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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第八章 雪の瀬音

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八の六

 大沢巧馬は今日も深川を彷徨(さまよ)うように歩いている。

 以前の三人組だった頃の勢いはさすがに衰えてはいるが、横暴な態度は相変わらずで、店で金を払わずに飲み食いしたり、老人を脅しつけたり、女をからかったりしている。

 柿沼秀之介は、よくもまあこの北風が身に染みる時期に毎日出歩けるものだと感心するが、大沢はおそらく遊んでいるばかりではない。寺社を見つけてはふらりと入って行くし、武家屋敷の間の道だとか木場だとか人気(ひとけ)のない場所を選んで歩いている。


 ――誘っているのだ。


 と秀之介にもわかった。

 自分を狙う高木金五郎を(おび)き出し、返り討ちにする魂胆なのだ。

 そんな思惑を知ってか知らずか、高木はまったく姿を見せないでいた。秀之介達が大沢の跡をつけはじめたのは高木が姿を消した直後からだから、すでに十数日も経つ。

 高木はその気配すら感じさせない。いったいどこで何をしているのか。まさか隠れ潜んでいるうちに野垂れ死んでしまったのではあるまいか、そんな危惧を秀之介に抱かせた。


 大沢の跡をつけるのは難しい。

 近づき過ぎれば高木が警戒して襲ってこないし、遠すぎればいざという時に護衛が間に合わなくなる。絶妙な距離を見極めながら、神経をすり減らす思いで秀之介達は尾行を続けた。


 先に市平太を墨引外まで追った経緯があり、区域の担当である勘定所から苦情が来た。秀之介も上役から散々叱責を受けたから、今度は墨引外に高木が逃げる事を想定して事前に勘定所に届けを出しておいた。同様に、寺や神社内で騒動が起きる事も勘案して寺社奉行にも届けを出してある。


 門前仲町を冷やかした大沢は、山本町を抜け大島川を渡ってどんどんと東へと向かう。松平越中守下屋敷の脇を通り過ぎると須崎の土手を進んだ。

 右手の海には浜が広がり、左手の木場の水路に浮かんだ材木の上では川並鳶が鳶口を手に作業をしていた。美しいはずの水郷も、今にも白い物が落ちてきそうな灰色の空と木場を吹き渡って来る北風に晒されていては、ただ荒涼とした寒々しい風景に見えてしまうのだった。それゆえか、いつもは物見遊山で賑わうこの場所も、まだ昼過ぎだというのに、人影は(まばら)であった。


 秀之介も隣を歩く勇蔵も、思わず寒さに首を(すく)めて歩いた。若いせいか、前を行く大沢は平然としたものである。やがて大沢は洲崎の東詰まりにある須崎弁天の門を潜った。


 と、その時、秀之介の脇を一陣の黒い風が吹き抜けた。何かの目の錯覚かと思えば、人である。

「高木金五郎っ!」

 秀之介はその背に向かって叫んだ。叫んだ時には走って彼を追っている。

 迂闊であった。ずっと大沢の跡をつけるのに意識を向けていたせいで、自分達がつけられているなど思いもよらなかった。いつからかはわからない、おそらく高木は執念の塊となり、秀之介の後ろを歩きながら大沢を襲撃する機会をじっと待っていたのだ。


 死期の迫った老人とは思えない速さで、金五郎は大沢に迫った。

 そんなことにも気付かず、大沢は鳥居の下を通り抜けようとしていた。


「大沢巧馬っ!」


 金五郎が叫んだ。

 大沢は声に弾かれるように振り返りつつ、走り寄る老人の姿が目に入った瞬間、待ちかねたとばかりに刀を鞘走らせた。

 凄まじい勢いで突撃した金五郎は、大沢の構えた刀を力ずくで弾き、転瞬、風車のように翻った白刃が大沢の首に喰い込んだ。


 金五郎はするりと刀を引いた。

 刃は大沢の首を半分ほども斬り裂き、斬り裂かれた大沢は虚空を真っ赤に染めるほどの血飛沫を撒き散らしながら仰向けに倒れた。


 直後、秀之介達は金五郎を取り巻いた。金五郎が気配を察して身を翻した。

 金五郎の正面から秀之介と勇蔵が迫り、背後に文造が、左右に平七と仙太が、各々十手を構え、二間ほどの間を取って囲んだ。


「観念しろ、高木」

 秀之介は腰を落とし、十手を体の前に構えて言った。


 金五郎は声を出さずに笑った。皺が深く刻まれた顔に付いている口を悪魔のように歪めた。背筋が寒くなるような笑みであった。


 金五郎の刀がゆっくりと上がり、切っ先がくすんだ空を指した。

 じりじりと、金五郎と秀之介がにじり寄る。

 数呼吸後、間合いに入った瞬間、金五郎が大きく踏み込みつつ、大上段から刀を振りおろした。

 秀之介はそれを避けず、十手を差し伸べた。

 耳に刺さるような金属音と共に、十手の鉤が刃を受け止めた。秀之介は十手を捻りつつ体を金五郎に寄せて体当たりした。勢いで金五郎は柄から手を離し、鉤からはずれた刀は境内を転がった。

 秀之介は金五郎を取り押さえようと身を捻った。

 だが、金五郎が脇差を抜き、振り上げる方が早かった。


 斬られるのを覚悟した秀之介は、訪れんとする運命に抗うように金五郎の目を睨んだ。

 しかし、振り下ろされた脇差は、まったく見当違いの空間を斬り、地面に突き立った。金五郎が身をかがめ、喉を鳴らして口から血を吐いた。血は刀を掴んだ手に落ち、柄を伝い刀身を流れ、地面を濡らした。


 周囲の者達はその闘争に加わる隙さえ見出(みいだ)せず、ただ息を詰めて勝負の行方を見守るしかなかったが、今が好機と見、捕り縄を手に足を踏み出した。

 それを、秀之介が手で制した。


「なぜ、無道な真似をした」秀之介が訊いた。


「お主は何を見てきた」血でかすれたような声で金五郎が答えた。「この深川を見廻って何年だ、いったい何を見てきた。侍が町人を虐げても罪には問われず、反対に、町人が侍に逆らえば手討ちにされる。それは不条理だ。人の命の重みにそれほどの違いはないはずなのに」


「その程度の理屈では人を殺す理由にならん。お主の言い分はただの身勝手な、子供じみた反抗心にすぎぬ」


「その程度の理屈?その程度の事でどれほど庶民が苦しんでいるか。その程度の事で地を這いずりもがいている者達がどれほどいるか、お主は知らぬのか。そんな者達を、公儀は改革と称してさらに苦しめている。庶人の自由を束縛し、気力を沈滞させ、世を暗澹とせしめている」


 金五郎はくらりと倒れそうになった。が、必死の形相で足を踏ん張らせてこらえた。


「これは、復讐に、あらず。公儀への、反乱だ」


 絞り出すように言って、金五郎はまた血を吐いた。

 そして、力尽き、膝から崩れ落ちて地面に倒れた。うつ伏せに倒れ、横を向いた顔を(しか)め、未練を残すように目を見開き、まだ口からは血が流れ続け、土を赤く染めていった。


 壮絶な幕の下ろし方であった。これまで何者でもなかった人間が、必死に爪痕を残そうとして大地を抉り取ったようだった。

 白い、小さな欠片が、金五郎の横向いた顔に落ちた。ひと粒、ふた粒、白い欠片が動かぬ体に空から落ちて来る。


 秀之介はその光景を、まるで夢の中にいるかのように、茫然と見ていた。

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