七の六
市平太は着物を尻絡げにし、扇橋を渡って、小名木川に沿って東へと速足に歩いた。
このまま真っすぐ三十町(三キロ)ばかりも行けば中川にぶつかる。中川を渡れば当面のところ安心できるだろう。
そうすれば、江戸からだけでなく、今までの腐ったような人生とも離別できる気がしていた。
思えば、生きていて良かったなどと一度も思った事のない人生だった。子供の頃は父に虐待され、母にはいつも罵詈を浴びせられていた。桧川屋に年季奉公に入っても、褒められたことなどなく、おかみからは貶され、同じくらいの歳の奉公人から侮蔑され、傷ばかりが心に残った。
――もうそれも終わりだ。
そして綾といっしょになれば、これまでとは違う、愉楽に満ちた人生が待っているだろう。
「もうすぐだ、もうすぐだ」
市平太は口に出して呟きながら光明が見えるであろう場所を目指して、暗闇を歩いた。
文造達捕り手は、大横川と小名木川の交差点で足を止めた。市平太は新高橋を北へ渡って本所の方面に逃げたのか。西へ向かったとすれば深川の町々が逃亡者の足跡を闇に埋もれさせるだろう。東ならば、すでに墨引を越えて、町奉行所の支配域を出てしまっているかもしれない。
辺りをぐるりと見回した文造は、扇橋町の木戸の所で番太郎が、木戸を閉める支度を始めているのを見つけた。
「おい、番太郎」文造は横柄に訊いた。「見た所三十くらいのお店者が通らなかったか?」
「さあ、どうだったかね」番太郎の親爺はとぼけたような言い方をした。
こいつは何か知っているなと見抜いた文造は、親爺にいくばくかの銭を握らせた。にっと笑った親爺は、
「そう言えば、ついさっき、草鞋を買った男がいたな」
「どっちへ行った」
「扇橋を渡って東へ行ったよ」
「そうか、あんがとよ」
文造は平七と勇蔵の手下ふたりに報告し、東へ向かって走り始めた。
「文造、市平太が墨引の外へ出ちまっていたらどうする」
「なんだ、そんなことを心配していたのか平七、出てたって追いかけるさ」
「そうだな、言い訳なら後でいくらでもできる」
「ああ、まずは捕まえるこった」
市平太は不安に背中を押されるようにして、足を急がせた。
いくつかの武家屋敷の前を通り過ぎると、後はずっと田畑や沼が入り混じった閑雅な風景が広がっている。もっとも、闇夜だからその茫漠とした風景はまるで見えはしない。ただ、何も植えられていない黒い田んぼが提灯の光の向こうに広がっている気配がするくらいなものである。
やがて行く手にぽつぽつと橙色の灯火が見えてきたのは、亀高村の家々から漏れる明かりであろう。
ここまでくれば、もう墨引は越えているから町奉行所は手が出せないはずだ。そうして、江戸の境界である朱引までもうちょっとだ。
と、後ろから数人が近づく気配がする。どうやら皆走っているらしく、追手が迫っているのだと市平太はすぐにわかった。走り来る気配と徐々に大きくなる足音は、まるで高波が押し寄せるような恐怖を与えた。
市平太は提灯を放り投げると、一散に走り始めた。
しかし、追手は相当な速力があるようだ。たちまち距離が縮まっていった。
「待て、待ちやがれっ!」
後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。もう間近に迫っている。
市平太は小名木川に沿って真っ直ぐ逃げたが、このままでは追いつかれそうだ。
右手に並ぶ村の家々の間に逃げ込んだ。
家の陰に隠れ、庭を駆け抜け逃げるが、「おい、こっちだ」とか、「向こうに逃げたぞ」などと叫び交わす声が聞こえてくる。追手はそうとう夜目も勘も利くらしい。
闇雲に逃げまくった市平太は、やがて川に出た。夜の闇の中ではちょっと川幅が測れないほど広い川で、それが中川だと推測できた。左手に小名木川と合流しているのが見え、小名木川の北河岸に幾つかの光がかたまって見えるのは、中川船番所であろう。
見回しても橋などはまったくない。江戸に住んでいると川に橋が架かっているのはあたりまえだから、つい中川にも架かっているものだと思い込んでいた。市平太は焦燥に駆られた。舟を盗んで向こう岸に渡るしか方法はなさそうだ。
そう考えを決めて中川沿いに南へと向かおうと走り出した途端、右手から足音が聞こえた。と思ったら、たちまち後ろから羽交い絞めにされた。市平太はいつか会ったことがあった、たしか町廻り同心の小者のひとりである。
「平七、捕まえたっ」市平太の耳元で、男が仲間に向けて叫んだ。
さらに人が集まってくる。
「文造、すぐに縄で縛る、そのまま捕まえていろ」
目の端に、縄を両手に持って、素早く近づく影が見えた。
「嫌だ、嫌だっ!」市平太は声を嗄らして叫んだ。「俺は捕まらねえぞっ」
「もう捕まってるんだよ、神妙にしろっ」後ろの男がさらに力を込める。
市平太はもがいた。必死にもがいて体を折り曲げると、後ろの男の手が緩んだ。腕の締め付けから脱した市平太は、ほとんど転びそうになりながらも走った。走り出した刹那に、懐から小判が零れ落ち、地面で跳ねて甲高い音をいくつも立てた。それを気にする間もなく、葦の生い茂る川辺に走り込んだ。
地面がぬかるみ、ぬかるみはすぐに水へと変わった。市平太は構わずにそのまま川へと踏み込んでいく。
「おうい、おういっ」
川岸から男達の呼ぶ声が聞こえる。
「戻ってこい、危ないぞっ」
声を背中で聞きながら、市平太は川を進んだ。
――どうせ捕まれば死刑になる身だ。一か八か、川を泳いで渡ってやろう。
川面はすでに胸の辺りまで来ていた。初冬の川水が冷酷なまでに身を冷やしていく。水を掻きながら数歩進むと、不意に今まで踏み歩いていた砂利の川底が消えた。深みに嵌まった市平太は、引き返そうか進もうか迷う間もなく、水を吸った着物に引っ張られるように沈んだ。
それでももがいて水面に顔を出し、息を吸い、吸った瞬間また沈んだ。何度も繰り返しているうちに、やがて顔があがらなくなり、水面に泡を浮き上がらせながら川の中に沈んでいった。
――綾……。
声に出して女の名を呼ぶこともできず、何も見えぬ真っ暗闇の中で、市平太の意識は遠のいていった。




