序
南町奉行所定町廻り同心柿沼秀之介は首を捻った。
この血にまみれた若者の亡骸は、地面に座り、腹に脇差を立て、塀に背をもたれさせて、頭は仰向き苦痛とも驚愕ともとれる表情をして、恨むように目を見開いて天を睨んでいた。身形は悪くなく、それなりの家柄の子息と見える。御用聞きの勇蔵の調べた所では、旗本か御家人の息子らしい。
切腹したのは夜の間であったろう。地面にすっかり血が染み込んで、発見者の物か野次馬の物か、周りはずいぶん踏み荒らされてしまって足跡だらけだ。
「何でこんな目に立つ道端で腹を切った」誰に言うともなく呟いた秀之介の言葉は、まるで遺体に語りかけるようでもあった。「自分の屋敷でひっそりとやればいいじゃねえか」
正覚寺の脇の仙台堀川沿い道で、深川寺町の通りからちょっと入ってはいるが、人目に付く場所である。寺町の通りは日のあるうちはそれなりの人通りがあって、現に秀之介が来た時には、もう人集りが出来てごった返していたほどだ。
「さあて」隣でその呟きを聞いていた勇蔵が首を傾げた。
「切腹の現場を見たのは久しぶりだけどな、腹を切るとこんな死に様になるものだったかな」
「死に様ですか?」
「腹を切ると痛みで前かがみになるはずだ。こんなふうに仰け反るもんだろうか。いや、それはあり得るか。あり得るとしても、座って切ったんなら、腹からこう血が流れて膝の下に血溜まりができるだろ。前の時も血の池って言い方がまったく的確なほどで、血溜まりに蹲った遺体が浮いているようだった。これは、前の方にはたいして血が流れてねえように見えるんだな」
聞いていた勇蔵が顎に手を当てて唸った。
「立って腹を切ってから座ったと考えたらどうだろう。ひとりじゃ無理だ。誰かがそうしたんだ。で、立っていたこの若造の体に体を近づけて、こう刀を動かすと」と秀之介は仮想の相手に向けて刀を横に動かす手真似をした。「刺した人間の体が邪魔して血が飛び散らないし、足があるから地面に血が流れなくなるわな」
「そんな殺め方ができるのは、それなりの手練ですぜ」
「となると武家どうしの諍いが原因かもしれねえな」
「やっぱり殺しでしょうか」
「自害だとすると奇異に過ぎるし、殺害されたとすると何故こんな小細工をしてまで自害に見せかけたのか、合点がいかねえんだよ。いずれにせよ、詳しく調べてみねえとどうもなあ」秀之介は頭を掻いた。「目付が来たら、とりあえず見立ては伝えておこうかね」
死んでいるのが旗本か御家人の子息である以上、目付の領分に入る案件であった。調査が進み、殺害されたと判明し、それが町人の仕業と分かったのなら下手人捜しに駆り出されることもあるが、自害ならば秀之介の出る幕はまったくないのだった。
――いや、これは確実に殺しだ。
定町廻り同心の勘がそう言うのだ。
そしてこんな手が込んだ細工をするということは、必ず次がある。次に繋げる為に下手人は策を弄しているんだ――。
何か見えない糸が体に絡みついて来るような不吉な気配を感じながら、秀之介は、晩春の爽やかな朝に似つかない陰惨な光景を見つめるのであった。
この事件の発端は十日程前に遡る――。




