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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第六章 泣く男

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六の四

 覚悟を決めたものの、いざ押し込みに入ろうと思っても、体が固まって動かないものだった。

 貞八は、何軒も店を巡った。

 そうして、金物屋の前ではここは老人が営んでいるから可哀相(かわいそう)だ、とか、この飲み屋は荒くれ者が集まっているからすぐに取り押さえられてしまうだろう、とか、この飯屋の主は屈強だから敵わないだろう、などと何かしら理由を付けては、何もせずに通り過ぎたのだった。


 やがて、一軒の一膳飯屋の前で足が止まった。

 熊井町の辺りだろう、その店は建物自体は古そうだがまだ暖簾が汚れておらず、店を始めて間もないようだ。

 手垢の付いていない暖簾をくぐると、

「あら、貞さんじゃないの、いらっしゃいまし、来てくれたのね」

 意外な声を聞いた。仕出し料理屋水波で働いていた女中のお美代であった。ということは、この店は才助の店だ。お美代の夫である才助は板場にいるのだろう。会いたくない顔だった。貞八は引き返そうとしたが、

「さ、入って貞さん」

 お美代にそう言われたので、つい断りかねて土間に足を踏み入れた。

 入って右側に八畳ほどの板の間があり、客はそこに上がって膳で出された飯を食うようだ。今はちょうど誰も客がいない。がらんとして寂しい空気が漂っている。


「もうお客さんも来ないし、店を閉めようかと思ってたところなの」お美代は(ほが)らかに笑った。「あんた、貞八さんが来てくれたわ」

 言いながらお美代は、土間の奥にある板場に入って行った。

 そしてすぐに、お美代に腕を引っ張られるようにして才助が出てきた。

「いらっしゃい」

 才助は別段うれしそうでもない、ただの客が来たという顔である。

「まあ、ゆっくりしてけ」


「あ、いや」貞八が顔の前で手を振った。「今日は持ち合わせがないんだ。すまねえが、また今度な」

 才助は舌打ちしたようである。ならどうして来たんだというような呆れ顔をしている。

 そうだ、と貞八は思った。どうせ押し込み強盗をする度胸もない俺だ、恥をかいてでも才助に頼んでみようじゃないかと思った。

「実は、いっこうに働き口が見つからなくってな、それで」

 自分でも不思議に思えるほど卑屈な声音になった。

「駄目だ駄目だ」才助は貞八の言葉を鉈で断ち切るように言った。「うちはお前みたいな半端者を雇う余裕はない」

「いや、ここじゃなくていいんだ、知り合いの店でもあれば」

「馬鹿言うんじゃあない、お前みたいな陰気な人間を紹介したんじゃ、俺の評判がさがるというもんだ」


 才助の言葉が終わらぬうちに、貞八の頭には血が上っていた。逆上した勢いで、懐の出刃包丁を引き抜いていた。

 ――馬鹿にしやあがってっ!

 言葉にならない声を上げながら、貞八は出刃を振るった。

 才助はすんでのところで躱したが、切っ先が左の二の腕をかすめた。

 お美代が夜気を斬り裂くような悲鳴をあげた。

「この、商売道具で人を斬るとはどういう了見だっ」

 叫びながら振るった才助の右拳が、貞八の頬を打った。


 さらに斬りかかろうと出刃を振り上げたところに、貞八は後ろから誰かに羽交い絞めにされた。

「そこまでだ、よせ、もうよせ」

 御用聞きの勇蔵であった。

 勇蔵はずっと貞八の跡をつけていたが、知り合いに会ってちょっと挨拶を交わした隙に見失っていた。そうして勘を頼りに後を追っていたが、お美代の悲鳴を聞いて駆けつけたのだった。

 貞八は腕を後ろに(ねじ)り上げられ、出刃を土間に落とした。


「俺は富田町の勇蔵って御用聞きだ。神妙にしろっ」

「ちくしょう、ちくしょう」

 貞八の目からはいつの間にか涙が(こぼ)れ落ちていた。


「親分」切れた左腕を右手で押さえながら才助が言った。「ちょっとした喧嘩です。たいした怪我でもありませんし、どうか穏便に取り計らってくだせえ」


 貞八は涙が溢れる血走った目で才助を睨んだ。

 ――馬鹿にしやがって、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。

 あまりの悔しさで、貞八は声が出なかった。

 手前が俺を煽っておいて、善人づらしやがって。さっきは商売道具で人を切るとはどういう了見だなどとぬかしやがったな、格好つけやがって。いったい何様のつもりだ――。


「とにかくそこの自身番まで来い」

 勇蔵に引きずられるようにして、貞八は連れ出されたのだった。

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