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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第六章 泣く男

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六の五

 熊井町の自身番は、入り口に三畳の座敷があって、奥は同じ広さの板の間になっていた。

 勇蔵は縄を打った貞八を板の間に入れると腰高障子を閉じていったん外に出た。

 貞八から押収した紙入れを(あらた)めてみると、たった三文きりしか入っていない。使ってしまったのか、もともとなかったのか。ちょっとの間考えを巡らせた勇蔵は、当番の番人に何事か命じて遣いに出し、入り口の上がり框に腰かけて待った。四半刻もかからなかっただろう、帰って来た番人から受け取った丼鉢を持って、板の間へと戻った。もうひとつ、布にくるまれた長い物を番人は渡そうとしたが、それはもうちょっと持っているようにと言った。


 貞八は、戸が静かに開いたのにつられるようにして、(うつむ)いていた顔を上げた。

 勇蔵の手には湯気の立った蕎麦の丼鉢があった。そうして番人に縄を解かせると、食いねえと蕎麦を貞八の前に置いた。

 貞八はずるずると音を立てながら食った。


 汁まで飲み干して丼鉢を置くと、

「どうだい」勇蔵は言った。「腹がくちくなると、どれだけ自分が馬鹿な考えで頭がいっぱいだったかわかるだろう」

 貞八は目を落として、空になった丼鉢の底を見詰めた。

「すまねえな、実はずっと前からお前を見つけていたんだが、声を掛ける前に見失っちまってな、でなけりゃ騒動を起こす前にお前を止められたんだ。本当にすまねえ」

 胡坐(あぐら)を組んだ膝に手をついて頭を下げる勇蔵を、貞八は見た。なぜ岡っ引が自分に頭を下げているのか、頭が混乱したようになって理解できない。三畳の部屋だから下げた頭が正座した貞八の膝頭に当たりそうである。


 頭を上げて、勇蔵が訊いた。

「なんか、嫌なことがあったんだろう。話してみな。話せば意外とすっきりするもんだぜ」

 勇蔵はそして口を(つぐ)んだ。貞八の方から喋り出すまで何刻でも待つ覚悟のようである。体を捻って座敷から煙草盆を寄せ、懐から煙管を取り出して煙草を詰め、火を着けると、貞八に差し出した。貞八が首を振って断ると勇蔵自身が吸い始めた。


 煙管の煙草が灰になる頃に、貞八は口を開いた。

「俺は、富久町に住む料理人の貞八と言います」

 それから母が亡くなり、無気力になって町を彷徨(さまよ)い歩いたこと、食い物を買う金が無くなり、自暴自棄になって押し込み強盗でもしてやろうと考えていたことなどを話した。

 話の接ぎ穂にうまく勇蔵が相槌を打つものだから、貞八は流されるようにして次々に話したのだった。

「以前、蕎麦屋で棒手振りの男が娘が(かどわ)かされて殺されたという話をしていました」

 そこで、勇蔵の片方の眉が吊り上がった。

「あの時店にいた人の誰かが、その棒手振りに代わって娘の(かたき)を討ったんだと思ったら、なんだか俺にも大それたことのひとつでも出来るんじゃないか、そんな気がしましてね」


「待て」やっと勇蔵が口を挟んだ。「棒手振りの娘の仇だって?そいつは若い侍の三人組じゃねえのか?」

「へえ、その通りで」


 たちまち勇蔵の顔つきが変わった。今までの温厚そうな親爺の顔が、ひきしまった御用聞きの顔になった。

 ――貞八の言うことが真実なら……。

 まさしく若侍ふたりは何者かに殺害されたのだ。そうして最後のひとりも狙われていることになる。柿沼同心の見立てとぴたりと一致する。


「その蕎麦屋はどこの蕎麦屋だ」

「入船町のかしまという店です」

「そこにいた者達の人相はわかるか」

「はあ、見れば思い出すと思うのですが」

「人相書きは無理か」

「そこまではっきりとは思い出せません」

「その時店には何人くらいいた」

「俺に、棒手振りに、浪人の爺さんに……」貞八はちょっと上を見あげて考えて、「そうそう、お店者と女がひとり、あとは……、もうふたりばかりいたと思いますが、はっきりとは覚えていません」

「上出来だ」


 勇蔵は興奮を鎮めるように、深く息を吸って、吐いた。


 後ろを振り返って番人に向かって手を出すと、番人は布にくるまれた細長い物を渡した。それを、勇蔵は貞八の前に置いた。ことりと硬い音が鳴った。

「人を傷つけた包丁だ。もう魚も野菜も切れやしねえ。人の血が染み付いた包丁で作った料理なんぞ食えたもんじゃねえからな。それでもこれを返すのはお前にとっての(いまし)めになるからだ。こいつを短慮のせいで使い物にならなくしちまったのはお前自身だ。これを見るたびに悔やめ」

「へい」貞八は深く頭を下げた。

「よし、富久町料理人貞八、お前を解き放つ。二度と悪さするんじゃねえぞ」

「へい」


 勇蔵は、貞八の手を取ると、二朱ばかりを握らせた。温かい金だった。

「当座はこれで(しの)げ。それとな、近いうちに今話した蕎麦屋の件で呼び出すことになるだろう。なるべく家にいるようにしてくれ。ああ、仕事探しはしていいぞ」


 帰り道、貞八は涙で目が塞がったようになって真っ直ぐ歩けなかった。

 人に散々軽侮され、世間から見放され、人生を閉ざされてしまったと思っていた。だが、ささやかな温情を持って接してくれる人もいる。人を傷つけるのも人間なら、人を助けるのも人間だ。それに気づいた時、真っ暗だった前途にほんの小さな、星のような輝きが見えた。その輝きは、今の貞八にとっては眩しいほどの明るさであった。

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