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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第五章 巾着切り

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五の五

 五つ(午後八時)に本所尾上町の料亭相ノ木を出た新村という侍は、店に用意させていた駕籠に乗り込んだ。音吉はその向かいの荒物屋の軒下から、それを見ていた。お佐知から聞いていた通り、長身な上に筋骨(たくま)しく、顎の張った謹厳そうな顔つきをしていた。ちょっと見ただけではお佐知に言い寄るような好色な男にはまったく思えない。


 新村を乗せた駕籠は、水野家の西丸下の上屋敷でもなく、三田の下屋敷でもなく、まったく正反対の東へと向かって走った。音吉は怪訝に思いつつも、その跡をつけた。駕籠に乗られては、さすがに腕利きの巾着切りでも、懐の物は奪えない。いつ機が訪れるかまるで判然としないが、とにかくつけた。


 駕籠は竪川を渡り、辻をいくつも曲がり、やがて、深川島崎町の材木問屋桧川屋の前で止まった。新村が駕籠を降り、すでに閉まっている店の戸を叩くと、潜り戸からお店者が顔を出した。

 音吉はおやと思った。

 今の手代のような男は、以前かしまという入船町の蕎麦屋で見かけた男だ。棒手振りの男が娘を(かどわ)かされたと嘆いていたあの時だ。男が女を店に呼び入れたので印象に残っていた。


 新村は、潜り戸の中に飲み込まれるように消えた。




「桧川屋」新村は、出された酒肴に手を付けず、用件を伝えた。「例の書簡を返してもらう」

 静かな声音であったが、地から湧き出たような深い響きを持っていて、前に端座する桧川屋六左衛門に有無を言わせぬほどの圧力があった。書簡とは先日強請(ゆすり)に使われたあの書簡である。報告した覚えもないのに、水野老中が知っていたことに権力の底知れぬ闇の力が動いているように思えて、六左衛門はぞっとした。

 恐懼し、しかし当然のように六左衛門はためらった。あれを返してしまえば、せっかくの老中首座とのつながりが失われてしまう。だが、否と言える権利も胆力も六左衛門には、ない。

(かしこ)まりました」

 深々と頭を下げて立ち上がり、客間を出て行った。やがて戻ってくると、六左衛門はおずおずと書簡を差し出した。




 四半刻も経っただろうか。音吉は隣家の角から辛抱強く見張り続けた。店の前で待つ駕籠舁きが、退屈そうに欠伸をしていると、潜り戸が乾いた音を立てて開いた。新村を見送りに出て来たのは先程のお店者とは違い、老年の男でこの店の主であろうか。

 音吉は今しかないと思った。また駕籠に乗られては、掏摸をする機を逸してしまう。

 ゆらゆらと酔ったように歩きながら、音吉は駕籠へと向かう新村の後ろからすばやく近づいた。


 頭を下げる店の主を一瞥することもなく駕籠に乗ろうとする新村に、音吉がぶつかった。絡みつくようにして懐の物を()り、掏った物を自分の懐に入れつつ、わざと大仰に尻もちをついた。流れるような動きであった。

「無礼者っ」

 夜の闇を引き裂かんばかりに新村が叫んだ。手を刀の柄に掛け、今にも抜き打ちに斬らんと腰を落とす。

「よ、よ、酔っ払っておりまして、へい。平に、平にご容赦くだせえましっ」

 音吉はすぐさま土下座をして、赦しを請う。

 数瞬、鋼のように冷たく張り詰めた空気が辺りを満たした。

「ふん、下郎め。刀を汚すのも惜しいわ」

 新村は背を伸ばし吐き捨てるように言って、駕籠に乗った。


「申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ」

 口だけで謝りつつ、音吉は膝を器用に使って後ろさがりに闇に溶けていく。

 音吉の気配がぷつりと消えると、走り始めた駕籠から()ぜるように新村が飛び出した。

「待てっ、今の男、待てっ」

「いかがなさいました?」六左衛門が訊いた。

「掏られたっ、財布も書状も掏られたっ」

「なんと」

「捜せ、今の酔っ払いを捜すのじゃっ!何を茫然としておる、捜せと申すにっ!」

 駕籠舁きや六左衛門に怒鳴り散らすが、皆、途方に暮れておろおろとするばかりであった。


 新村の怒声を背中で聞きながら、闇の底で息をひそめる家々の間を音吉は走った。新道、横町、裏道と、辻々を折れに折れ、走りに走った。

 ――ざまみろ。

 音吉はほくそ笑んだ。

 下郎だって?けっ、下郎で結構。その下郎に大事な懐の物を掏られたあんたはいったい何様だろうな――。

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