五の七
木島弥三郎は数日考えた。
音吉の入手した書簡を役立てる最も手近な方法は、書簡に書かれていた桧川屋という材木問屋に売りつける事である。だが、それでは単に金が手に入るくらいなもので、一時楽に暮らせるだけで、手習い塾でなんとか糊口を凌いでいる今の生活を根本から立て直すことはできまい。
――ならば……。
弥三郎の思案は煮詰まりつつあった。
あの書簡を利用して、人生そのものを変化させようじゃないか。そう、仕官が良い。水野老中の政敵に持って行けば、小さな役くらいは貰えるだろう。しかし政敵と言っても誰がいる。面従腹背かもしれないが、今の幕閣には水野に面と向かって反抗するものはいない。だとしたら、いっそのこと水野家に売り込むか。うんそれがいい。書簡と引き換えにして仕官を要求する。断れば書簡を公表するぞと脅せば、よもや断られることはあるまい――。
そうと決まれば動くのが早かった。
正面切って門を叩いても重臣と面会が許されるわけがないから、まず水野家に出入りしている中間を見つけ、酒を奢って仲を深めた。その中間は何人かの家臣を知っていたが、中でも用人の西岡という者の顔を知っていたのは幸いだった。そうして中間に西岡の日程を調べさせ、西岡が藩士達との会合を開くことを突きとめた。
その日の夜、弥三郎は中間と共に、会合が行われる京橋の料亭の門を、向かいの商店の陰で見張った。
門へと駕籠が入り、中間にそれが西岡の駕籠だと教えられると、弥三郎は小走りに近づいた。
弥三郎が門をくぐると、ちょうど西岡が駕籠から降りる所であった。
「卒爾ながら、水野様御用人の西岡様とお見受けいたします」
おもむろに声を掛けて近づく弥三郎に、供の者が立ちふさがったが、かまわず弥三郎は続けた。
「紛失された書簡についてお話がございます」
西岡は弥三郎を一瞥して料亭の入り口に向かったが、その足をふととめた。弥三郎を遠ざけようとする供の者を制した。
「後日、お屋敷に伺いますので、何卒、御面会をお許しくだされたく存じます」
頭をさげる弥三郎に、西岡は、
「いや、それには及ばぬ。付いて来い」
そう言って料亭へと入って行った。
部屋を用意させると、西岡は弥三郎とふたりきりで会談を始めた。弥三郎はまず名乗ったが、西岡は興味なさげな顔をして、隅の柱を見詰めている。西岡は五十歳くらいのようで、皺はさほど多くはないが、行燈の光の加減であろうか、額の皺だけがずいぶん深くみえる。
「まず、その方が持っているという書簡の内容を訊こう」
西岡が切り出した。
「はい、多摩秋川の村民が起こした訴訟をご老中水野様が圧力をかけ揉み消された、という物です」
「ふむ、それがどうしたというのだ」
「その書簡をお返しいたしますので、どうか、私を水野様の下でお使いくだされたく」
「家臣なら間に合っておる」
「でしたら、ご存じよりの他家にでもご推挙ください」
「その書簡にそれほどの価値があると思っておるのか」
「それは、御用人様がご存じでございましょう」
「ふん、小賢しいのう」
西岡は苛立たしげに、膝の上で扇子を開いたり閉じたりしている。その指がはたと止まった。
「では、書簡を出せ」
「いえ、今は持っておりません。私に何かございましたら、書簡が表に出る手筈になっておりますれば、どうぞご承知おきくだされたく存じます」
「仕官と引き換えというわけか。まったく小賢しいのう」
そしてまた西岡は柱を見詰めた。
「いいだろう、だが儂の一存というわけにもいかぬでな、三日後のこの刻限にここへ来い」
「は、吉報を期待しております」
深川北森下町の手習い塾の一室で、木島弥三郎の遺体が見つかったのは、その翌日の朝であった。
「こいつはひでえな」
南町奉行所定町廻り同心柿沼秀之介が腰を落として、遺体を見て思わず呻くようにつぶやいた。
遺体は酸鼻を極めていた。
後ろ手に縛られ、手の爪が三枚ほども剥がされ、指も何本か折られておかしな方向に曲がっていた。顔も痣だらけでもとの造作がわからないほど腫れ上がってい、口の周りや顎には血が固まりこびり付いている。
「拷問を受けておりますね」御用聞きの勇蔵が顔をゆがめて言った。「ただの物取りではないようですな」
遺体の側には唾液と血で汚れた丸まった手拭いが落ちていた。
「これを詰め込まれて口を塞がれていたんだな。これじゃ、叫び声をあげても近所の者は誰も気付かなかったはずだ」秀之介が十手の先で手拭いをちょっと持ちあげて言った。
部屋の中は徹底的と言っていいほどに荒らされ、木島の蔵書はすべて床の上に投げ出されていたし、箪笥も机の引き出しもすべて引き出されて、物色されていた。
秀之介は部屋をぐるりと見回した。
「下手人は何かを探していたようだ。何を探していたんだ。目当ての物は見つけられたのか」
「金目の物は盗られてはいないようです。とにかく、手下に周囲を聞き回らせます」
「そうしてくれ。まったく、最近人死にが多すぎるな」
心に湧き出た憐憫を吐き出すように、秀之介は吐息をついたのだった。




