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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第七章 促迫

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七の三

 蛭子宮を通り過ぎ永居橋を渡り始めたところだった。

「市平太さん」

 暗い夜道で唐突に呼びかけられて、市平太は心臓が口から飛び出そうなほど動悸が打ちつけ、振り向いた。

「なんだ、佐源次さんかい、(おど)かすない」市平太の手に持つ提灯の明かりに照らされて、見慣れた顔がそこにあったので、ほっと安堵した。「どうしたい、提灯も持たずに」

「あんたをつけているからだよ」

「つけているだって?」市平太は首を傾げた。

「あんたどじ踏んだね」

「どういうことだい」

「疑われているんだよ、市平太さん」

「まさか、そんな、まさか」

「つまり、書状を盗めた見込みが一番高いのがあんたというわけだ。だが、どうやって鍵を手に入れたかまでは柿沼の旦那も謎が解けていない。だから、強請り取った金の隠し場所はどこか、他に仲間がいるのか、そんな所から手掛かりを見付けようとしている」

「じゃ、どうしろって言うんだい」

「目を付けられた以上、お終いだと思ったほうがいい。柿沼の旦那は(わず)かな取っ掛かりさえ見つければ、しょっぴいて拷問に掛けてでも口を割らせるだろう」

「逃げるしかないというわけか」

「ああ、それと、綾さんにもいずれ辿り着くかもしれない。いっしょに逃げるんだ」


 市平太は冷や汗がどっと噴き出していた。同心の目をすっかり(あざむ)いていたつもりなのに、気がつけば息がかかるほど肉薄されていた。


「あんたはどうする、佐源次さん」

「俺は今のところ大丈夫だ」

「なんで言いきれる」

「俺が強請の一味だと露見しているのなら、こうしてあんたの跡をつけさせるような命令をするわけがない」

「だといいな」

「当面は俺がうまく取り繕っておく。その間に姿を隠しな」


 市平太はこくりと頷いた。そして言った。

「佐源次さん、ひとつお願いがある」

「なんだい」

「綾のことだ。もし俺が捕まっても、けっして綾のことだけはばらさないようにする。だからお願いだ、もしあんたに縄が掛かって拷問を受けるようなことがあっても、俺のことは話してしまってかまわない。だが綾のことは、綾のことだけは、口に出さないでもらいたい」

 佐源次は市平太の目をじっと見詰めた。提灯のかすかな明かりでもわかるほど決意の滲み出た目をしていた。

「わかった、約束だ。綾さんの事だけは絶対に喋らない」


 力強く市平太は頷いた。


「これからどうにか時を稼ぐから、あんたは綾さんを連れて逃げろ、市平太さん」

「わかった、佐源次さんも充分気を付けてな」

「ああ、心配ご無用」


 にっと笑って佐源次は小走りに走り去って行った。


 市平太は三十三間川に沿って北へ向かい、亀久橋を渡って東平野町の長屋についた。この時、様子をうかがっていた仙太が、すっと闇に溶けて消えたが、市平太はまるで気付いていない。

 家に上がり、行灯もつけずに提灯の明かりで(へっつい)の前に行き、しゃがみこんで台の下に手を突っ込んで、薪の中から紙に包まれた小判を取り出した。綾の分も預かっていたので、最初六十両あったが、十何両かは市平太が遊蕩に使ってしまった。残りは数えて四十三両である。


 立ち上がって部屋の中をざっと見まわしたが、どうしても持ち出さなくてはならないような物はなかった。この家にもう戻って来ることはないだろうが、感傷にひたっている余裕などはない。とにかく急がねばならない。町の木戸が閉まってしまうと、逃げるのに困難になる。


 市平太は走って桧川屋に向かった。

 戸を叩くと、丁稚小僧の鶴松が顔を出した。

「どうしたんです市平太さん」

 声に(あなど)るような響きがあった。この小僧は子供のくせに大人を舐めているところがある。

「忘れ物を取りにきた」

「そうですか」

 鶴松が言い終わらないうちに、押しのけて潜り戸を潜った。


「お前、上に行って綾に帳場まで来るように伝えろ」

「でも、もう床に就いているかもしれませんよ」

「つべこべ言うな、さっさと呼びに行けっ」市平太は苛立ちを隠さずに、しかし声を落として怒鳴った。

 ふだん怒気を表した事のない市平太の剣幕に、気圧されたように束の間なって、鶴松は駆けて行った。

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