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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第八章 雪の瀬音

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八の五

 秀之介が南町奉行所の同心詰所で書類を整理していると、同僚の深津が声を掛けてきた。彼は日本橋周辺を担当している定町廻り同心である。


「今朝の事だが」と深津は話し始めた。「日本橋の高札場に悪戯(いたずら)があった。何者かはまだわからんが、高札の一枚に書状を張り付けた者がいた。報せを聞いて見に行ったんだが、その書状というのが、外聞を(はばか)るような内容での。ひと言でいえば、ご老中水野様が桧川屋という材木問屋にあてた書簡だ」

 聞いて秀之介はあっと顔を深津に向けた。深津は続けた。

「そう、おぬしが担当した事件に思い至ってな。高札は引き抜いて通町一丁目の自身番に運んである」

「行ってくる」


 秀之介はすぐに奉行所を飛び出した。

 自身番に着くと番人が高札を指さした。無造作に壁に立てかけてあった。


「こいつは……」

 秀之介は唖然とする思いだった。文面を読めば、確かに以前桧川屋を強請(ゆす)るのに使われた書簡で間違いないようだ。

 その書簡が何故日本橋の高札に貼られていたのか。


「平七、すぐに桧川屋まで走って、六左衛門を呼んでこい」

 秀之介は小者に命じた。平七は頷いて自身番を飛び出して行った。平七は韋駄天と異名をとるほど足が速い。半刻ちょっとで戻って来、桧川屋六左衛門は駕籠に乗って来た。


「なんと」六左衛門は目を丸くし、肝を潰した様子だ。「何故盗まれた書状がこんな所に」

「盗まれただって?」秀之介は六左衛門を睨んだ。「そんな話聞いてねえぞ」

「ああ、それは……」うっかり口をすべらせてどう取り繕うか、六左衛門は考えているのだろう。額に冷や汗がどっと噴き出していた。

「包み隠さず、全て話せ」

「はあ、まあ、こうなっては隠しても詮無い事でしょう」

 六左衛門は、水野家の新村という家臣が書状を受け取りに来て、店から出た所で掏られた一件を話した。そして、口止めをされていましたので、と謝った。

「新村だって?」

 聞き覚えのある名であった。

「今朝、永代橋の上で町人を無礼討ちにしたと届け出てきたのが新村と言ったな」

 秀之介は忙しく頭を働かせた。


 そうして何か思い立った様子で、高札に貼り付けられた書簡を剥がそうと爪の先で端を(こす)ってみたが、頑強に貼り付いていて、剥がせそうもない。


「おい番人、どっかから(のこぎり)を借りてこい。書状が剥がせそうもないから、上だけ切って持って行く」

「あのう」

「なんだ桧川屋」

「その書状は、私にお返しくださいませんでしょうか。私の方から、新村様にお渡ししたいと思います」

「そうはいかなくなった。事情がずいぶん複雑なようだから、もうお前さんと水野家の間だけでこそこそ遣り取りさせるわけにはいかない。俺が水野家まで持って行くよ」

 六左衛門は不服そうに秀之介を見るのだった。


 西の丸下の水野家上屋敷に着くと、秀之介は応接間に通された。本来なら、南町奉行の鳥居甲斐守から、昵懇の間柄である水野越前守に報告しなければならないほどの事案なのだろうが、桧川屋が掏摸の話を隠していたように、また隠蔽される気がした。そうなると秀之介は面白くないし、上の方だけで始末を付けられるのも面白くない。後で叱責を食らうのを覚悟で水野家に乗り込んだのだった。


 待たされもせず当の新村が相手に出てきた。何事もないような平然とした顔であるが、内心は狼狽しているのだろう。この目の前に座った男が北森下町の手習い塾の師匠を拷問のすえ殺害した下手人だとは、さすがに秀之介は気付いていないが、厳格な態度の裏に潜む嗜虐性は見抜いていた。


