五の八
はてと思ったが、音吉は足を止めなかった。
ちょうど、新大橋を深川の方へ渡りきった時に妙な気配がしたのだ。同じ足の速さで間隔も変わらず、ずっと音吉の跡をつけて来ている者がいる。まだ昼過ぎで橋を渡る人々も多かったが、それでも掏摸の勘がまずいと囁くのだ。
これは家に直接帰るのはやめておいた方が良さそうだと直感し、御籾蔵にぶつかると家のある八名川町とは反対の南へと折れ、さらに御籾蔵の角を東へ向かい、猿子橋を渡って南六間堀町の路地に入ると、無闇に辻々で曲がって神明宮の前に出た。
やはり気のせいではない、付かず離れずつけてくる者がいる。
そうとわかれば、掏摸にとって追手を撒くなど造作もない事である。
神明宮に詣でるように見せかけて早足に裏へと通り抜け、南六間堀町、北六間堀町、北森下町と横道裏道を抜けて追手を撒いた。辻を曲がりつつ、横目で追手の姿を確かめたが、頭巾で顔を覆った羽織袴の身なりの整った侍である。
侍に付け狙われる覚えがないとは言えない。水野家の侍から書簡を掏った。しかし、音吉は身元が露見していない自信があった。
――さて、どこで知られてしまったか……。
家からは遠ざかってしまったが、木島弥三郎の手習い塾は目の前である。
ひとつ弥三郎に相談してみるかと塾に近づけば、人だかりがしている。最近こういう人だかりに遭遇する事が多いなと思った。
ふとかつて弥三郎が言った言葉が音吉の脳裏をよぎった。
――二度同じ事が続いたならば単なる偶然であろうが、三度目ともなると何かの必然だ。
不吉なものを感じつつ、手近にいたお店者に話しかけてみれば、
「ここの塾の先生が殺されていたそうだよ」
などと言う。
音吉は背筋に悪寒が走り、顔から血の気が引いていくのがわかった。
――何かの必然……。
先日弥三郎は、書簡の使い道を思いついた、もう動き始めている、そんなことを言っていた。しかし、書簡を利用する前に殺されてしまった。相手は水野家の手の者に違いない。
――弥三郎さんから俺の素性がばれたんだ。
とわかると、先程侍に追跡された事とも辻褄が合う。
そうして、背中に鋭い視線を感じた。また追手に見つかったのだ。
生唾を飲み込んで、音吉は人だかりから離れ、町の路地へと入り込んだ。
――とにかく身を隠さなくちゃならねえ。どうする、お佐知の所に転がり込むか。いや、お佐知の存在も知られているかもしれねえ。知られていなかったとしてもあの女を巻き込むのは気が引けるな。どうする、どうする。
音吉は、考えがまとまらぬまま、ひたすら町の裏道を歩き続けたのだった。
水野越前守は、恐懼し丸虫のように背を丸めて平伏する新村を前に、歯噛みした。
「と、取り逃がしたとは何事だっ」
越前守は腰を浮かせると、脇息を新村に投げつけた。脇息は畳に額を擦り付ける新村の髷に当たって、脇に控える用人西岡の膝の前まで転がった。
材木問屋桧川屋にかつて送った書簡が盗まれ強請に利用されたと知って、暫くどう対処すべきか考慮し、結局新村に処分に行かせた。それを、新村は律義に越前守に渡すべく持ち帰ろうとし、桧川屋を出たところで掏摸に遭って、財布と共に盗まれた。そうして、責任を持って処理しろと命じると、今度は、掏摸の身元を調べ上げた途端にその掏摸に逃げられ、行方は杳としてわからぬなどと言う。
「あんな書簡など、受け取った直後に竈にでもくべて灰にしてしまえばよかったのだ、このっ」
馬鹿者めと言いかけてあまりの怒りで喉が絞まって言葉が出てこなかった。越前守は振り上げた手を握りしめ、やり場に困ったように膝を叩いた。
「掏摸を草の根分けても見つけ出し、書簡を処分しろ。それまで屋敷に帰るに及ばず」
手を振ると、西岡が脇息を越前守の前に戻し、新村を連れて出て行った。
まったく、書簡一枚にこうも煩わされるとは思いもよらなかった。まるで名もない町人達が、改革によって倹約を強いる越前守に報復をしているようにすら思えてくる。
その改革すら、行き詰まりを見せ始めたところもあった。
「ままならぬ。何もかもがままならぬ」
越前守は歯をぎりぎりと噛んで、脇息を叩くしかなかった。




