七の一
深川入船町の蕎麦屋かしまの向かいにある汁粉屋の、格子窓の下に置かれた長椅子に腰かけて、南町奉行所定町廻り同心柿沼秀之介と御用聞きの勇蔵は汁粉を食った。
時刻はもう五つ(夜八時)で、汁粉屋は行灯の火を落としていた。
格子窓の向こうには、かしまから漏れる明かりが見える。
店には他に、秀之介の小者の文造と平七、それに勇蔵の手下の佐源次が入り口を挟んだ向こう側にある窓から蕎麦屋を睨んでいる。外には他の手下ふたりが見張っているから、どぶを走る鼠すら見過ごさないほど厳重な配置であった。
「おっつけ、仙太が貞八を連れて来ます」
餅をくちゃくちゃ言わせながら勇蔵が言った。
一膳飯屋で切りつけ騒動を起こした貞八が語ったところでは、若侍三人組を立て続けに殺めている男は、蕎麦屋かしまの客なのだそうだ。ある日に棒手振りの嘆きを聞いていた者達の中の誰かがその殺人者に違いないと貞八は言う。そうと知った秀之介は、直ちに店を見張るように勇蔵に指示した。
棒手振りは、娘が三人の若侍に拐かされて川に落ちて死んだと嘆いていたという。
この娘の一件に関しては北町奉行所の担当だったので秀之介は知るのが遅れたが、北町と情報を遣り取りして、父親の名が彦十、娘がおきちと言うことがわかった。
彦十の嘆きを聞いて、その時店にいた客のうちの誰かが仇である三人組を順に殺している。すでにふたり殺害されていて、残りはひとりである。最後のひとりが殺される前に、何としても殺害犯を捕らえなくてはならない。彦十が嘆いていた時に店にいた者達が常連であるとすれば、またかしまに顔を出すかもしれない。貞八に客の顔を確認させて、素性を探る。一縷の望みに縋るような見張りであった。
「勇蔵、とんだ拾い物をしたな。慈悲はかけてみるもんだ」
秀之介が汁粉を啜った。
「切られた相手も穏便にと言っていましたし、貞八は叱って帰しました」
「ああそれでいい、なんだったら貞八に褒美をやりてえくれえだ」
「まったくで」
「しかし、食うに困ったからといって押し込みを企んだのはいただけない。お上もお上だ。ご改革で庶民をぎゅうぎゅうに締め付ければ、いつかは貞八みたいな人間で溢れかえっちまうぞ」
「お声が高いですよ」
「かまうもんか。政策の失態で庶民は職にあぶれ、あぶれた者が生きるために罪を犯し、仕事が増えるのは俺達町廻りや御用聞きばかりというわけだ。愚痴のひとつも言わなきゃやってられねえよ」
「仕事を増やしているのは旦那ですよ。お偉い方々が揉み消した案件を、こうして探索してるんですから」
「お偉い方々がどう考えていようが知ったこっちゃない。人殺しは放っておけないし、これから起こる殺しも止めなくちゃならねえ」
また汁粉を食い始めたところへ、仙太が貞八を連れて来た。
店内を見回した貞八が、佐源次に目を止めてちょっと首を傾げたが、暗がりだったせいもあり、それに気づいた者はいなかった。
「おう、ご苦労だったな」
秀之介が箸を持った手を上げた。
「お前が貞八だな」
「へい」
貞八は背を丸めてお辞儀し、小さな体をさらに縮めた。
「すまねえが、これからしばらく、この店に泊まり込んで、向かいの蕎麦屋を見張ってもらう。捜すのは、お前が以前見たという数人の客だ。些少だが手当ても出すから安心しろ」
勇蔵が席をどいて、替わりに貞八を座らせた。
「ここから向かいの店が一番よく見える」秀之介が続けた。「夜はここ、昼は店の邪魔にならないように二階で見張る、いいな」
「へい」
「お前が見た客達ってのは常連かい?」
「いえ、あっしは気晴らしに洲崎に来た帰りに、たまに寄る程度ですんで、そこまでは」
「顔は朧げだそうだな」
「はあ、お役に立てればいいんですが」
「いやいや、肩に力を入れっぱなしじゃあ身が持たねえ、気楽にな」
「かしこまりました」
「じゃ、頼んだよ」
後は任せたとばかりに立ち上がり、秀之介は小者ふたりに何か指示して、自分ひとりさっさと店から出て行った。
汁粉屋の中が、しんと静まり返った。皆の鼻息すら聞こえそうなほどである。
そうして、しばらく経った頃、佐源次が厠に立った。
貞八が彼を目で追い、佐源次に声が届かなくなったと思える頃、口を開いた。
「あのう、親分」
「なんだ」勇蔵が答えた。
「今出て行った下っ引の人、ちょっと自信がないのですが、あの人もたぶんあの時店にいました」
「本当か」勇蔵が身を乗り出すように訊いた。
「おそらく、としか」
「いや、それで充分だ。だが、そのことは今後口に出さないようにしてくれ。ちょいと考えがあってな」
「はあ、わかりました」
そうして勇蔵はちょっとの間考え込んだ。
佐源次は、材木問屋桧川屋を狙った強請だと、秀之介も勇蔵も考えていたのだが、今の所証拠も見当たらず確信が持てないでいた。単独の犯行か仲間がいるのかどうかも判断がつきかねた。蕎麦屋で男の嘆きを聞いていたとわかってもそれが証拠に結び付くわけではなかったが、心に留めておく必要はありそうだった。