「はて、無礼討ちの届出に何か遺漏があったかな」

 そんなことを言う新村の前に、秀之介は風呂敷包みを置いて、開いた。

 一枚の高札板に貼られた書簡を見て、新村が驚愕の表情を浮かべた。

「な、なぜこれが、こんな」


「日本橋の高札の一枚に貼られておりましてな」

「に、日本橋……。これは、見つけてすぐに取り除いてくれたのだろうな。だ、誰にも読まれてはおらんだろうな」

「さて」と秀之介はちょっと意地悪い気持ちになった。「あそこはご存じの通り、人の往来が多い場所ですからなあ、名主の所に報せが行って、高札をはずすまでに、ずいぶんの者に読まれたでしょうなあ」

「な、なんということだ、なんということだ」

 新村の顔は青ざめて引き()り、顔いっぱいを汗で濡らし、体は(おこり)のように震えていた。


「あなたが昨晩無礼討ちにした町人というのは、この書状を掏った巾着切りということで間違いないでしょうな。となると無礼討ちで済ます話ではなくなってきますが」

 新村は(うつむ)き、何も答えなかった。その表情を見、秀之介は自分の推測が的を射ていたことが分かった。

「まあ、ここから先は我らの手を離れて、御尊家で処置していただく案件となります。では」


 秀之介は座を立った。敷居を跨ぐ時にちらと新村の様子を(うかが)ったが、ずっと高札の書簡を見つめたまま、死人のように固まっていた。


 ――まるで何本もの糸が絡み合っているようだ。

 奉行所へ帰る道すがら、秀之介は思った。

 ひとりの男が垂らした糸に、いくつもの糸が(から)みついている。彦十が嘆き、嘆きを聞いた高木金五郎が代わりに復讐をし、市平太と綾が書簡を盗み、佐源次と共に桧川屋から金を強請り取り、書簡を巾着切りが盗んで、人を切りつけた貞八が事件を解決に導く鍵になった。

 どうしてここまで糸が絡んでしまったのか。人の意思による必然なのか、人知の及ばぬ偶然なのか。

「ともかく、俺は俺の役目を果たすしかねえってところだな」

 秀之介は溜め息混じりに(つぶや)くのだった。




 水野越前守は、爆ぜるように立ちあがり、手にした扇子を、膝元に置かれた高札に叩きつけた。

「こ、こ、この大馬鹿者っ!」

 報告に来た新村は平伏していた。その頭に、越前守の怒声が雷のように落ちた。

「掏摸の男をやっと見つけたのに、書状を取り返す前に粗忽にも斬り殺してしまった上に、しょ、書状は高札場に貼られていただと?何ということだ、儂にこれほどの恥をかかせるとは、何という失態だ。腹を切れ、このまま下がって即刻腹を切れっ」


 ほんの数刻で老人のように衰えた顔に変じた新村は、震える足どりで広間を出て行った。


 脇で今まで黙って見ていた用人の西岡が口を開いた。

「役に立つ男です、何卒お気を鎮められ、ご寛恕を賜りますよう、お願い申し上げます」

 そう言って頭を下げたが、越前守は見向きもしなかった。


 新村が襖の向こうに消えると、越前守は足元にある高札を踏みつけた。何度も怒りにまかせて踏みつけた。

 書簡を強請に利用した者共も、書簡を掏った掏摸も、失態を重ねた新村も、ことごとくが業腹であった。


 誰も彼もがちっぽけな一庶人にすぎぬのに、老中首座である儂をこれほどまでに追い詰め、肝を冷やさせるとは、いったいどういう事なのか。儂は頂点に立つ人間だ。頭上にいるのは政治に疎い公方くらいなものだ。その儂を愚弄するような真似をする。何かの恨みか。奢侈を禁じ庶人を締め付ける儂への当て付けか。


「ふざけるでないわっ!」


 踏みつけた足の裏で、高札がふたつに割れて、割れた音が部屋にこだました。

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