四の六
三日経って、水野の書簡が朝、店の雨戸の間に挟まっているのを丁稚小僧が見つけた。桧川屋六左衛門は小躍りして喜んだ。
金を掘り出した佐源次は、その日の夕刻、市平太の長屋を訪れていた。
市平太だけでなく、すでに綾も来ていて、三角に座った三人の真ん中に小判の山が築かれている。三人は、壁の耳に用心して密やかに話し、障子の目を避けるように額を寄せ合った。
「じゃあ」と佐源次が手を伸ばした。「俺は三十両いただくぜ」
と二十両ずつ紙で包まれた塊を取り、もうひと包みに手を伸ばし、紙を破ろうとした。
「あ、ちょっと待て」
佐源次の金包みを破りかけた手を市平太が止めた。
「なんだ」佐源次はむっとした。まさか、ここにきて取り分を減らせと言いだすのではないか、という疑念の目で市平太を見た。
「あんたの取り分は四十両でいいよ」
市平太が、思っていたのとまるで反対のことを言うものだから、佐源次はいきなり頬を殴られたような顔になった。
「いや、最初に決まった通りでいいよ」
「佐源次さんにはずいぶん働いてもらったし、強請を取り逃がしたってことで同心の旦那や親分からこっぴどく叱られたって言うじゃねえか。その詫びと感謝の気持ちと思って、十両余分に、どうか受け取ってくんな。それに、妹さんを身請けしたら、その先の暮らしに何かと入り用だろう」
佐源次は意外な言葉を聞いて、呆然と市平太を見た。しかし、すぐに首を縦に振った。
「そうか、じゃあ遠慮なくいただくとしよう、綾さんもそれでいいかい」
「ええ、私は端っからこんな大金欲しくもありませんでしたから」
「そうはいかねえ」
と市平太は二十両包みを綾の前に置いて、すぐに別の包みを破って十両をさらに重ねた。
「いりません」
と綾はそっぽをむいた。見るのも怖ろしいという顔である。
「こんな大金持っていたら、きっと何か良くない目に会うに決まってます」
「そう言われたっておめえ、俺だってこんな大金持っていたくねえ」
ふたりのやり取りを見ていた佐源次が声をあげて笑った。
「あんたら、人間がずいぶん小せえな。それでよく最初は五百両せしめようなんて考えたもんだね」
「ああ、今思うと自分が恐ろしいよ」と市平太は自分の手に三十両握った。「これだけあれば、三年は楽に暮らせる。いや、切り詰めれば十年だって生きていける。そんな大金がいま手の中にある。これだけの額で充分怖ろしい。もし五百両もあったら気が病んでしまいそうだ」
市平太の手は、小刻みに震えていた。
「そうでしょう、こんな大金持っていたくありませんから、市平太さん、預かってちょうだい」綾が三十両を市平太の方へ押した。
「ば、馬鹿ばっかり言いやがる。じゃあ、佐源次さん、持っていてくんねえか」
「俺だってごめんだよ」
「へっ、俺達皆、人間が小せえなあ」
「ちげえねえ」
三人は声をあげてどっと笑った。
空を見上げても、星々は垂れ込めた雲の向こうに隠れ、庭を眺めたからと言って、別に何が見えるわけでもない。ただ、生ぬるい風が闇の中に眠る松の木をざわめかせ、縁側に立つ屋敷の主|水野越前守忠邦《みずの えちぜんのかみ ただくに》の頬を撫でた。雨は降っていなかったが、またいつ降り出すかもしれない危うさを孕んだ湿った空気が庭に満ちていた。
報告をし、廊下を去って行く用人西岡の足音を聞きながら、越前守は胸を撫で下ろした。いつ書いたかも内容さえも朧げな書簡が、この数日首を絞めつけるように越前守を苛んでいた。
南町奉行鳥居甲斐守が念のためと強請事件を報せてきたのだが、おかげで無駄に神経をすり減らした。余計なことをしてくれたものだ。
訴訟を握り潰させた証拠などが世に出て来れば、始まってちょうど一年経ち、やっと順調に回り始めた改革の車輪が止められかねぬ。老中首座の越前守が推し進める改革が頓挫してしまえば、この先の公儀の存続にすら関わりかねない、とさえ思う。
腰の後ろに回した両手の中で弄んでいた扇子を、越前守はひとつ鳴らした。
――土井大炊頭が危ない。
越前守は、学者のように端然とした居住まいの男の姿を思い出した。
あの男は、儂に従順な態度でいながら、いつ、何を切っ掛けにして翻意するかわからぬ。充分気を付けておかねばならぬ――。
――阿部伊勢守もあなどってはならぬ。
まだ二十代の若さでありながら、奏者番から寺社奉行へと出世の階段を駆け上っている切れ者の若者の姿が思い浮かんだ。かの男の、出世の階段を駆け上って来る足音は、越前守の背に異様な圧力を与え、突き上げるように不安を覚えさせる。
――まあいい、あんな若造のひとり、いつでも捻り潰せる。それよりも、これ以上紙切れ一枚に苦慮させられぬよう、早急に始末をつけておくべきか。
けっして皎潔な出世道を歩んできたわけではない。商人からの多額の借金を踏み倒し、公儀重鎮に賄賂をばら撒き、手を汚すのを厭わず崖にしがみつくようにして人臣として最高の頂きにまで登り詰めたのだ。そうして積み重ねて来た過去の汚点が、今になって魔物のように足に絡みつき引きずり落とそうとして来る。今踏みしめているのは崖っぷちのいつ崩れてもおかしくない危うい地面だ。
――いつも通り、新村を使って桧川屋自体を消させるか。いや、これ以上騒ぎを大きくせぬ方が賢明か。いっそ何もせぬのが正解かもしれぬ。いかがすべきか。はてさて、頭の痛いことじゃて。
またひとつ、越前守の手の中で扇子が高らかに鳴った。




