一の六
そっと野次馬の群れを離れた貞八は身を潜めるようにして歩いた。
死んでいた男のことを聞き回っている下っ引に問われたらどう答えていいのかわからない。
野次馬達の口にする話を漏れ聞いていたら、料理屋の仕事を怠けて休んだ日に入った蕎麦屋で聞いた話を思い出した。死んでいるのは、どうもその時耳にした若侍のひとりらしい。
あの中の誰かがやったに違いねえ、とは思うが、そんな話を下っ引にして貞八自身が疑われでもしたら間尺に合わない。下手をするとそのまま下手人に仕立て上げられかねない。
うつむき加減で歩いていると、前から来た男にぶつかりそうになって、貞八は慌てて飛びのいた。
その遊び人風の男は、兄さんすまねえなどと言いながら、飄々とした足どりで人だかりの方へ歩いて行った。
音吉は思わず首をすくめた。
いけねえいけねえ、と心でつぶやく。
また悪い癖が出そうになった。さっきぶつかりそうになった小柄な男の懐の物を掏るところであった。もう足を洗おうかと思い始めていたし、若い頃はともかくここ何年かは金持ちそうな者からしか掏摸はしていない。だいたいあんな男の紙入れを盗んだところでろくな金は入っていまい。そう頭で思っていても手が勝手に動く。長年染みついた癖はなかなか抜けないようだ。
「おう、何かあったのかい」
音吉は人だかりの後ろで背伸びをして様子をうかがっているお店者に声をかけた。
「さあねえ、あたしも今来た所だから」
「人が死んでるんだってさ」お喋り好きなのだろう、別の中年の男が教えてくれた。「若侍のようだよ。腹を切ったんだって」
「へえ」と音吉は大仰に驚いてみせた。「なんだってこんなところで」
「さあ、それは仏さんに訊かないとねえ」
「ちげえねえや」
辺りを見回すと、下っ引だろう、男が近所のかみさんらしき女に声をかけている。
「ありゃあ、この辺りで悪さばっかりしている若侍のひとりさ。名前?そんなん知りゃあしないよ。平気で人の家の庭に入ってきて、生っている蜜柑をとって行くんだから。それだけじゃないよ、若い娘が手籠めにされたのされかけたのって話もしょっちゅう聞くよ。若いとはいえ侍だからおっきな声じゃ言えないけど、ろくなもんじゃないねえ」
かみさんは甲高い声で辺りをはばからずそんなことを喋った。
ひょっとするとこの間蕎麦屋で聞いた悪餓鬼達のことじゃあないのか、と音吉も背伸びして人垣の向こうを見ようとしたが、見えるのは人の頭ばかりである。
その内、下っ引がこっちへ向かって来るのを横目で見て、音吉はその場を去ることにした。
巾着切りなどという世間から後ろ指をさされる家業をしている者の常で、ああいう捕吏連中を体が自然に避けるような習性があった。
――やりゃあがったな。
音吉はあの時蕎麦屋にいた連中の顔を思い浮かべた。
腹を切ったんじゃあねえな、あの時あそこにいた連中の誰かがやりやがったんだ――。
入れ替わりに野次馬に加わる男の懐にまた手が伸びそうになって、音吉は手を懐にしまって歩き出した。
はて、と佐源次は首をひねった。
今、人垣を離れて行った男は、どうも見覚えがある。
脛に傷を持つ者特有の、世間の光に目を背けるような、拗ねた雰囲気があった。あんな怪しい男、一度見れば、下っ引の常で忘れはしないのに。
その背に声をかけようとした時、
「ありゃあ、本所の長井ってお侍の息子だぜ」
そんな声が聞こえて、去って行く男のことなど忘れてしまった。
佐源次は声の主を探すと、
「旦那、今の話、詳しく聞かせておくんねえ」
声をかけたのだった。




