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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第八章 雪の瀬音

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八の七(完)

 先日から降り続く雪はやむ気配を見せず、武蔵野を真っ白に包み、遠く見えるはずの秩父の山々は雪の彼方に姿を隠していた。

 綾は川口村に着くと、思い立って荒川の土手に向かって歩いた。差した傘にとめどもなく大粒の雪が降り積もり、積もっては歩く弾みで縁から(こぼ)れ落ちた。


 千住大橋で会おうと約束した市平太は、三日待っても現れず、何か彼の身にあったに違いないと綾は思った。あれほど綾に執着していた市平太が、無事であるのに約束の場所に会いに来ないというのは考えられないことだった。町奉行所に捕まったのかもしれない。捕まっていれば、確実に死刑に処されて、斬首になったか磔になったかはわからないが、すでに命はないだろう。それとも、逃げる途中で事故に遭って命を落としたのだろうか。怪我や病気くらいなら這ってでも約束の場所に来たはずだ。


 そうして綾は市平太の命がすでにないことを確信した。だが、そんな確信が絶対に正しいとも思えなかった。

 深川に駆け戻って、桧川屋で消息を尋ねようかと思った。もし綾自身が手配されていても、定町廻り同心や御用聞きの親分にばったりと出くわさない限り、逃げ切ることが出来るだろう。そう思うと矢も楯も堪らず、雪の中を桧川屋へと駆けた。何度か手が触れ合った程度で肌を合わせたわけでもない男のことで、どうしてこんな危険を冒してまで消息を尋ねに行かなくてはならないのかという思いもあったが、綾の自分でも探れないほど心の深くにある感情が市平太を求めているようであった。


 桧川屋に着くと台所口に回って、そこにいた女中のおたま(・・・)を呼んだ。突然帰って来た綾に驚いたものの、市平太が逃げる途中で中川で溺れて死んだことを話してくれた。

 最後に、あんたのことも役人が捜していたわよ、とおたまは言った。

 綾は礼を言って、すぐに桧川屋を後にしたのだった。




 川口まで帰って来ると、ふと南天が実をつけているのを見つけた。

 農家の庭のはじにひと抱えの株立ちの南天が植えられていて、赤く小さな実がたわわに実っていた。実の重みで枝葉が頭を下げ、腕程の長さの枝が数本垂れて、腰程の竹垣の上を越えて道にはみ出していた。

 綾は雪の布団をかぶった実の塊に手を伸ばして、そっとひと粒摘んだ。

 そうして鬱蒼と茂る竹藪を見つけるとちょっと踏み込んで笹の葉をちぎった。


 土手の上から見る荒川は、白い絹の上に黒い大蛇が這いずっているかのようであった。

 川原に下りると、先程の笹の葉を折って舟を作った。こんな物を組むのは八王子で過ごした少女の頃以来だったが、案外指が覚えているもので、するすると指程の舟が出来上がった。その上に南天の実を乗せて川端にしゃがむと、笹舟を川の流れに乗せた。

 死んで誰からも(とむら)われない男を、ひとりくらいは弔ってやってもいいだろうと思う。


 舟は右に揺れ左に揺れ、時にくるりと回転し、石にぶつかり危なっかしく舳先を上下させながらも、どんどんと流されていった。

 あの小さな笹舟はまるで人生のようだ、と綾は思った。

 大きな世間の流れに流されて人は生きている。流れに乗れないものは川辺に押し出され、流れに逆らおうとすれば容易く飲み込まれて沈んでしまう。沈まず押し出されず澱みで止まらず、無事に海に辿り着ける舟はどれほどあるのだろうか。


 流れ去る笹舟に向けてそっと手を合わせ瞑目し、目を開けるとすでに舟は姿を消していた。

 ――流れ着いてくれるといい。

 綾は思った。

 この荒川が大川と名を変えて流れる、私と市さんのいた深川の片隅にでも着いてくれたらいい。流れに飲み込まれず、川原に打ち上げられず、うまく流れに乗って、私達の思い出が雪のように積もったあの深川に辿り着いておくれ――。


 立ち去る綾の背で、瀬音が鳴っている。雪がこんこんと降りしきる中、瀬音は高くなり低くなりしながらも止むことなく、ずっと鳴り続けていた。




(了)

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