八の四
巾着切りの音吉は、自分にはこんな場所が似合っている、と思った。
神田橋本町の木賃宿がごみごみと軒を連ねる中の一軒の宿に隠れて、もう三月ばかりも経つ。近くには願人坊主達が寄り集まっている長屋もあるし、世間から爪弾きにされ見捨てられた人間が流れ着く最果てのような場所だった。
何日も風呂に入っていないような連中が一部屋に鮨詰めになっているから、酷い悪臭が充満している。そんなだから堪らない、一日のうちいくらかは蚤や虱の温床から抜け出して、息抜きに界隈を散策する。道には昼間から呑んだくれている親爺達もいるし、言い争いをしている青年達もいるし、ひとりで何かを喋りながら歩いている爺さんもいる。猥雑で混沌として、全体がくすんだような光景が広がっているが、音吉には何故か心が落ち着くようでもあった。
そうして町をぶらつき夕方に帰ってくると、宿の前に怪しい人影があった。
いや、怪しいと言えばこの町に滞留している連中の方がよっぽど怪しい。そういう怪しさの中で明らかに真っ当な身なりをした者達がいたのだから、却って怪しいのだ。折り目の付いた羽織袴の武家達が何人か、宿の客達に何かを訊いている。
――ついに嗅ぎ付けやがった。
その武家達が、自分を捜す水野家の者達であると、音吉はすぐさま勘付いた。
どうやってここを突き止めたのかはわからないが、ともかく、宿に近づくのは危険だった。
さて、どの路地に入ってやり過ごそうかと考えていた時、その侍達の内のひとりと目が合った。
音吉が水野老中の書簡を掏ったあの新村という男である。
新村が隣の男を肘で小突き、こちらに顎をしゃくったのを見た瞬間、音吉はすぐ近くの木戸を入って、裏店の路地に逃げ込んだ。ばたばたとどぶ板を踏み鳴らし、足音が背後から追って来る。
今さら書簡を返して命乞いしても、赦してくれる相手でもないだろう。逃げるに越したことはない。
この辺りの町割りは全て頭に入っていた。どの家にどんな住人がいるのか、どこが空家なのか、塀の破れ目も、用心桶の場所から雪隠の場所まで全て知っている。
長屋の奥の稲荷に昇って塀を越えて隣の裏長屋の軒下へと飛び下りた。
――こうなれば……。
以前から思い描いていた計画を実行に移す時が来た。懐の書簡を金に換える手段を考え出そうとしていたが、今になっても良い案が思い付かなかった。
――こうなれば最後の手段だ、この書状を白日の下に曝してやる。目いっぱい水野老中が恥をかくような方法でだ。
音吉は薄い塀に耳をつけて蹲り、向こう側にいる侍達の足音と、何かを言い交わす声が聞こえなくなるまで、じっと身じろぎもせずに待ったのだった。
日が沈むまで身を潜め、音吉は橋本町を出た。出た所で、
「いたぞ」
と叫ぶ声がどこからか聞こえた。ずっと見張っていたのだ。うんざりするほど執念深い奴らだった。
しかし、夜は音吉の領分だった。西へ走り小伝馬町の牢屋敷の辺りまで来た頃には、すっかり撒いていた。しかし油断せず、表通りを避けて、横町や新道を抜けて、日本橋へと辿り着いた。
日本橋を渡った南の袂に、高札場があった。石垣の上に矢来を巡らし屋根の付いた囲いの中に立てられた、庶人への心得などが書かれた七枚の高札を中心に、罪人の手配書や人相書き、ちょっとした町触れまでが雑然と並んでいる。
石垣の上の高札は無理なので、手の届く所にある高札に、かねて用意の米粒を塗ったくり、懐から取り出した書状を張り付けた。
――ざまあみやがれ、悪人老中め。
音吉は会ったことのない老中の顔を思い浮かべた。
朝になるのが楽しみだ。町ゆく人達がこれを目にしたらどうなるか、ちょっとした見ものだぜ――。
音吉は貧乏の中で育った。父親は左官職人だったが、働いても働いても暮らしが楽になることはなかった。母親は飯炊きに出たり枝豆を売り歩いたりしていた。みっつ下の妹がいたが、よっつの時に風邪を拗らせて一晩であっけなく死んだ。あまりに金がないから、音吉は近所の店屋で品物をよくくすねたし、金持ちの子にたかったりもした。そうして当たり前のように掏摸になった。
――そんな人生を送らなきゃならなかったのは誰のせいだ。
唾を吐きたくなるような陰々滅々としたこれまでの生涯を思い返して音吉は思った。
甲斐性のない父親のせいか、母親の努力が足りなかったせいか、妹が病弱だったからか。いや違う。そんなことはない。全て世の中が悪い。俺のとこみたいな家を作り出す世の中の仕組みが悪い。間違った仕組みを正さずに動かしている侍達が悪い。その親玉にちょっと仕返しをしてやる。いい気味だ――。
橋本町にはもう戻れない、さて今日はどこに身を隠そうかと思案しながら日本橋を渡り始めた所で、前に巨大な壁が立ちふさがった。新村であった。
「間違いない、あの時の掏摸だな」新村は低い声で言った。「書状はどこにある」
新村は腰に帯びた刀の柄を握った。いつでも抜き打ちに斬れる体勢であった。
「へっ、三枚に下ろして食っちまったよ」
言いながら音吉は後ろさがりにさがり、間合いをとると身を翻し、一散に逃げた。
とにかく必死に逃げたから、どこをどう走ったかはわからないが、自然と馴染みのある町に足が向いたのだろう、しばらくして大川に掛かる永代橋に出た。橋を渡れば深川だ。
後ろからはまだ追って来る足音が聞こえる。新村ひとりだったはずが、気がつけば、三、四人ほどに増えている。
焦りと恐怖のせいだろうか、永代橋の中ほどまで来たところで、足をすべらせた。
ちょっと前につんのめったくらいのものだったが、追跡者が追いつくには充分な時間だった。
後ろから迫る足音は高く鳴り響き、新村の凄まじい圧力が背中を押して来るようだ。堪らず走りながら首だけ振り向けると、目の端に白い冷たい光が閃いた。
あっと思った刹那、肩から背中まで斜めに体が引き裂かれていた。
音吉は悲鳴をあげることもなく、走っていた勢いのまま永代橋の上に顔から倒れた。倒れた時にはすでに事切れていた。




