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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第六章 泣く男

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六の三

 前日までは穏やかな気候が続いたのに、急に震えるほどの寒さが襲った朝だった。

 いつまでたっても起きない母をゆすると、体が冷たかった。

 貞八は母の口に顔を寄せたが、息が耳朶に触れることはなかった。

 母は静かに目を瞑って、口を軽く開けて、ただ眠っているようにしか見えないのに、ぽっかりと魂が抜けているのだった。


 とたんに気が抜けたようになった貞八は、母の枕元に座って、茫然と顔を上向け、何を見るでもなく天井を見ていた。こんな時に何をどうすればいいのか、まるで知らないし、思い付きもしない。

 そうしてどれほど時が経ったかもわからない。

 ふと、朝起きて小便に行っていないことに気付いて、ゆらりと立ちあがったが、途端に転んだ。足が痺れて自分の物ではないような感じだった。その物音を不審に思ったのだろう、隣のお杉婆さんが、戸を開けた。


「どうしたんだい、貞さん」

「おっかさんが、死んじまった」貞八は転んだまま、壁を見てそう言った。

「そうかい、そいつは気の毒だねえ」心底気の毒そうにお杉婆さんは言ったが、どこか、こうなることを予感していたような口ぶりでもあった。

 立ち去ったお杉婆さんは大家を連れてすぐに戻ってきた。

 後はすべて大家がてきぱきと差配し、またたくまに通夜も葬式も済んでしまった。


 葬式が終わって行灯もつけずに暗い部屋でひとりで座って、ほっと吐息をつくと、貞八はたちまち自分がひとりきりになったという気がした。昨日の朝までここで寝ていた母がもう土の下にいると思うと、胸の辺りに大きな穴が開いたような、何か自分の一部が欠け落ちてしまったような気がするのだった。


「おっかさん」

 声に出してつぶやいてみた。自分の声が、虚しく壁に吸い込まれて行った。そうして、目の端から涙が流れ落ちていることに気付いた。貞八は嗚咽した。


 翌日から、貞八は何をするでもなく、町を徘徊した。

 性悪な花板の嫌みに耐え、一人前の板前になろうとしていたのも、全て母のためであった。ただ、母に楽をさせたい一心であった。その母が亡くなってしまうと、生きていくことが空虚な物に思えて、何かをする気力がまったく湧いて来ない。しんと静まり返った部屋にいるのも嫌だった。今まで感じたことがない、壁が圧迫してくるような感じがし、息が詰まるのだ。腹が減れば屋台で蕎麦を食ったり(すし)を摘んだり茶飯を掻きこんだりした。

 何日も、貞八は町を歩き、家に帰って寝て、起きてまた町を歩いた。


 やがて、飯を買う金も無くなったことに気付いた。どうせ働き口を探したところで徒労に終わるだけだ。いっそのこと、もうこのまま飢えて死んでしまおうかとすら思う。

 ――それも悪くないな。

 部屋に寝転んで、冷たい畳に頬を付けて、ぼんやりとそんなことを考えた。

 だが、同時にそう簡単に死ねないことにも気がついた。このまま死んでいくには何日かかるのだろう。それまでどれほど苦しまなくてはならないのだろうか。


 腹が鳴った。

 まるで、自分に生きろと諭すように、その音は体の芯から響いてくるのだった。

 腹がすいて、(つら)くなってきて、腹が鳴るたびにその辛さが増した。あまりに辛くて、辛さが極限に達した時、何故だろう、脈絡もなく耳の奥で声がした。


 ――そんな馬鹿なことはねえ。


 誰の声だろう。

 そう、以前蕎麦屋で聞いた、棒手振り男の嘆きであった。


 棒手振りが嘆いていたのは悪辣な若侍に対してであったが、貞八が脳裏に思い描くのは世間であった。棒手振りの嘆きに応えて若侍を成敗する者はいるが貞八の嘆きに応じてくれる者はいない。だったら自分でやってやろう。


 ――ここまで追い詰められたのなら、人間、何だってできる。

 そんな気がした。

 人は生きるためなら何をやったって良いはずだ。何をやったって――。


 貞八は抜け殻のような体を起こし、台所に行くと包丁を握った。ずっと修業で使っていた出刃だった。それを手拭いでぐるぐる巻いて、懐に入れた。




 宵闇のたれこめた家並みの間を冷たい風が吹き抜けた。その道を、心をどこかに置き忘れてきたような、幽鬼のような人間がひとり歩いていた。

 御用聞きの勇蔵が、その姿を見逃すはずもなかった。

 ――あれはきっと何かをしでかすにちげえねえ。

 あの男が盗みや押し込みをするまで待って捕まえれば、手柄になる。だが見た所、それほど悪い男ではなさそうで、食うに困って泥棒でもしようというくらいの手合いだ。適当な所で声をかけて、飯でも食わしてやれば、気持ちが落ち着いて立ち直るかもしれない。

 肩を落とした、まるで生きることに疲れたような男の歩く姿を見ながら、勇蔵はそっと跡をつけはじめた。

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