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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第六章 泣く男

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六の一

 まったく総菜に手を付けない母を見て、貞八(さだはち)は飯を口に運ぶ手をとめた。

「おっかさん、ちゃんと食わなきゃだめだろう」

 母(たみ)の食欲が急激に衰えだしたのは夏に入ってすぐの頃だった。最初は暑気あたりか何かと軽く考えていたが、秋に入って気候が良くなっても食気(しょくけ)は戻らず、民の体は衰えていくばかりのように見えた。

「無理に食べたくはないよ」聞き耳を立てないと聞こえないようなか細い声で民は言った。「あんたがお食べ」

「俺だってそんなに食いたくはないよ。おっかさん、無理にでも食べてくれよ」

「そうは言ってもねえ。あんたも職探しで大変だろう。こんな時こそ体力を付けなくちゃ」


 働いていた仕出し料理屋水波が店を畳んでもう半月ばかりになる。だが、いっこうに貞八の次の働き口は見つからなかった。店の他の者達は次の働き口を、自分で見つけたり、見つからなかった者も店主や花板の奔走によって決まったのに、貞八だけが決まらぬまま世間に放り出されたような具合であった。はやく見つけねば、家賃も払えないどころか、月末には食い扶持すら底をつく。だが焦ってみても、公儀の改革のせいでどこも不景気で、雇ってくれないかと尋ねてみてもまったく相手にしてくれない。いや不景気のせいばかりではない。


 ――俺は努力をしてきた。人並み以上の才能だってある。

 自分ではそう自負するものの、相手は貞八の腕前を試そうとすらしない。

 人が自分と会うと、ひと目見て、こいつとはやっていけない、と思うらしい。門扉を閉ざすように相手は貞八との間に(へだ)たりを作ってしまう。


 どこかに雇われるのは(あきら)めて、もう料理人の口も断念して、口入れ屋で日雇い仕事でも探そうかとさえ思っている。


 そうしてじりじりと窮乏の一途を辿(たど)っているものだから、目の前の夕餉も、飯と汁に細い焼き茄子が添えられているばかりである。


 仕事探しの話などしても気が沈むから、貞八は話を変えた。

「明日こそは小石川の養生所に行こうな」

「もういいよ。こないだ行った時はなんでもないと言われたじゃないか。もういいよ」

「こないだって、一年も前の話だろう。あの時は病気が見つけられなかっただけかもしれない。今行けば、医者も何か手を打ってくれるさ」

「でもねえ、ここから二里(八キロ)くらいあるだろう。駕籠を雇う余裕なんてないんだし」

「どこかで荷車でも借りてくるよ。それで運んでやろう」

「やめとくれ、皆にじろじろ見られて恥ずかしいよ」

「じゃあさ、俺がおぶって行ってやるよ」

「無理だよ、やめときな」

「大丈夫さ、たかだか二里ばかり」


 翌朝になって、ふたりは養生所へと向かった。

 民も最初は歩くと言ってきかなかったが、富久町の家を出て新大橋を渡る頃にはもう足が動かなくなった。


 貞八は母を背負って歩いた。

 まだ十町(一キロ)ばかりしか来ていないから、ほとんど二里残っているが、貞八は歩いた。秋風が貞八の行く手を阻むように、正面から強く吹きつけた。

 母はすっかり軽くなって、綿を背負っているような気さえした。まるで体が朽ちたようですらあった。

 老いた母を背負う小柄な男を憐憫の目で見る者もいたし、不潔なものが通るように避ける者もいた。

 途中、昌平坂学問所の近くを通ったが、すれ違う武家達も、何か高らかに話し笑いながらすれ違うだけで、手を貸そうと優しさを見せる者はいなかった。秀才が集まる学問所でいくら勉学に(はげ)んでも、思い遣りは身につかないようだ。


「もういいよ、帰ろうよ」

 民はそんなことを言いだした。すれ違う人々の視線が痛いのか、息子の体を気遣っての事かはわからない。

「何言ってんだ、ここから引き返すより、養生所に行く方がよっぽど近いじゃないか」

 時々休みながら来たが、母の体が軽いとは言ってもさすがに貞八の腰はくたくたに疲れが溜まっていたし、手も痺れていた。それでも、母を医者に診せたい一心で歩き続けた。


 養生所に着き、一刻半(三時間)は待たされて、ようやく診てくれた医者は、以前と同じ医者であったが、民のことは覚えていなかった。

「どこも悪くはないな。年寄りだから、食い気が減るのもあたりまえだ」

 医者は横柄に言うのだった。まるで、こんなことで無駄な時間を取らせるなと言いたげな口振りであった。

「ま、滋養の付く物でも食べさせるんだな」

 それで診察は終わってしまった。待った時間の十分の一もないくらいの短い診察であった。薬すら処方しようとはしなかった。


「馬鹿にしてやがら」

 また母を背負って帰りながら、貞八は何度も吐き捨てるようにつぶやいた。

 何が貧民のための養生所だ。こんな江戸のはずれに建てて、長い道のりを歩いて来ても、真剣に診てくれやしない。藪医者め、あんちくしょうめ――。

 よっぽど疲れたのだろう、いつか耳元で母の寝息が聞こえ始めた。


 一歩歩くたびに、日が家並みの向こうへ釣瓶落としに沈んでゆき、道に描かれる影が長く伸びていった。

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