません。それに――」

 セラフィナは、薄い笑みのまま、エーリヒから一歩、また一歩、ゆっくりと下がった。その背を預けるのは、美しい金髪と、深い碧い瞳を持つ、絵に描いたような王子。

「優しいだけのあなたに、何ができるの?」

 何の感情も乗らない、美しい声が、エーリヒの頭に響き渡る。くすくすと笑い、完璧に整えられた、非の打ちどころのない王子――アルベルトを振り返ったセラフィナは、差し出された彼の手を取り、背中を向けた。そのセラフィナを見るアルベルトの顔が、ぼやけて見えない。

 ゆっくりと離れていく二人の姿を、エーリヒは何の感情もなく眺めていた。が、その姿が見えなくなった瞬間に、途方もない何かが身体にのしかかってきた気がした。

 思うように動かない身体は、しかし明確な意思を持って腰に下げた剣をすらりと抜く。刀身は、太陽の光を受けて、悲しいまでに輝いている。それは、少しずつ、彼の喉元に近づいていった。

 

 アルベルトは、自分が可愛げのない子供だと、わかっている。気がついた時には王族としての教育を受けていた。その中では、素直な感情は表に出す必要はないと教えられた。もちろん、そうであるように努力もした。結果、いつの頃からか、表情は作るものだというのが、当たり前になっていた。

 この日、アルベルトは侯爵家の兄妹と交流するよう言われていた。彼らは、先日の七歳の誕生日パーティーで紹介された、友人候補だった。いつもはにこやかに接するアルベルトだったが、この日は朝から剣の練習だったので、とても疲れていた。同年代の子供との交流はそれなりに楽しかったが、つい笑顔を作るのを忘れてしまった。

「――アルベルト様は、全然楽しくなさそうです」

 兄妹の妹の方に問いかけられ、アルベルトは「え?」と驚いた。あの店のお菓子が美味しいという話も、兄が犬に追いかけられた話も、どれも楽しく聞いていた。なぜ、そう思うのか、アルベルトは理解ができなかった。

「楽しいよ。どうしてそんなふうに言う?」

 アルベルトは、慌てて聞き返し、兄の方を見た。しかし、妹と同じく、兄も不満そうな顔をしている。

「だって、ずっと怒った顔をしているじゃないか。面白いなんて、思っていないんだろ?」

 そんなことない、と言っても信じてもらえなかった。そのうち妹が泣き始め、混乱の中交流は終了した。

 そんなことがあって、アルベルトは落ち込んだ機持ちのまま、城の図書室へ向かった。早めに終わった交流により、時間が少し余ってしまったのだ。歩きながら、アルベルトは考えていた。感情を出すことは、推奨されない。感情は、その時の状況に応じて作るものだ。侯爵家の兄妹との交流では、素直に楽しいと思っていたのに、感情を作らなかったから、理解されなかったのだ。

(……じゃあ、僕の感情は、どこにある?)

 王子でいるのは難しい。作らなければ伝わらない感情を、どうすれば理解してもらえるのか。そんなことを考えていたら、図書室にたどり着いた。とりあえず、本でも読みながら落ち着こう、そう考えて図書室入った。

 適当な本を選んで、閲覧スペースへと向かうと、窓際に令嬢が一人座っていた。窓から差し込む光が髪に反射して、キラキラと輝いている。その表情は、同い年と思えないほど真剣で、目の前に広げた大きな本にだけ意識が向いていることがわかった。

 アルベルトは、この幼馴染で婚約者であるセラフィナが、少し苦手だった。感情を表出しないよう、最大限注意しているのに、セラフィナにはすぐにバレてしまうからだ。しかし、この時のアルベルトは、なんとなく、セラフィナに自分の気持ちを当ててもらいたい、と思ってしまった。

「――セラフィナ」

 呼ばれた少女は、数回瞬きをした後、すっと顔を上げた。氷青の瞳をアルベルトに向けて、ふっと微笑む。その笑顔の、なんと可愛らしいことか。

 苦手ではあるものの、アルベルトはセラフィナと話すのは嫌いではない。王子でいなくても、こちらの思いが伝わる相手は、彼女くらいなものだから。

「ごきげんよう、アルベルト様」

 セラフィナは、椅子から立ち上がり礼をする。アルベルトは「ああ」と短く返事をした。いつも、こんな短い返事だけでも、彼女は様々なことを察してくれた。今日もきっと、何かあったのか、と聞いてくれる。落ち込んでいるのか、何か悩んでいるのか、そう聞いてくれるはず――。

「……あの、私、何かしましたか?」

 セラフィナは、急に不安そうな顔をして、アルベルトの顔を伺ってきた。

「――えっ?」

 アルベルトは、思ってもない言葉に反応ができなかった。

「だって、アルベルト様、怒っていらっしゃいますよね?」

 何を言っているのか、理解が追いつかなかった。こんなことは、今までで一度もなかったのに。アルベルトが、どんなに無表情でも、なんなら何も考えていなくても、全てがセラフィナに伝わっていたのに。

「怒ってはいない。どうして、そう思う?」

 アルベルトは焦った。何かを誤解されているのなら、すぐに解かなければならない。しかし、セラフィナは怯えた顔をして、目に涙まで溜め出した。

「どうしてって……ずっと怒った顔をしているもの」

 そう言って、セラフィナは一歩足を後ろに引いた。アルベルトは、それを追うように一歩足を前に出す。

「何を言っている? どうして僕の気持ちがわからない?」

 アルベルトは、セラフィナに必死で訴えた。何かの悪戯か、意地悪をしているのか。どれだけ意地の悪い悪戯だ、と悲しくなってきた。

「も……申し訳ありません……」

 セラフィナは、小さな声で言い、カタカタと震え出した。顔は青ざめ、表情が硬い。明らかに怯えていた。それを見て、アルベルトは小さく息を吐き「もういい」と呟いた。

 セラフィナは、びくりと肩を跳ね上げて、顔をさらに青ざめさせた後、身体を小さく縮こませて小走りに走り去っていった。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、アルベルトはため息をついた。

 本当に怒ってなどいない。彼女に気持ちを汲み取ってもらえなかったことが、絶望的に悲しかったのだ。セラフィナにすら伝わらない気持ちなど、もはやなくてもいいものなのかもしれない。

 アルベルトの碧い瞳は、徐々に澱んでいった。心がすっと冷めていき、胸に穴が空いてしまったように空虚になる。心臓から流れる血液が、急激に冷めてしまったように、指先までが凍りついた。

 ――いっそ、心などなくなってしまえばいい……

 アルベルトの瞳は、ゆっくりと色をなくしていった。

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