一の五
佐源次は欠伸を噛み殺しながら海辺橋を南へ渡った。
橋のたもとには野次馬だろう、人だかりがすでに出来ていて、人いきれがここまで届いてきそうだった。
住んでいる長屋がある深川住吉町からさほど遠くないとはいえ億劫なものがあった。
根付職人の傍ら、この辺りを受け持つ御用聞き(岡っ引)勇蔵親分のもとで働いている佐源次が呼び出しを受けたのは、つい四半刻前のことであった。未明にどうにかこうにか急ぎ仕事を終えて、さあゆっくり眠ろうと床に就いてまどろんでいた所だったので、いささかの不快さがまだ腹の隅で蠢いているようだ。
橋を渡り、かきわけるようにして野次馬の中を抜けると、そこには血にまみれて壁にもたれかかって事切れている若い侍の遺体があった。腹には脇差が突き立っている。
「おせえじゃねえか」
すでに到着して、しゃがんで遺体を検めていた勇蔵が、佐源次の気配を察して振り向いた。五十になって急に皺が増えた、角ばった彫りの深い顔であった。
まだ床の上で寝ていたい気持ちを振り切って、疲れの抜けていない体を励まし、口をすすいだだけで飛び出してきたのに、遅いという言い草はないだろうと不貞腐れる思いだったが、佐源次は、へえすんませんと頭を下げた。
「じゃあ親分、事の顛末を見てたものがいないか聞き回ってめえりましょうか」
「いや、もう仙太がずいぶん聞き取って来たよ」
いつもながら仕事が早いことで、と要領のいい同僚になかば呆れなかば嫉妬しながら辺りを見回すと、当の仙太はまだ往来で道行く人を捕まえて何か話を訊いている。
「最近この辺りで悪さをしていた若侍のひとりだな」勇蔵が遺体を目で調べながら言った。「おっつけ柿沼の旦那もみえられるだろうが、まあ、見ての通り自分で腹を切ったみたいだし、身元がわかったら仏さんの屋敷に報せておしめえだな」
この辺りで悪さをしていた若侍のひとり、という言葉に、佐源次ははっとして遺体の顔を見詰めた。
この間、蕎麦屋で棒手振りが、娘が若侍達に拐かされたと言っていたが、そのひとりじゃないのか。
――やりやがったな。
佐源次は腹の中で唸った。
あの時蕎麦屋の中で話を聞いていた者の誰かがやったんじゃないのか。殺しておいて自害に見せかけたんじゃないのか――。
だが、佐源次は何も言わなかった。
こんな町のダニのような人間がひとり殺されたからといって、まったく胸が痛むことはない。自害でなく殺しだとしても、殺されたのは士分だ。どうせ目付がもっていく仕事だから、自分には関わりのないことだ。勇蔵親分に報告するまでもない。
「うへえ、血まみれだなあ」
声に佐源次が振り向くと、南町奉行所の定町廻り同心、柿沼秀之介が立っていた。
齢は四十五だが、十くらいは若く見える顔をゆがめながら頭を掻いている。面長で眉が太く、ぱっちりとした目をしていた。一見すると男前だが、緩々とした印象が拭えない、掴みどころのない男であった。
彼の後ろに十手片手に踏ん反り返っているのは文造、平七という小者ふたりである。
立ちあがって頭をさげた勇蔵に向かって、秀之介が、
「腹切りかな。身元はわかったかい」
「最近この辺りで悪さをしている旗本か御家人の子弟だということはわかったのですが、名前まではまだ掴めませんで。身元のわかる物も何も身につけておりませんでした。今、手分けして知ってる者がいないか聞き回らせています」
勇蔵が答えて、ぼさっとしてるんじゃないとばかりに、佐源次を睨んだ。
さっきは仙太が聞き込んだからもういいと言っていたのに、この糞爺めと腹の中でののしりながら、しぶしぶ佐源次も野次馬に、遺体の身元を知らないか訊き始めた。
秀之介も付いてきたふたりの小者に聞き回ってくるように命じた。
「ま、目付に回す案件だな」
言いながら秀之介は寺の塀にもたれて座る遺体を見ながら首を傾げた。
「どうかなさいましたか」勇蔵が不審げに振り向いた。
「うん、いやあ、何か引っかかるな」
「何がでしょう」
「もうずいぶん人が周りを歩いたみてえだな、荒らされちまったのが残念だが、何かがおかしい気がするんだ。最初に気付いたのは、痛みでのたうち回ったふうもないし、首の血脈を断ってもいない、ってとこだな。おい、佐源次」
突然呼ばれて、佐源次は振り向いた。
「へえ」
「お前絵が描けたろう。目付から人が来る前にこの場をちょいと描き写しときな。後で何かの役に立つかもしれねえ」
「へえ……、あ、すんません、描く物を何も持ってませんで」
聞いて勇蔵が舌打ちして、
「いつ何があるかわからねえ、矢立てくらいはいつも用意しとけ」
「いいよいいよ」
と秀之介が懐から手のひらほどの帳面を出し、矢立てとともに佐源次に渡した。そうして、
「自害だったら、目付の方も楽だろうがなあ……」
ぽつりと秀之介がつぶやくのだった。




