一の一
かしまという蕎麦屋の中は暗かった。
行灯の明かりが隅々を淡く照らしてはいるが、店の大半は幽愁の帳が垂れこめているような暗さに満ちていた。その暗さと静寂の中で、何人かいる客は押し黙って掛けだったり盛りだったりの蕎麦を啜ったり、酒を口に運んだりしていたが、ただひとり、時々くぐもった声を響かせるのだった。
「そんな馬鹿なことはねえ」
酒がすっかり回った棒手振りのような風体の男が、何度目かの同じ文句を、おくびまじりにもう一度呟いた。
その時、女が入り口の前に立って、暖簾の間からちょっと顔を入れて、店の中を覘きこんだ。戸口から女と一緒に生ぬるい風が吹き込んできた。
店の内に吹き込んだその風が運んできたのは、深川須崎を吹き渡ってきた清爽な潮の香りなどではなく、材木置場の蒸れたような木の匂いだった。木の匂いは鼻にまとわりつくような濃厚さをもっていたが、しかし、男ばかりの体臭で充満した店の空気に覆われるように、すぐに掻き消されてしまうのだった。
棒手振りの唸るような呟きを聞くのにももういい加減飽きていた客の男達は、奇妙な物でも見るように一斉に女に目を向けた。
二十歳くらいの女は、店の前を通りかかった時に窓際の席に座っていたお店者に呼び止められ、入るように誘われたものだから、しぶしぶといった様子で暖簾を手で分けたのだった。日も暮れてしまったし、ひとりで帰るのも不安だし、かと言って顔見知りの男に誘われるまま、まだ西の端にはお日様の名残があるのにすでに酒の匂いが漂っているような店に入っていいものかどうか、敷居を跨ぎもせずに思案している。
何度かお店者が女に向けて手招きをした。女は根負けしたように土間に足を踏み入れて、男のところにためらいがちに歩いて行って、飯台を挟んで座った。
新しい客が入ってきたのに、店の奥からは誰も出て来はしないし、いらっしゃいのひと言もありはしない。真っ白の髪の親爺がひとりで切り盛りしていて、これでよく潰れないものだと皆が不思議に思うほど愛想のない店だった。常連の客は慣れていて、店に入ると板場に向かって大声で注文する。すると、しばらくしてその無愛想な親爺が蕎麦なり酒なりを、むすっとした顔で持ってくるという具合である。
「酒でも飲むかい」と訊くお店者に、「いいわ、お酒の匂いさせてお店に帰るわけにいかないもの」と女は断った。
女は物珍しそうに店の中を見回した。
八畳あるかなしかの土間の壁沿いに、小さな飯台がいくつか置かれ木の椅子が添えてあり、壁は煤けたように黒ずんで、板場の近くの席では「ひでえもんだ」と棒手振り男が唸っている。その横の飯台で浪人と見える老人がわびしそうに盛り蕎麦を啜り、隅では小男が酒をちびちびやっていて、入り口の近くでは職人風の男が思案ありげに、両手で覆うように持った酒の碗を見詰めている。こちらに背を向けて酒を呑んでいるのは、後ろからでは何を生業にしているのか判別し難い中年で、ちょっと近づきたくはないと思わせる嫌な雰囲気が滲み出ていた。
「そんなことがあってたまるか、ええ、そうだろ、そうだろう」
棒手振りは誰に話しているわけでもない、ただひとりそう呟いている。
半ば好奇心も手伝ったのだろう、たまりかねたように隣の飯台にいた浪人が椅子をずらして、棒手振りに体を寄せて、
「親方、何があったか知らないが、儂に話してみぬかの。話せば気分も晴れるかもしれんぞ」
そう穏やかにささやいた。
「聞いてくださるか、ああ、聞いておくんなせえ、旦那」
棒手振りは手のひらで目をこすった。涙が溢れているようである。そうして、喉をならして酒を呑んだ。
「うちのおきちは何もしていねえ。ただ歩いていただけなんだ」
「おきち、というのは、お内儀かね、娘御かね」
「そう、娘だ、十四の。おきちは、道を歩いていただけなんだ。そうしたら行方知れずになった。男達に攫われて酷い目に遭っていたんだ」
浪人は喉の奥でうなった。心の痛みが喉から漏れ出てきたようだった。
「何日か経って見つかった時には、おきちは死んでいた。小名木川の橋の脚に引っ掛かっていた。おきちが、死んで引っ掛かってたんだ」
浪人は答えず、ただ黙って手を伸ばして自分の徳利を棒手振りの椀に傾けた。
「奉行所は形ばかりのお調べはした。土地の親分も動いてはくれたさ。そして、おきちがどこかへ連れ去られるのを見ていた人が見つかった。空家から逃げ出したのを見た人もいたし、おきちを三人の侍が追いかけているのを見た人もいた。きっと、逃げ出したのに侍達に捕まって、川に投げ落とされたに違いねえ」
棒手振りは鼻を啜った。
「攫ったのは侍の若造だったそうだ。三人組で、いつもここいらで悪さをしている餓鬼共だ。だけど、お上に訴えても、相手は旗本の子弟だし、おきちが死んだのは自分から川に落ちたのか、落とされたのかわからないから罪には問えねえ、そんなこと言いやがるんだ、あの唐変木」
唐変木と言うのが、町方同心のことなのか、その御用聞きのことなのかはわからないが、棒手振りは続けた。
「そんな無道なことがあってたまるか。なあ、そうだろ、そうだろう、旦那」
浪人は棒手振りの背中を慰めるように撫でた。そうしてちょっと咳をした。体のどこかが悪いのかもしれない、そう思わせるような、嫌な咳だった。
皆、見るに堪えないのだろう、その光景から顔をそむけて、耳だけで話を聞いていた。聞いたところで自分達にはどうすることもできない、苛立ちと悔しさと絶望が募るだけの話だった。顔をしかめる者もいたし、目をつぶっている者もいたし、黙然と蕎麦を啜る者もいたが、彼の話を一言一句漏らさず聞いていた。
「おきちは十四だった。まだ世間も知らねえ娘だ。それが何日も酷い目に遭って死んだのに、そいつらには何のお咎めもねえなんておかしいだろ、間違っているだろ」
その後の棒手振りの言葉は言葉にならなかった。ただわんわんと泣きじゃくりながら言葉らしき何かを口から吐き出していた。そうしてやがて、男は泣き疲れたようにうなだれて寝息をたてはじめた。
また、かしまに静寂が訪れた。




