八の二
本所鞘番所と言うのは本所一ツ目にあった。鯨船(水害用の快速船)の船蔵を鯨船鞘とか、鞘蔵とか、単に鞘などと呼んでいて、その鞘の敷地内にあったから鞘番所と呼ばれるのだった。本所方という本所深川の一般行政を担当した町奉行所の一部署が置かれている。
その鞘番所の同心詰所を勇蔵が覘くと、柿沼秀之介は縁側で本所方の同心と将棋を指していた。
「あ、いたいた」勇蔵が庭から近づいた。「どうせこちらで怠けていると思いましたよ、柿沼の旦那」
怠けていると言われても秀之介は気分を害した様子もない。にやりと笑いつつ勇蔵を横目で見て、
「仕事の申し合わせをしておるのだ、怠けてなどおらん。何か用か、あわただしい」
「へえ、例の浪人が見つかりました」
「なに」と秀之介は将棋盤から目を離して真顔になって、「何処の誰だ」
「所は深川加賀町の裏店、名前はまだわかりません。見つけたのは、あの貞八です」
「俺に報せていないで、乗り込めば良かったじゃねえか」
「まさか。手柄をあっしが頂いちまうと、不貞腐れるでしょ」
「そんな器量の小さな人間か、俺は。まあいい。勝負はお預けだ」
秀之介が立ちあがると、負けてるからってそりゃないぜ、と本所方同心がむっと顔になった。
秀之介と勇蔵は、急ぎ足で加賀町へ向かった。文造、平七のふたりの小者が後を追う。
「あの貞八ってのは、なかなか使えそうな奴じゃねえか」秀之介が言った。
「へえ、佐源次の代わりに手下にしようと考えています」勇蔵が答えた。
「いいんじゃねえか」
「人は見かけによらねえもんです。最初は風采の上がらない男だと思っていましたが、使ってみて先が読める男だとわかりました」
「あいつはお前に救われた恩義があるから、この先も頑張って働くだろうさ」
「で、浪人者はどうします?」
「証拠があるわけじゃねえからな、いきなり縄で括るってわけにもいかねえわな」
「密かに見張って、奴が若侍を襲うのを待つしかありませんな」
「藪蛇になるかもしれねえが、とりあえず突いてみるか」
加賀町に行くと、路地の木戸の所で貞八が立って、ふたりを迎えた。
両側に並ぶ長屋の軒が触れ合うほど窮屈な路地に入れば、手下の仙太があらかた聞き回ったようで、
「名は高木金五郎、右手三軒目の家にいます」
簡潔な報告を聞いて頷き、秀之介はずかずかと路地を進んで金五郎の家の戸をやにわに開けた。
「おう、邪魔するぜ」
男はまだ昼過ぎだというのに夜具の上で寝転んでいた。
金五郎は不審げな顔をして、難儀そうに体を起こした。
見るからに病を得ているとわかるほど、体は痩せこけて、顔色は土気色をしていた。おそらく、もう、いくばくの命数もないだろう。
「何でしょうかな」
「俺は定町廻りの柿沼ってもんだ」名乗りながら、秀之介は上り框に腰かけた。「ちょいと御用の筋で来た、高木金五郎」
「病んでおりますので、ここで失礼しますよ」金五郎は夜具の上に正座した。「町奉行所に睨まれる覚えはありませんが」
「お前さん、三月の末ごろに正覚寺の塀の所で侍が腹切って死んだのを覚えているか」
「はあ」
「その時、どこで何をやっていたね」
「さて……」と金五郎は腕を組んで天井を見あげた。「今から七、八カ月も前の話ですな。そんな前のことはちょっと。年老いて物覚えが悪くなっていますしな」
「じゃあ七月に竪川の二ツ目之橋で侍が落ちて溺れたのは?」
「そう言われましても。何故それがしにその様な事をお聞きなさるのか、皆目見当がつきませんな」
「お前さん、何か知ってるんじゃないかと思ってな」
「誰からお聞きになったか存じませんが、それがしは何も存じ上げませぬ」
「入船町のかしまという蕎麦屋で、お前さんは、棒手振りの彦十という男から話を聞いた。娘が三人組の若侍に拐かされ酷い目にあって死んだという話だ。その若侍達が次々に不審な死を遂げている」
「よく蕎麦屋での会話などをご存じで。さすがは定町廻りの旦那ですな。確かに、彦十から話は聞きはしましたが、ご覧の通り明日をも知れぬ体です、復讐の為にその若侍達を殺めるなど、とてもとても」
「へ、語るに落ちたな。俺はひと言も若侍達が殺されたなどとは言っちゃいないぜ」と秀之介はほくそ笑んだ。
「これは……、言葉のあやというものです。そう無理に言葉尻を取られてはかないません」と金五郎は苦笑した。
「いや、やったのはお前さんだ」
「そうお思いでしたら、どうぞ、縄を打ってください。できませんでしょう、証拠がありますまい。何せ、それがしは人を殺めてなどはおりませんからな」
「しらばっくれやがる」
「しらばくれてなどおりません」
「恍けた爺さんだ、嫌いじゃないぜ」
「お褒めいただき光栄です」
「ま、お前さんが残りひとりを殺すのが先か、病で死ぬのが先か、俺達が証拠を見つけ出すのが先か、いずれにせよ、首を綺麗にしておけよ」
金五郎は答えずに、にやりと微笑んだ。秀之介に挑戦するような笑みである。
秀之介もその挑戦を受けるように微笑んで、家を出た。
「あの爺さんが下手人に相違ねえ」秀之介は路地で待機していた勇蔵達に言った。「これから、代わる代わるあの爺さんを見張るんだ」
御用聞きと手下達は、大きく頷いた。




