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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第五章 巾着切り

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五の三

 深川蛤町にある仕出し料理屋水波(みずなみ)の座敷に、店の者全員が集められていた。八畳と六畳の二間続きで間の襖は取り払われ、奥の六畳に主の五郎兵衛(ごろべえ)が座って、傍らには番頭と花板がいた。残りの者が五郎兵衛と向かい合って居並んでいる先頭に才助(さいすけ)とお美代(みよ)が座っているのが何故かなという疑問がちらりと頭をかすめたくらいで、貞八(さだはち)は八畳間の隅に座った。

 板場の男衆、裏で働く女中達、全体をまとめて差配をする番頭や仕事の受注や手配りをする手代達など、十数人がひしめいていた。


「ああ、皆揃ったか」主の五郎兵衛は軽く咳払いをした。「こうして皆に集まってもらったのは、ひとつ話さなくてはならないことがあるからだ。だいたいの者はもう知っていると思うが」

 主は皆を見回した。ひとりひとりを見るように、右から左へゆっくりと頭を回した。

「この店を畳むことにした」

 部屋の中の空気が一瞬凍り付いた。そうして溜め息とも(うめ)きともとれる声がそこかしこから漏れ出た。

「皆には悪いとは思っているが、もうずっと以前から注文が減ってきていて、やりくりが厳しくなっていた所に、今度のご改革だ。諸々倹約、奢侈の禁止、そんなお触れが出されてお手上げだ。それが駄目押しになってもうどうにも立ち行かなくなった」

 皆、五郎兵衛の言葉の意味を理解しようとしているのか、むっつりと口を閉じて彼を凝視していた。

「閉めるのはふた月後になる。花板や番頭の行き先は決まっているのだが、皆の落ち着き先も閉めるまでに何とかしてやりたいと思っている。それと、才助とお美代は夫婦になって店を持つことにするそうだ」

 言葉に合わせるように、才助とお美代が前に出て皆の方を向いて、頭を下げた。

「皆も、店を出したいと考えている者がいるなら言ってくれ。出来る限り力を貸そう」


 仕事が終わり、貞八はうなだれるようにして帰り道を歩いた。

 だいたいの者は店を仕舞うのをもう知っていると主は言った。花板や番頭はともかく、才助やお美代まで知っていたことになるが、貞八はまるで知らされていなかった。ひとり真っ暗な闇に置き去りにされているような疎外感が体を包むようだった。

 疎外感ばかりではなかった。同時に絶望感も貞八の首を絞めるようであった。

 才助が店仕舞いを知っていたことは良いとしても、なぜお美代と夫婦になるのだ。お美代は性格に明るさがあり、裏表もなく誰からも好かれるような女だった。貞八も淡い想いを抱いていたのだ。それがいつの間にか才助とそういう関係になっていたのだ。


 全てが、自分の知らぬ所で回っていた。

 体に(まと)わり付く疎外感は、一向に貞八を離さず、それどころか押しつぶしてくるような重苦しさを増していくのだった。


 蛤町の長屋に帰ると、母の(たみ)が夕餉の支度をしている。

「お帰り」民が弱々しく微笑んだ。「今日はだいぶ体が楽だから、作っておいたよ。もうちょっとで出来るからね」

「そんなことはいいよ。俺が替わるから、風呂にでも行ってきたらどうだい」

「あそこまで歩くのは億劫だねえ」

「そうかい、じゃあ、湯浴みでもするかい」

「そうだねえ」

「じゃあ後で湯を沸かしてやろう」


 飯を食べ終わると、貞八は(へっつい)で湯を沸かし、隣から(たらい)を借りて来て、水で埋めて湯を注いでぬるくしてやった。

 盥は土間につっかえそうなほどだから窮屈ではあるが、民はありがたそうな顔をして体を洗っている。


「背中を流してやるよ」

「そうかい、悪いねえ」


 貞八は染みと皺ばかりの母の背中を手拭いで(こす)ってやった。指に骨のごつごつした感触ばかりが伝わってきた。

 母が貞八を産んだのが三十三の歳だから、もう六十になる。貞八にはそれよりもその肌が老けてみえた。父は貞八が物心をついた時にはすでに家を出ていなくなっていた。女手ひとつで貞八を育てるために働き詰めで、貞八が給金を貰うようになってもまだ働くのが生きがいとでも言うように働いた。飯炊きに出たり、内職で針仕事をしたり、病で倒れるまで母が手を休めた所を貞八は見たことがなかった。そういう苦労が垢となってこびりついたような背中だった。


 五郎兵衛はああ言っていたが、貞八の次の働き口がすぐに決まるという保証はどこにもなかった。家に蓄えがあるわけではない、路頭に迷うことになったら、この母をどうやって面倒を見ればいいのか。そういう不安が腹の中に湧いてきた。


 貞八の目の端から、冷たい粒がこぼれ落ちて、母の背に落ちた。民はそれに気づいたのかどうか。背をこすられて気持ちよさそうに微笑んでいる。

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