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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第七章 促迫

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七の五

 帳場まで下りて来た綾は怪訝な顔で、市平太に言った。

「いったいどうしたんですか、こんな時間に」

「まずいことになった」

 市平太は引きつった顔で入口の方を見ている。何かが今にも入って来るのを警戒している様子だった。綾は眉根を寄せた。

「まずいことって、何よ」

「佐源次さんから報せがあった、俺が強請をした事がばれちまったらしい」

「なんですって」

「だが安心しろ、お前はまだ目を付けられていないようだ。俺はとにかく身を隠すことにする」

「どこに身を隠すって言うの」

「わからない」

「あんたはいつも行き当たりばったりなのよ。もっと方途を考えなくっちゃ」

「そんなこと、今言ったって()(かた)無い。佐源次さんはお前もやがては危なくなるから、今のうちに一緒に逃げろと言っていた」

「急に言われても、どうしたらいいのよ」

「ここに来る道々考えたんだが、一緒に逃げるのは(かえ)ってまずい気がする。別々に逃げる方が、捕り手の目もごまかせるはずだ」

「私、どこにも行く当てなんてないのよ。八王子に帰ったら、家族にも迷惑がかかるでしょ」

「それは自分で考えてくれ。明日でも明後日でも、早いうちに理由をつけてここを離れるんだ、いいな。いや、何だったら今夜のうちに雲隠れしろ」


 そう言って、市平太は懐から三十両を取り出して、綾の手に握らせた。

「お前の取り分だ、今度こそ受け取ってもらうぜ」

 互いの手の温もりを感じる間もなく、ふたりは離れた。

 市平太は、くるりと身を翻し、土間に飛びおりた。その背に、綾が声を掛けた。


「私達、これで終わりなの?」

「ほとぼりが冷めたら……、そうだな、三月後の今日、千住大橋で待ってるから来てくれ」

「わかったわ、私必ず行くから」


 出て行こうとする足を止め、市平太がちょっと振り返った。そして穏やかに微笑むと、潜り戸から出て行った。ぽっかりと開いた闇の中に吸い込まれて行くようだった。


 綾は開け放たれたままの戸を、じっと見つめた。風が出てきたようだ。雨戸がかたかたと音を立てて鳴っている。なにか不安を掻き立てる嫌な音であった。入り込んできた風が冷ややかに綾の頬を撫でた。




 市平太の長屋に入って、文造と平七は、すぐにひと足遅かったことに気付いた。

「もう(もぬけ)の殻ってところだな」文造はすぐに外に飛び出した。

「どこに行きゃあがった」続いて出てきた平七は歯噛みした。

「こんな時刻じゃ、姿を見ていた者はいないだろうな」

「ともかく、表通りに出よう」


 ふたりは連れて来た勇蔵の手下ふたりも使って、手分けして通りで人を捜した。すると、木戸番が見つかり、彼が市平太を見ていた事がわかった。

「市平太?市平太なら知ってるよ。さっき吉岡橋の方に、血相変えて走ってった」

「吉岡橋だって?東に行ったんだな。何があるってんだ」考える間もなく、文造は走り出した。

「中川を越えて墨引(町奉行所支配域)の外へ逃げようって魂胆かもな」走りながら平七が言った。

「桧川屋に向かったのかもしれねえ」

「なるほど、ありえるな」


 桧川屋に近づくと、潜り戸が開けっ放しになっていて、かすかに行灯の明かりが漏れ出ていた。その薄い明かりを目当てに、ふたりは走った。

 中を覘くと、ちょうど戸を閉めようとしたのだろう、女中がひとりそこに立っていた。

 女は驚いて後退(あとずさ)りした。


「今ここに、市平太が来なかったかい?」平七が訊いた。

 数瞬、綾は戸惑ったが、

「え、ええ、忘れ物を取りに来たとか言ってましたけど」

「もう出て行ったのか」

「はい」

「いつだ」

「今さっきですよ」

「どっちに行った」

「さあ、そこまでは」


 訊いて平七は自分が馬鹿な質問をしたと内心苦笑した。店の前は大横川に沿った道が南北に通っているだけだから、南から来た平七達がすれ違わなかった以上、市平太は北に逃走したに違いないのである。


 綾はまずいと思った。このままでは市平太はすぐにこの小者達に追いつかれる。時間を稼がねばならない。

「あの、どうかしたんですか?」

 ともかく訊いてみたが、男はまるで相手にしなかった。


「北だ」

 平七が言うと、文造が頷き、全ての精力を脚に込めて走り始めた。

 綾は外に出て、走り去るよっつの影を見詰め続けた。

「逃げて、市さん逃げて」

 綾は祈るように(つぶや)いたのだった。




 大横川沿いを北へと来て、小名木川が十字に交差している所で、市平太は草履(ぞうり)を履いて出てきたことを悔いた。これからまだ何里も逃げるつもりである。ここから東へ向かえば、すぐに墨引どころか、朱引を越え江戸から離れ町奉行所の手の届かない土地へと逃げ出せるが、安心するにはもっと先まで逃げていかなくてはならない。


 ちょうど扇橋町の木戸番屋が荒物を商っていて、草鞋(わらじ)の束が天井からぶらさがっているのが目に入った。後ろを振り返っても追手はなく、今のうちに身形(みなり)を整えておこうと思った。

「親爺、草鞋をくれ」と市平太が言うと、

「四十文ね」などと不機嫌そうな顔で番太郎は足元を見たような値を言う。

 草鞋の相場など十五、六文だろう。が、値段交渉をしている暇も、銭を細かく数えている暇もないので、ざっとしたところで五、六十枚ほどを握らせた。

「誰かが俺を追って来ても、知らぬふりをしておいてくれ、頼むよ」

「へいそりゃもう」番太郎の親爺は打って変わって愛想の良い顔で笑った。


 木戸番屋の明かりで草鞋を履き、脱いだ草履を番太郎に始末を頼み、市平太はその場を急いで離れた。

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